【キリストの足跡をたどる】011_洗礼ってなに?

洗礼ってなに?

【聖書】マルコの福音書1:1~5 
バプテスマのヨハネってなにもの?
「悔い改め」ってなに?
バプテスマってなに?
人は洗礼によって救われるのか?
まとめ

【マルコの福音書1:1~5

1:1 神の子、イエス・キリストの福音のはじめ。

1:2 預言者イザヤの書にこのように書かれている。「見よ。わたしは、わたしの使いをあなたの前に遣わす。彼はあなたの道を備える。

1:3 荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意せよ。主の通られる道をまっすぐにせよ。』」そのとおりに、

1:4 バプテスマのヨハネが荒野に現れ、罪の赦しに導く悔い改めのバプテスマを宣べ伝えた。

1:5 ユダヤ地方の全域とエルサレムの住民はみな、ヨハネのもとにやって来て、自分の罪を告白し、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けていた。

前回まで、イエス・キリストの誕生物語を追いかけてきました。その後のイエスの少年時代はルカが一部を記録していますが、今回は、それからさらに時間を経て、キリストの「公生涯」と呼ばれる、30歳頃から十字架までの3年半にわたる生涯にスポットを当てて参ります。今日はその舞台設定となる場面です。

バプテスマのヨハネってなにもの?

バプテスマのヨハネという人は、イエス・キリストが生まれる少し前に、ザカリヤとエリサベツという老夫婦から生まれた、旧約の時代の最後の預言者と言えます。というのは、将来、救い主が現われる前にこのような預言者が登場する、ということが旧約聖書に書かれていたので、この記事の記者マルコは、それが現実となったことを、冒頭で証言しているのです。

【マラキ書3:1

「見よ、わたしはわたしの使いを遣わす。彼は、わたしの前に道を備える。あなたがたが尋ね求めている主が、突然、その神殿に来る。あなたがたが望んでいる契約の使者が、見よ、彼が来る。―万軍の主は言われる。」

※「わたし」「主」「契約の使者」「彼」「万軍の主」=救い主イエス・キリスト
※「わたしの使い」=バプテスマのヨハネ

【イザヤ書40:3

荒野で叫ぶ者の声がする。「主の道を用意せよ。荒れ地で私たちの神のために、大路をまっすぐにせよ。」

これらの預言のとおりにバプテスマのヨハネが現われ、「主の道を用意せよ」と荒野で叫んでいたので、人々が集まって来ると、彼は、救い主かつ裁き主でもある主の到来に備えて「悔い改め」をせよと促していたわけです。

「悔い改め」ってなに?

「悔い改め」と聞くと、私たちは、過去に犯した過ちを嘆き悲しむこと、と捉えがちですが、それだけを意味しているのではありません。なぜなら、「悔い改める」と訳されるギリシャ語の「メタノオウ」という動詞は、本来「向きや考えを変える」「方向転換する」という意味で、ヘブライ語で「帰る」とりわけ聖書では「神に立ち返る」というニュアンスで使われる「シュブ」という言葉の意味を汲んでいるのです。

従って、バプテスマのヨハネは、「まもなく神である主が来られるから、それぞれ罪を告白して、神に従って生きるよう方向を転換しなさい。そして、実際に来られたらその方に従いなさい」というメッセージを発信していたのでした。そして、この方向転換の表明として行われていたのが「バプテスマ」です。

バプテスマってなに?

バプテスマとは、「浸す」「漬ける」「沈める」といった意味を持つ、ギリシャ語の「バプティゾウ」という言葉に由来し、「ある人や、ある教えに同意して、一体化すること」を意味しています。従って、この場面では、人々が「バプテスマのヨハネの教えに同意し、一体化します(どっぷり浸かります)」という意思表示として、ヨルダン川の水にざぶんと浸けられる行為をしていたわけです。

この言葉、日本語にすると「洗礼」となります。従って、このシーンは「洗礼者ヨハネによる洗礼」と言い換えることが出来ます。

ただし、この時の洗礼は、キリストが来られる前の「バプテスマのヨハネの教えとの一体化」を意味していたので、キリストの十字架と埋葬、復活が起こってから始まったキリスト教の洗礼とは異なるものでした。従って、キリスト教の洗礼は、キリストを信じて救われた人が受ける「イエス・キリストとの一体化」を意味するものとなったのです。

人は洗礼によって救われるのか?

