神の国ってなに?
前回は、イエス・キリストがサマリアの女と出会ったことで、ユダヤ人から見れば異邦人に過ぎないサマリアの人々が、イエス・キリストを信じたことを確認しました。今回は、キリストがガリラヤに戻ってきた後の出来事を追いかけていきます。
ガリラヤでの活動の始まり
【マルコの福音書1:14~15】
ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べ伝えて言われた。「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」
ここで出てくるヨハネとは、以前、キリストに洗礼を授けた、バプテスマのヨハネ(洗礼者ヨハネ)のことです。彼は、ヘロデ・アンティパスというガリラヤの国主が引き起こした、略奪婚や悪事を非難したことで捕らえられてしまいました。一方で、キリストはガリラヤで「福音」を宣べ伝えはじめました。その内容は、「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」というものでした。実は、キリストが語ったこの言葉、バプテスマのヨハネが宣べ伝えていたことと全く同じです。
【マタイの福音書3:2】 ※バプテスマのヨハネの言葉
「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」
「天の御国」と言っているのは、これを記録したマタイが、神の名をみだりに唱えないユダヤ人に配慮したためなので、内容は「神の国」と同じです。そして、「悔い改める」とは、考えを変える、方向を転換する、といった意味でした。従ってバプテスマのヨハネは、「神の国」の到来に備えて、人々に、今まで背中を向けてきた神に立ち返り、その罪を赦してもらうよう訴えていたのでした。
ユダヤ人の宗教観
実は、当時のユダヤ社会では、後にユダヤ教の教えとて編纂される、様々な言い伝えが横行し、人々は聖書の教えから逸脱しつつありました。それでいて彼らには、ユダヤ人は神に選ばれた民族だ、という選民意識があったので、自分たちは神の国に入れる一方、悔い改めるべきは、サマリア人をはじめとする異邦人だ、と思い込んでいたのです。なので、バプテスマのヨハネが、同胞であるユダヤ人たちに悔い改めを迫ったのは、かなりショックなことで、宗教界にも物議をかもしました。そしてキリストまで、時が満ちた、悔い改めて福音を信ぜよ、と宣べ伝えたので、ますます彼らは動揺したのです。
そこで今日は、そんな背景を覚えつつ、キリストが、「時が満ち、神の国が近づいた。」と言っている「神の国」とは何か?ということを、確認しておきたいと思います。
「神の国」とはなにか?
「神の国」と聞くと、私たちはなんとなく、見えない「天国」をイメージしがちですが、それは、当時のユダヤ人たちの認識とは大きく異なります。なぜなら、彼らに与えられた旧約聖書が預言しているゴールがまさに、神が支配する、目に見える「神の国」の到来であり、それは「救い主」と共にやってくる、現実に起こる出来事であるからです。
もう少し詳しく申し上げると、旧約聖書は、天地創造から始まって、人類の堕落、救い主派遣の予告、と続き、救い主を送り出す母体となるユダヤ民族の誕生と建国、そして彼らが神に背いた挙句の、国家の崩壊と民族の離散を綴った、極めて具体的な歴史書です。加えて、これからやってくる救い主と、それによって齎される神の国到来の希望で終わる、壮大な預言書でもあるのです。
従って、当時のユダヤ人たちがイメージしていた神の国とは、ユダヤ人の王としてやってくる救い主が打ち立てる「メシア的な王国」と呼ばれる、目に見える王国としての神の国でした。ただし、もう少し広義に捕えれば、神の国とは、神が私たちと共にいる状態や、神が世界や私たちを支配している状態をも含む概念です。なので、聖書で神の国が語られたときは、その場面に応じて何を指し示しているか、文脈で判断する必要があるのです。
さて、そんな神の国の到来が期待される中、旧約聖書の預言時計が、この時代、バプテスマのヨハネの登場によって動き出しました。というのは、聖書には、救い主がくる前に、先ずヨハネのような預言者が登場し、人々に悔い改めを促すことが予告されていたのです。そして彼が、「見よ、世の罪を取り除く神の子羊」【ヨハネの福音書1:29】と指し示した救い主、人々が待ち望んでいたユダヤ人の王こそ、イエス・キリストでした。
従って、この時代に、具体的な見える形としての神の国が実現する条件は、当時のユダヤ人たちが、イエス・キリストを救い主として受け入れることでした。けれども、残念ながら彼らはキリストを公に拒絶し、十字架に架けて殺してしまいます。ゆえに、旧約聖書で預言されていた神の国は、この時代には実現せず、ユダヤ人たちは再び紀元70年に国が滅んで、その後1900年間にわたり、世界中に離散してしまうことになるのです。
けれども、神の国の約束は決して反故にされたのではありません。信じられない人も多いかもしれませんが、これから私たちが追いかけていく、キリストの生涯を通して明らかになることは、キリストが、将来再びこの世界にやってくる、と約束していることです。このことを、キリストが再び降臨される、「再臨」と言います。
従って、神の国とは、その実現が取り消されたのではなく、キリストを拒絶した世代下で延期されたに過ぎず、キリストが再臨されたときに必ず実現する約束として、今も有効である、ということです。ゆえに神の国は、今やユダヤ人のみならず、キリストを信じる私たちにとっても、聖書が約束している希望に他ならないのです。
この時代の「福音」とはなにか?
