091_誰が私たちを救えるか?
【マルコの福音書7:9~23】
7:9 またイエスは言われた。「あなたがたは、自分たちの言い伝えを保つために、見事に神の戒めをないがしろにしています。
7:10 モーセは、『あなたの父と母を敬え』、また『父や母をののしる者は、必ず殺されなければならない』と言いました。
7:11 それなのに、あなたがたは、『もし人が、父または母に向かって、私からあなたに差し上げるはずの物は、コルバン(すなわち、ささげ物)です、と言うなら──』と言って、
7:12 その人が、父または母のために、何もしないようにさせています。
7:13 このようにしてあなたがたは、自分たちに伝えられた言い伝えによって、神のことばを無にしています。そして、これと同じようなことを、たくさん行っているのです。」
7:14 イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。「みな、わたしの言うことを聞いて、悟りなさい。
7:15 外から入って、人を汚すことのできるものは何もありません。人の中から出て来るものが、人を汚すのです。」
7:16 【本節欠如】
7:17 イエスが群衆を離れて家に入られると、弟子たちは、このたとえについて尋ねた。
7:18 イエスは彼らに言われた。「あなたがたまで、そんなにも物分かりが悪いのですか。分からないのですか。外から人に入って来るどんなものも、人を汚すことはできません。
7:19 それは人の心には入らず、腹に入り排泄されます。」こうしてイエスは、すべての食物をきよいとされた。
7:20 イエスはまた言われた。「人から出て来るもの、それが人を汚すのです。
7:21 内側から、すなわち人の心の中から、悪い考えが出て来ます。淫らな行い、盗み、殺人、
7:22 姦淫、貪欲、悪行、欺き、好色、ねたみ、ののしり、高慢、愚かさで、
7:23 これらの悪は、みな内側から出て来て、人を汚すのです。」
前回は、キリストの弟子たちが食事の前に手を洗わなかったのをユダヤ教の人たちが見て、なぜ手を洗えという「言い伝え」に従わないのか、と問うてきたシーンを紐解きました。
これについてキリストは、それは人が考え出した戒めで、あなたがたこそ、神から授かった戒めに従っていないではないか、と反論しました。そこでこれから、ユダヤ教の人たちが「神の戒め」をないがしろにしている事実を、キリストが示します。
コルバン規定
【マルコの福音書7:9~23】
7:9 またイエスは言われた。「あなたがたは、自分たちの言い伝えを保つために、見事に神の戒めをないがしろにしています。モーセは、『あなたの父と母を敬え』、また『父や母をののしる者は、必ず殺されなければならない』と言いました。
さあ、イエス・キリストがユダヤ教の人たちに、「あなたがたは、自分たちの言い伝えを保つために、見事に神の戒めをないがしろにしています」と切り出しました。そして挙げたのが、「あなたの父と母を敬え」「父や母をののしる者は、必ず殺されなければならない」という教えです。
実はこの教えは、人が定めたものではなくて、神が昔、モーセという指導者を介して授けた「神の戒め」にほかなりません。中でも「あなたの父と母を敬え」とは、代表的な10の戒めを指す、「十戒」と呼ばれる戒めの一つです。ところがキリストは、彼らがこの「神の戒め」を骨抜きにしているというのです。それがこんな内容です。
【マルコの福音書7:9~23】
7:11 それなのに、あなたがたは、『もし人が、父または母に向かって、私からあなたに差し上げるはずの物は、コルバン(すなわち、ささげ物)です、と言うなら──』と言って、その人が、父または母のために、何もしないようにさせています。このようにしてあなたがたは、自分たちに伝えられた言い伝えによって、神のことばを無にしています。そして、これと同じようなことを、たくさん行っているのです。」
「コルバン」という言葉が出て来ましたね。これは、神への「ささげ物」を意味しています。そして彼らの「言い伝え」に、人が自分の財産を指して、これは「コルバン」になった、と宣言すれば、それはもう神への「ささげ物」になったので、もはや別なことには使ってはならない、という定めがありました。ただし、その人が本当にそれを神にささげるかどうかは、全く別の話です。
なので、この「言い伝え」を盾に、例えば自分の親が生活に困って、お金や物を無心しに来たとき、彼らが親の面倒を見たくなければ、これは「コルバン」になったから渡せない、と言って、断る口実にしていたのです。そして「これと同じようなことを、たくさん行って」いたのですね。こうして彼らが「神のことばを無にして」いる事実を、キリストが指摘したのでした。では続きのセンテンスです。
