【キリストの足跡をたどる】012_聖霊によるバプテスマってなに?

聖霊によるバプテスマってなに?

【聖書】マルコの福音書1:7~8 
聖霊ってなに?
イエス・キリストの公生涯
●聖霊によるバプテスマってなに?

前回、バプテスマのヨハネという人が登場し、人々に悔い改めを促してバプテスマ(洗礼)を授けていた場面を見てきました。悔い改めは「方向転換」バプテスマは「一体化」を意味しているので、「神に方向転換しなさい」というヨハネの勧めに同意した人々が、ヨルダン川の水にざぶんと浸かることで、ヨハネのメッセージへの「一体化」を表明していた訳です。今回は、その続きです。

【マルコの福音書1:7~8】
ヨハネはこう宣べ伝えた。「私よりも力のある方が私の後に来られます。私には、かがんでその方の履き物のひもを解く資格もありません。
私はあなたがたに水でバプテスマを授けましたが、この方は聖霊によってバプテスマをお授けになります。」

ヨハネはまず、これから救い主が来るんだ、そして、自分は水でバプテスマを授けているが、救い主は「聖霊によって」バプテスマを授けるようになりますよ、と説明しています。そこで今回は、「聖霊によるバプテスマ」ってなんなんだ?というお話をしたいのですが、それには先ず、そもそも「聖霊」というのがなんなのかを押さえておく必要があります。

聖霊ってなに?

「聖霊」とは、以前、「三位一体」についてお話した際に登場した、「聖霊と呼ばれる神」を指しています。すなわち、聖書の「神」は、父と子と聖霊という、異なる3つの位格を持つ1つの神である、人間の人知を超えた「三位一体」の神で、聖書全体から、「父なる神」が計画し、「子なる神」が実行し、「聖霊なる神」が完成に導く、という性格を持っているのがわかります。

実際、今読んでいる場面は、聖書全体からみると、最初に「父なる神」が、罪のゆえに死んで滅びる運命にある、私たち人間の救いを「計画」し、それを「子なる神」が「実行」するため、イエスという人となって「公生涯」をはじめるところにあたります。
なので、今日の主人公である「聖霊なる神」は、人間の救いを「完成」するために、父なる神の「計画」を、イエス・キリストが「実行」して天に上られた後で、頭角を現すことになります。

そこで、「聖霊なる神」が働かれる前に、キリストが公生涯でなにを「実行」するのかを、簡単に先読みしておきましょう。

イエス・キリストの公生涯

キリストは、これから始まる3年半に及ぶ公生涯で、ご自身が神であることを示す奇跡的な出来事や、権威あるメッセージを次々に発信していきます。それを見聞きした民衆は熱狂し、この方こそ神が予告されていた救い主ではないかと浮き足立つのですが、当時の為政者や宗教指導者たちは、そんなキリストに敵意を抱いて、悔い改めるどころか、「悪霊のかしらだ」と公に拒絶してしまいます。加えてキリストは、人々が求めていた政治的なリーダーではなかったので、ついには民衆からも見捨てられて、何の罪も犯していないのに、「神を冒涜した」として、十字架に架けられて殺されてしまうのです。

けれども、こうなることは全て、父なる神の「計画」にあったことで、キリストがこの世界に来られた目的は、罪人である私たち人間の身代わりとなって死ぬ、ということにほかなりませんでした。そしてそれを「実行」して葬られたキリストを、父なる神が3日後によみがえらせたので、キリストは40日にわたって多くの人々の前に現われて、弟子たちに「あなたがたは間もなく、聖霊によるバプテスマを授けられます」と告げたのち、彼らの見ている前で天に上られたのです。

それから10日後、いよいよ満を持して、キリストを信じた人々に聖霊なる神が働かれて、彼らが「キリストのからだ」の一部とされる、普遍的な意味での「教会」が誕生した、という顛末が、聖書に記録されています。

ゆえに、こうしたいきさつをを総合すると、キリストの十字架の死が、私たちの罪を贖うためだった、ということを信じた私たちの、救いを「完成」させてくださるのが、「聖霊なる神」の役割というわけです。

なお、「聖霊なる神」は、神学的には、ほかにも、私たちの内面に宿られたり、私たちを満たされたりと、様々な働きをされるので、それらが混同されたり、教派や先生方によって異なる解釈をされることがあります。そこで今から、テーマを「聖霊によるバプテスマ」の一点に絞って、最も大事なことを紐解いていくことにします。

聖霊によるバプテスマってなに?

