【キリストの足跡をたどる】037_心の貧しい者は幸い?

心の貧しい者は幸い?

【聖書】マタイの福音書4:23~5:10 
●「山上の説教」とは? 
●「八福の教え」とは? 
●「心の貧しい者」とは? 
▶大漁に恵まれたシモン・ペテロの場合 
▶神殿で祈る取税人の場合 
▶十字架に架けられた犯罪人の場合 
●まとめ 

【マタイの福音書4:23~5:10

4:23 イエスはガリラヤ全域を巡って会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病、あらゆるわずらいを癒やされた。イエスの評判はシリア全域に広まった。それで人々は様々な病や痛みに苦しむ人、悪霊につかれた人、てんかんの人、中風の人など病人たちをみな、みもとに連れて来た。イエスは彼らを癒やされた。こうして大勢の群集が、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、およびヨルダンの川向こうから来て、イエスに従った。

5:1 その群衆を見て、イエスは山に登られた。そして腰を下ろされると、みもとに弟子たちが来た。
5:2
そこでイエスは口を開き、彼らに教え始められた。

5:3 「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。

5:4 悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです。

5:5 柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐからです。

5:6 義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるからです。

5:7 あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるからです。

5:8 心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るからです。

5:9 平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。

5:10 義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。

今日から、「山上の説教」と呼ばれる、イエス・キリストが語られた一連のメッセージを紐解いていきます。この「山上の説教」は、マタイの福音書に纏めて記録されていますが、他の福音書でも、似た内容は折々で語られています。ではまず、この時の背景が書かれているあたりを読んでみます。

「山上の説教」とは?

【マタイの福音書4:23~5:2

4:23 イエスはガリラヤ全域を巡って会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病、あらゆるわずらいを癒やされた。イエスの評判はシリア全域に広まった。それで人々は様々な病や痛みに苦しむ人、悪霊につかれた人、てんかんの人、中風の人など病人たちをみな、みもとに連れて来た。イエスは彼らを癒やされた。こうして大勢の群集が、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、およびヨルダンの川向こうから来て、イエスに従った。

5:1 その群衆を見て、イエスは山に登られた。そして腰を下ろされると、みもとに弟子たちが来た。そこでイエスは口を開き、彼らに教え始められた。

キリストはこれまで、神の国が近付いたという「福音」を宣べ伝え、人々を癒やすことで、ご自身が、旧約聖書で予告されていた、人々を救う主なる神であることを示して来られました。その結果、大勢の群集がキリストに従いました。そしてキリストのもとに「弟子たちが来た」ので、「彼らに教え始められた」とあります。

従って、これからはじまる長い「山上の説教」の主な聞き手は、キリストを信じていない人たちではありません。そうではなくて、この方こそ救い主だ、と信じた人たちに語られたのが、「山上の説教」です。この認識に立った上で、冒頭で語られる、「八福の教え」と呼ばれる、8つの言葉を読んでみます。

「八福の教え」とは?

【マタイの福音書5:3~5:10
5:3
「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。

5:4 悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです。

5:5 柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐからです。

5:6 義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるからです。

5:7 あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるからです。

5:8 心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るからです。

5:9 平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。

5:10 義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。

同じパターンのフレーズが8つ出てきました。繰り返しますが、この時の主な聞き手は、キリストこそ救い主だと信じた人たちです。従ってこれらは、信じていない人に、人生訓の類を垂れているのではありません。そうではなくて、キリストが、信じた人たちに徐々に備わっていく8つの特徴を挙げて、そんな彼らには、こんな幸いが約束されていますよ、と励ましておられるのです。これが、「八福の教え」です。

では今日は、その一つ目の言葉を味わってみます。

「心の貧しい者」とは?

【マタイの福音書5:3
「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。

実はこのフレーズ、新約聖書が書かれたギリシャ語では、「幸いです」という言葉が冒頭に来ています。なのでキリストは、「幸いなことよ、心の貧しいあなた方は。」と、信じた人々のことを喜び、「天の御国はあなた方のものだよ。」と励ましているのです。

でも、普通は「心の豊かな人」のほうが幸せなんではないでしょうかね。ところがキリストは、いやいや、本当に幸せなのは、心の貧しいあなた方なんだ、というわけです。厳密には、「心が貧しい」というよりは、「霊において貧しいあなた方は」と言ったほうが、原語に近いです。

では、「心の貧しい者」すなわち「霊において貧しい者」とは、どんな人のことなのでしょう。少なくともこの場面では、物質的に貧しい人を指しているのではありません。そうではなくて、プライドにとらわれず、自分やこの世がいかに罪深いかを悟り、神の前にへりくだった人たちのことを指しているのです。そういう人が「心の貧しい者」「霊において貧しい者」だ、というのです。では、何人か、具体例を挙げてみましょう。

大漁に恵まれたシモン・ペテロの場合

一人目は、キリストの弟子のシモン・ペテロです。彼は以前、漁師でしたが、ガリラヤ湖で夜通し漁をしても、一匹も獲れなかったことがありました。その時、漁については素人のキリストが、プロの彼に、再び舟を出すよう促しました。

