神は私たちを招いている?
【マルコの福音書2:14~17】
2:14 イエスは道を通りながら、アルパヨの子レビが収税所に座っているのを見て、「わたしについて来なさい」と言われた。すると、彼は立ち上がってイエスに従った。
2:15 それからイエスは、レビの家で食卓に着かれた。取税人たちや罪人たちも大勢、イエスや弟子たちとともに食卓に着いていた。大勢の人々がいて、イエスに従っていたのである。
2:16 パリサイ派の律法学者たちは、イエスが罪人や取税人たちと一緒に食事をしているのを見て、弟子たちに言った。「なぜ、あの人は取税人や罪人たちと一緒に食事をするのですか。」
2:17 これを聞いて、イエスは彼らにこう言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。」
【マタイの福音書9:9~13】
9:9 イエスはそこから進んで行き、マタイという人が収税所に座っているのを見て、「わたしについて来なさい」と言われた。すると、彼は立ち上がってイエスに従った。
9:10 イエスが家の中で食事の席に着いておられたとき、見よ、取税人たちや罪人たちが大勢来て、イエスや弟子たちとともに食卓に着いていた。
9:11 これを見たパリサイ人たちは弟子たちに、「なぜあなたがたの先生は、取税人たちや罪人たちと一緒に食事をするのですか」と言った。
9:12 イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。
9:13 『わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。」
【ルカの福音書5:27~32】
5:27 その後、イエスは出て行き、収税所に座っているレビという取税人に目を留められた。そして「わたしについて来なさい」と言われた。
5:28 するとレビは、すべてを捨てて立ち上がり、イエスに従った。
5:29 それからレビは、自分の家でイエスのために盛大なもてなしをした。取税人たちやほかの人たちが大勢、ともに食卓に着いていた。
5:30 すると、パリサイ人たちや彼らのうちの律法学者たちが、イエスの弟子たちに向かって小声で文句を言った。「なぜあなたがたは、取税人たちや罪人たちと一緒に食べたり飲んだりするのですか。」
5:31 そこでイエスは彼らに答えられた。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人です。
今日は、新約聖書の冒頭にある『マタイの福音書』の著者であるマタイが、キリストに出会った時の話です。その記録は、本人のほかに、マルコやルカも残していますが、彼らによれば、マタイは別名、レビとも呼ばれていました。今回は、『マルコの福音書』から紐解いてまいります。
取税人マタイの転身
【マルコの福音書2:14~17】
2:14 イエスは道を通りながら、アルパヨの子レビが収税所に座っているのを見て、「わたしについて来なさい」と言われた。すると、彼は立ち上がってイエスに従った。
収税所に座っていた「アルパヨの子レビ」という人が、マタイです。彼は、人々から税金を取り立てる取税人でした。当時のユダヤは、ローマ帝国の属国だったので、出先機関である収税所の取税人たちが、所得税や通行税を集めて、ローマ帝国に収めていたのです。
但し、現代とは異なり、取税人は入札で仕事を請け負っていたので、ローマ帝国に、より多くのお金を納めると約束した人が、業者となる仕組みでした。その結果、彼らは自ずと、多額の金銭を人々から取り立て、その差額を収入としていたのです。
なので、人々は彼らを、同胞から金を奪う売国奴だと嫌って、罪人同然に扱い、付き合うことをしませんでした。そんな取税人の一人であったマタイに、イエス・キリストが「わたしについて来なさい」と声をかけたのです。すると、「彼は立ち上がってイエスに従った」というのです。
恐らくマタイは、民衆の間で人気が沸騰していたキリストに関する様々な噂を耳にして、心のうちに信仰が芽生えていたのでしょうね。そこにキリストが現れ、マタイの心のうちを見抜かれたので、マタイはすぐにも、その招きに応じることが出来たと考えられます。このことについて、ルカはマタイが、
【ルカの福音書5:28】
すべてを捨てて立ち上がり、イエスに従った。
と記録しています。振り返れば、弟子のシモン・ペテロやヨハネたちは、漁師として、手に職がある人たちでした。なので、いざとなれば漁師に戻ることも出来ますが、ローマ帝国の請負である取税人を途中で辞めたマタイの場合は、そうはいきません。それに、経済的なことだけを考えれば、ローマ帝国の権威を後ろ盾とする取税人のほうが安泰と思われるかもしれません。それら「すべてを捨てて」というのですから、マタイにとっては、退路を断つ、一大決心だったと思われます。
でも、彼が「わたしについて来なさい」というキリストの招きに応じたことによって、今私たちは、彼が書いた『マタイの福音書』を通して、キリストに関する貴重な目撃証言に触れることが出来ているのです。ゆえに、マタイのこの時の方向転換が、私たちに大きな恵みをもたらしてくれたと言えます。そしてなによりも、マタイが、ローマ帝国の権威から、神の権威に従ったことを、神はことさらに喜ばれたことでしょう。キリストも後に、こんな言葉を残しています。
【ルカの福音書15:7】
一人の罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人のためよりも、大きな喜びが天にあるのです。
ここで、「悔い改める」と訳されている言葉こそ、方向を転換する、考えを変える、という意味を持つ、ギリシャ語の「メタノオウ」という言葉です。このように、神は、たった一人の人が、神に方向を転換することを、この上もないほどに喜んでくださるのです。
宗教指導者たちの視点
【マルコの福音書2:14~17】
2:15 それからイエスは、レビの家で食卓に着かれた。取税人たちや罪人たちも大勢、イエスや弟子たちとともに食卓に着いていた。大勢の人々がいて、イエスに従っていたのである。