「聖霊によるバプテスマ」とは、一言で言えば、「聖霊の働きによって、私たちがイエス・キリストと一体化する」ということになります。

すなわち、私たちが罪を認めて、キリストの十字架の死と埋葬、復活が、私の罪を贖うためだったのだと信じること、すなわち神に「方向転換」をした瞬間、私たちがキリストと「一体化」することが、聖霊の働きによって起こる、ということを意味しているのです。そのことを示した言葉を紹介します。

【ローマ人への手紙6:3~11

6:3 キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。

イエス・キリストを信じて一体化した私たちは誰でも、キリストの十字架による死と一体化したのです。すなわち、私たちは、キリストの死と一体化したことによって、罪ある古い私たちが、キリストとともに葬られた、ということです。

【ローマ人への手紙6:3~11

6:4 それは、ちょうどキリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、新しいいのちに歩むためです。私たちがキリストの死と同じようになって、キリストと一つになっているなら、キリストの復活とも同じようになるからです。

それは、ちょうどキリストが、父なる神の計画どおり、葬られてからよみがえられたように、私たちもよみがえり、罪が赦されて新しく生まれた者として歩むためです。なぜなら、私たちが、キリストが死んだのと同じように死んで、キリストと一体化しているのなら、キリストが復活したのと同じように、私たちも復活して新しく生まれた者となるからです。

【ローマ人への手紙6:3~11

6:6 私たちは知っています。私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅ぼされて、私たちがもはや罪の奴隷でなくなるためです。死んだ者は、罪から解放されているのです。私たちがキリストとともに死んだのなら、キリストとともに生きることにもなる、と私たちは信じています。

なお、私たちが「十字架につけられる」とか「死ぬ」というのは、私たちが肉体的に十字架にかかって苦しんで死ぬのではなく、私たちの代わりにそれをしてくださったキリストと、聖霊の働きによって、霊的に一体化するということです。ゆえに、ここで説明されていることは全て、私たちの内面で起こることです。

【ローマ人への手紙6:3~11】

6:9 私たちは知っています。キリストは死者の中からよみがえって、もはや死ぬことがありません。死はもはやキリストを支配しないのです。なぜなら、キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、キリストが生きておられるのは、神に対して生きておられるのだからです。

6:11 同じように、あなたがたもキリスト・イエスにあって、自分は罪に対して死んだ者であり、神に対して生きている者だと、認めなさい。

これらの言葉からわかるとおり、「聖霊の働きによって、イエス・キリストと一体化すること」、それが「聖霊によるバプテスマ」です。この「一体化」によって私たちは、キリストの死と共に「罪に対して死んだ者」となり、キリストの復活と共に新しく生まれて、「神に対して生きている者」とされます。こうしてあなたは「救われる」のです。

なお、聖霊は、平時には見えない霊であり、聖霊が働くことで、私たちが神がかったり、何かスピリチュアルな力を持つことを意味しているのではありません。ゆえに私たちは、救われていても、「救われた実感が湧かない」とか、「いつ救われたかよくわからない」と感じることがあります。けれども「聖霊によるバプテスマ」は、私たちが信じた瞬間に、私たちの内面で起こっていることなので、私たちが胎児として生を受けたり、おぎゃあと生まれた瞬間を覚えていないように、あなたが意識せずとも、信じているならあなたは既に救われて、新しく生まれているのです。それを聖書は「認めなさい」と促しています。この言葉を是非、素直に受け取って、神に方向転換して信じたのなら、「自分は罪に対して死んだ者であり、神に対して生きている者だ」と認めて歩もうではありませんか。

2022.8.30

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