この場面、素人に指図をされたシモン・ペテロにしてみれば、プライドが傷ついて反発しても不思議ではありませんでした。けれども彼が、へりくだってキリストの言葉に従った結果、思いもよらぬ大漁に恵まれました。その時の彼の言葉が、

【ルカの福音書5:8

「主よ、私から離れてください。私は罪深い人間ですから。」

でした。これが、目の前のキリストこそ、大自然を司る神だと、シモン・ペテロが畏怖の念を抱いて、「心の貧しい者」となった瞬間です。この時、シモン・ペテロはキリストの弟子とされたのです。

神殿で祈る取税人の場合

そしてもう一人。今度は、キリストが語った、たとえ話に出て来る人です。

【ルカの福音書18:10~14

「二人の人が祈るために宮に上って行った。一人はパリサイ人で、もう一人は取税人であった。パリサイ人は立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私がほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦淫する者でないこと、あるいは、この取税人のようでないことを感謝します。私は週に二度断食し、自分が得ているすべてのものから、十分の一を献げております。』一方、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神様、罪人の私をあわれんでください。』あなたがたに言いますが、義と認められて家に帰ったのは、あのパリサイ人ではなく、この人です。だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるのです。」

このシーンで「心の貧しい者」は誰でしょう。それは、自分を低くして、「神様、罪人の私をあわれんでください。」と吐露した取税人です。そしてキリストは、彼こそが、「義と認められて家に帰った」と話しています。この「義と認められた」という言葉は、不義のない者とされた、という意味なので、彼の罪が神の前で赦されたことを意味しているわけです。

従って、こうした例から、「心の貧しい者」とは、自分が神の前でいかに罪深いかを悟って、へりくだった人のことだとわかります。そんな人にキリストは、「幸いなことよ」と語りかけ、「天の御国はあなたのものだ」と約束しているのです。

ちなみに、「天の御国は」と記録したマタイは、神の名前をみだりに口にしないユダヤ人に配慮して、あえて「天の御国」と表現しているんです。従って「天の御国」とは、キリストが宣べ伝えていた「神の国」のことです。なので、「天の御国」とか、「神の国」と出てきたら、大雑把に、「神が私たちを治め、いつも共にいてくださる状態」をイメージしておかれると、わかりやすいです。

十字架に架けられた犯罪人の場合

では最後に、今日の言葉がより現実味を帯びるシーンをご紹介します。それは、キリストが、二人の犯罪人と共に、十字架に架けられた時の出来事です。

【ルカの福音書23:39~43

十字架にかけられていた犯罪人の一人は、イエスをののしり、「おまえはキリストではないか。自分とおれたちを救え。」と言った。すると、もう一人が彼をたしなめて言った。「おまえは神を恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。おれたちは、自分のしたことの報いを受けているのだから当たり前だ。だがこの方は、悪いことを何もしていない。」そして言った。「イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。」イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」

この場面、キリストの左右に、二人の犯罪人が十字架に架けられています。その一人がキリストを罵倒した一方、もう一人は、自分の罪深さを悟り、へりくだって、キリストにすがったのです。それが、「イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。」という言葉です。まさにこの時、この人は、キリストを救い主と信じて、「心の貧しい者」となりました。

そこで神であるキリストは、彼の心の中を見抜いて、「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」と返しました。これが、キリストがこの犯罪人の心の貧しさを喜び、彼に「天の御国」を約束した瞬間です。

まとめ

以上、「心の貧しい者」がどのような人か、垣間見てきました。結論として、彼らは皆、自分の罪深さを自覚し、神の前にへりくだって、ありのままの自分を神に委ねた人たちでした。当然ながら、彼らの根底には、私たちを造られた、神に対する畏敬の念があったことを忘れてはいけません。

そして聖書は、彼らが崇めたその神が、人となってこの世に来られ、私たちの罪の代わりに裁かれて、死んだのだと言っています。そしてその事実が、私を救うためだったと信じ、それをなされた神に、私たちが方向転換をするなら、信じた者は罪の裁きを免れ、永遠の命が与えられると教えています。この方こそ、神であるイエス・キリストです。ゆえに私たちは、このキリストが私の救い主だと信じる、信仰と恵みによって救われるのです。その幸いを、聖書はこう詠っています。

【旧約聖書・詩篇32:1~2

幸いなことよ その背きを赦され 罪をおおわれた人は。

幸いなことよ 主が咎をお認めにならず その霊に欺きがない人は。

「背きを赦され 罪をおおわれた人」「主が咎をお認めにならず その霊に欺きがない人」とは誰でしょう?それは、自分の罪深さを認めて、神の前にへりくだり、神の恵みにすがる人、すなわち、キリストを救い主を信じた、「心の貧しい者」にほかなりません。このような人を、神は、「幸いなことよ」と喜んでくださるのです。

さあ、そこであなたも、このキリストの死と埋葬、復活が、あなたの罪を贖うためだったと信じようではありませんか。それによって、あなたは一切の背きが赦され、罪がおおわれ、咎が認められず、霊に欺きがない者とされるのです。そして神であるキリストが、「幸いなことよ、心の貧しいあなたは」と喜び、「天の御国はあなたのものだ」と約束してくださいます。

(2023.9.30)

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