この場面、ルカの記録も総合すると、マタイはかなり盛大な宴会を催したようです。マタイは、キリストに招かれ、それに応えることが出来たことが、ものすごく嬉しかったのでしょうね。そして、そこに同席した彼の同業者をはじめとする多くの人々も、神に方向転換をすることが出来たようです。ただ、それを見た宗教指導者たちの目は、冷ややかなものでした。
【マルコの福音書2:14~17】
2:16 パリサイ派の律法学者たちは、イエスが罪人や取税人たちと一緒に食事をしているのを見て、弟子たちに言った。「なぜ、あの人は取税人や罪人たちと一緒に食事をするのですか。」
前回見たとおり、「パリサイ派の律法学者たち」とは、当時のユダヤ教の宗教指導者のことです。彼らは、キリストが、取税人や罪人と呼ばれる人たちと食事をしていることに、異議を唱えてきました。彼らにとっては、罪人と食事を共にするなど、もってのほか、というわけです。
【マルコの福音書2:14~17】
2:17 これを聞いて、イエスは彼らにこう言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。」
キリストの、有名な言葉が出てきました。この言葉、当事者のマタイが、より詳しく記録しているので、読んでみます。
【マタイの福音書9:12~13】
「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。『わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。」
ここで思い出して頂きたいのは、キリストが、神の権威を示された、前回のシーンです。キリストは、中風の人が屋根からつり降ろされた時、その信仰を見抜かれ、罪の赦しを宣言すると共に、言葉だけで病を癒すことが出来ました。そのことを通して、ご自分が、罪を赦す権威を持つ、神であることを証明されていましたね。そのことを踏まえると、ここでキリストが言わんとしている本当の意味がよくわかります。
すなわちキリストは、「健康な人に医者は必要なくて、病人にこそ医者が必要でしょう。そのように、罪がない正しい人がいたなら、私は必要なくて、人はみな罪人だからこそ、人々を招くために私が来たのです。なぜなら、罪を赦すことができるのは、神である私だけなのだから。」と伝えているのです。
そしてキリストは、宗教指導者たちに本意が伝わるよう、「わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない」という言葉を挟んできました。この言葉、ホセア書という旧約聖書に書かれた、神がイスラエルの民に吐露した気持ちをあらわしたもので、原文ではこう書かれています。
【旧約聖書・ホセア書6:6】
わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない。全焼のささげ物よりもむしろ、神を知ることである。
この言葉、神が本当に喜ばれることは、神殿で儀式的に動物を生け贄として捧げるよりも、あなたがたが真心からの愛をもって、神である私に立ち返ることだ、と言っているのです。キリストは、この言葉を引用することで、マタイやその仲間たちが神に立ち返ったことを喜ぶ一方、宗教指導者たちが、律法の本質である愛を忘れて、彼らを受け入れようとせず、形骸化した儀式主義に陥っていることを戒めたのです。
これを聞いた宗教指導者たち、どう感じたでしょうね?もし彼らが、キリストが「罪人を招くため」に来たと聞いて、「なるほど、それでキリストは、取税人や罪人たちと食事をしているのだな」と、他人事のように受け取っていたとしたら、彼らは鈍感としか言いようがありません。キリストにしてみれば、人々に神を教える立場にある、宗教指導者たちにこそ、「我々は皆、医者が必要な病人で、罪を持つお互いなのだ」と、気付いて欲しかったからです。
「わたしについて来なさい」
そして今日、聖書が私たちに教えてくれていることは、私たちもまた、この時の宗教指導者たちと同じように、キリストの言葉を他人事のように捕えていませんか?ということです。
なぜなら、聖書は今も一貫して、
【ローマ人への手紙3:9】
すべての人が罪の下(もと)にある
そして、
【ローマ人への手紙3:10】
義人はいない。一人もいない。
すなわち、私たちの中で、罪のない人など一人もいないのだ、と言っているからです。
ゆえに、キリストの言葉に出てくる「病人」こそ、実は私たちのことであり、キリストは、「罪人」である私たちを招くために来たのだ、と、私たちに語りかけているのです。
そこで、神が本当に喜ばれることは、私たちが、外面的に何かを行うのではなく、真心からの愛をもって、内面的に、神に立ち返ることだということを、今日のエピソードは教えてくれています。それは、キリストの十字架を経た現代にあっては、イエス・キリストの死と埋葬、復活が、私たちの罪を贖うためだったと信じて、悔い改める、すなわち、神に心からの方向転換をすることに他ならないのです。
なぜかと言えば、キリストが私たちの代わりに死なれたほどに、神は私たち人間を愛しておられるからで、その神が喜ばれるのは、私たちがその愛を素直に受け取ること、これに尽きるからです。
聖書にこうあります。
【ヨハネの手紙第一4:10】
私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。
そこで私たちも、この神の愛に応えて、「わたしについて来なさい」と言われる、イエス・キリストに従おうではありませんか。今、それを決意したあなたのことを、キリストはこの上なく喜んでくださいます。その根拠となる言葉をおさらいして終わります。
【ルカの福音書15:7】
一人の罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人のためよりも、大きな喜びが天にあるのです。
(2023.5.15)