注意しなくてはならないことは、洗礼という儀式に人を救う力があるわけではありません。人はあくまでも信仰と恵みによって救われるので、救われるために洗礼という行いをするのではなく、信じて救われた結果、イエス・キリストの勧めに従って洗礼を受けるのが正しい順序です。

【エフェソの信徒への手紙2:8~9 ※共同訳】

あなたがたは恵みにより、信仰を通して救われたのです。それは、あなたがたの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。

※新改訳2017 エペソ人への手紙2:8~9

なので、信じていないのに洗礼を受けても、神の目からは意味がありません。一方、人は信仰と恵みによって救われる以上、今はまだ洗礼に与る機会がなかったとしても、聖書に書かれた言葉を素直に信じて、イエス・キリストを救い主として受け入れたなら、神の目からは、その人は既に救われていると言えます。

とりわけ、2000年前のイスラエルと現代の私たちとでは、生活環境や宗教的なバックグラウンドは全く異なります。当時のユダヤ社会は、聖書の神に関する基礎的な宗教観が備わっていて、宗教的な清めの洗いの習慣があったことから、信じる=即洗礼という流れは自然なことでした。従って、こうした理解がないと、洗礼という行いがあたかも救いの条件であると誤解しやすいのです。

ただし、「洗礼」は救いの条件ではないとはいえ、信じた人が洗礼を受けることは、イエス・キリストが奨励し、聖書の記録でも、信じた人はみな洗礼を受けているということから、既にイエス・キリストが救い主だと信じている方は、その信仰表現として、ぜひ洗礼に与るよう、私もお勧めしますし、その機会に恵まれますようお祈りさせていただきたいと思います。

まとめ

「洗礼」という行為の土台は、あくまでも「信仰」です。そしてその信仰の内容は、これからたどるキリストの生涯で起こる、十字架上での死と埋葬、復活が、私たちの罪を贖うためのものだったと信じることに他なりません。その根拠となる言葉を二つご紹介します。

【コリント人への手紙第二5:21

神は、罪を知らない方を私たちのために罪とされました。それは、私たちがこの方にあって神の義となるためです。

※罪を知らない方=救い主 イエス・キリスト

【コロサイ人への手紙2:12

バプテスマにおいて、あなたがたはキリストとともに葬られ、また、キリストとともによみがえらされたのです。キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じたからです

この言葉は、洗礼という行いが救いの条件であるかのように読めてしまいますが、信じる=即洗礼だった当時の背景や、バプテスマという言葉の意味、そして信仰と恵みが救いの条件であることを踏まえれば、「私たちは信仰によって、キリストの十字架の死と埋葬、復活に一体化して救われる」と説明していることがわかります。

すなわち神は、私たちがキリストを信じて一体化することによって、罪を持った過去の私たちを、キリストの十字架の死と共に葬り去り、更に、キリストのよみがえりと共に、私たちも罪を赦された者として、新しくよみがえらせてくださるという、人知では考えられない、ものすごい恵みを提供して下さっているのです。これが、以前にもお話した、私たちが「新しく生まれる」ということであり、キリストの「贖い」の真髄です。

なので、洗礼は、キリストの埋葬と復活を、水の中に沈んで出てくることを通して体感するとても良い機会となります。

この恵みに与るための第一歩が、「悔い改める」ということ、すなわち、神に背中を向けて生きてきた私たちが、神に向かって方向を転換することなのです。

2022.8.15

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!