もうひとつ、今日のテキストで確認しておきたいことは、「悔い改めて福音を信じなさい。」とキリストが宣べ伝えていた、この時に語られていた「福音」とは何か、ということです。
いつもお話ししているとおり、現代に生きる私たちに与えられている福音(グッドニュース・良い知らせ)とは、キリストが私たちの罪を贖うために死んで、葬られ、蘇られた、ということで、私たちは今、この福音を信じる信仰と恵みによって救われるのです。
けれども、キリストが「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」と語っていたときは、まだキリストは生きていて、ユダヤ人たちもキリストを拒絶はしていませんでした。ゆえにこの時の福音とは、現代の私たちが知っている、キリストの死や埋葬、復活のことではなく、聖書の中でマタイが「御国の福音」【マタイの福音書4:23】とも記録している、神の国の到来こそが福音であって、それを計画された父なる神に方向転換をして、神の国を齎す子なる神イエス・キリストを救い主と信じて受け入れることが、福音を信じる、ということだったのです。
今は恵みの時、救いの日
以上のことから、当時、もしユダヤ人たちが、イエス・キリストが救い主であると、国家的に認めて受け入れていたなら、神の国は直ちに実現していたと考えられます。けれども彼らがキリストを拒絶したことから、残念ながらこの時は、神の国の実現には至りませんでした。しかし驚くことに、その結果、キリストが十字架に架けられたことで、私たちに、キリストの死と埋葬、復活という、救いの根拠となる、新たな福音が齎されました。
実は、今更ながら、旧約聖書を丹念に読み返せば、こうした顛末もまた、聖書が預言していたことに他なりませんでした。結果として、すべては聖書の預言どおりに事が運んでいたのです。これが、聖書が神の言葉であり、信頼に足ると言える最大の理由です。
ゆえに、今のこの時代は、聖書の神とは無縁であった多くの人が、聖書に書かれた言葉を信じて、イエス・キリストの齎した福音によって救われる、恵みの時代に他なりません。それを聖書はこう表現しています。
【コリント人への手紙 第二 6:1~2】
神の恵みを無駄に受けないようにしてください。神は言われます。「恵みの時に、わたしはあなたに答え、救いの日に、あなたを助ける。」見よ、今は恵みの時、今は救いの日です。
そして私たちは、この恵みの福音に加え、変わらぬ約束であり続ける、神の国の到来にも希望を持つことが出来るお互いでもあるのです。
なお、神の国をはじめ、これから起こることについては、キリストが折々で聖書の中で教えてくれますので、引き続き、都度ご紹介してまいります。
では最後に、既に何度もご紹介している、現代の私たちに与えられている福音の内容を、もう一度確認して終わりにしましょう。今日は、福音という言葉が頻発する、コリント人への手紙第一の15章を、1節からご紹介します。
【コリント人への手紙 第一 15:1~5】
15:1 兄弟たち、私があなたがたに宣べ伝えた福音を、改めて知らせます。あなたがたはその福音を受け入れ、その福音によって立っているのです。私がどのようなことばで福音を伝えたか、あなたがたがしっかり覚えているなら、この福音によって救われます。そうでなければ、あなたがたが信じたことは無駄になってしまいます。
15:3 私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと、また、ケファに現れ、それから十二弟子に現れたことです。
ちなみに、ケファと言うのはペテロのことで、十二弟子に現れたとあるのは、キリストの死と埋葬、復活が、紛れもない事実として目撃されたことを裏付けるものです。従って、これらの記事は信頼に値し、このことを信じることによって、私たちは救われるのです。これが、現代の私たちに齎された、イエス・キリストの福音です。そして今が恵みの時、救いの日だと言われています。ゆえに、この恵みの時、あなたもこの福音を信じて、今日を救いの日としようではありませんか。
(2023.1.30)