人から出るものが人を汚す
【マルコの福音書7:9~23】
7:14 イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。「みな、わたしの言うことを聞いて、悟りなさい。外から入って、人を汚すことのできるものは何もありません。人の中から出て来るものが、人を汚すのです。」
大事な一言が飛び出しました。「外から入って、人を汚すことのできるものは何も」ない一方で、「人の中から出て来るものが、人を汚す」のだと言っています。
この言葉、手を洗わずに食事をしたキリストの弟子たちなら、言わんとしていることはなんとなくわかりそうですよね。でも彼らはピンと来ていませんでした。そこで続きです。
【マルコの福音書7:9~23】
7:17 イエスが群衆を離れて家に入られると、弟子たちは、このたとえについて尋ねた。イエスは彼らに言われた。「あなたがたまで、そんなにも物分かりが悪いのですか。分からないのですか。外から人に入って来るどんなものも、人を汚すことはできません。それは人の心には入らず、腹に入り排泄されます。」こうしてイエスは、すべての食物をきよいとされた。
この通り、口から入った食べ物は消化されて、要らない物は出て行くので、食べ物が人の心を傷つけはしないですね。そしてこう続けます。
【マルコの福音書7:9~23】
7:20 イエスはまた言われた。「人から出て来るもの、それが人を汚すのです。内側から、すなわち人の心の中から、悪い考えが出て来ます。淫らな行い、盗み、殺人、姦淫、貪欲、悪行、欺き、好色、ねたみ、ののしり、高慢、愚かさで、これらの悪は、みな内側から出て来て、人を汚すのです。」
「人から出て来るもの」が「人を汚す」、これがこの話の焦点です。ただそれは、食べ物を食べて出る排泄物のことではなく、「内側から」「人の心の中から」出て来る「悪い考え」が「人を汚す」というのです。
そしてその具体例として、「淫らな行い、盗み、殺人、姦淫、貪欲、悪行、欺き、好色、ねたみ、ののしり、高慢、愚かさ」の12の例が挙げられました。ちなみにこの12という数字、聖書を読む上では「完全数」とされています。なので、キリストは代表的な12の例を挙げたことで、ほかにもある「悪い考え」全てを言い含めたものとしているのです。
ということは、「言い伝え」を盾に親の面倒を見ないのも、「あなたの父と母を敬え」という「神のことばを無に」にする「悪い考え」にほかなりません。こうしてキリストは、人が宿す「悪い考え」が「内側から出て来て、人を汚す」のだ、と教えたのでした。
誰があなたを救えるか?
では私たちは、こうした「悪い考え」をどう取り扱ったらよいのでしょう。キリストは、「これらの悪は、内側から、すなわち人の心の中から」出てくる、と言っていますね。ということは、人の心の中に、既に「悪」がある時点から、それを私たちがどう処理するのか、神が強い関心を持っているとわかります。
となると、私たちは「殺人」とまではいかなくとも、「ねたみ、ののしり、高慢、愚かさ」の類が「内側から」「心の中から」出てくることが、しばしばあるお互いではないでしょうか。でもそれらが「悪」だと言われたら、誰も神が求める「善」の基準になど、達することは出来ません。
更に、人は誰もが、「悪い考え」を思い巡らす「罪」を宿している以上、自分の努力で自分を救うことなど断じて出来ないというのが、聖書の見解です。なので、その点に気付いたパウロという人は、自分のことをこう嘆くのです。
【ローマ人への手紙7:15】
私には、自分のしていることが分かりません。自分がしたいと願うことはせずに、むしろ自分が憎んでいることを行っているからです。
【ローマ人への手紙7:18~19】
・・・私には良いことをしたいという願いがいつもあるのに、実行できないからです。私は、したいと願う善を行わないで、したくない悪を行っています。
【ローマ人への手紙7:24】
私は本当にみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか。
赤裸々に自分の弱さを嘆いていますね。そして「だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか」と言っています。そんなに思いつめなくても、とも感じますが、キリストが引用した言葉に、「父や母をののしる者は、必ず殺されなければならない」とありましたね。ということは、神の目線に立てば、親をののしることさえ「死」に値する罪だというわけです。厳しいですね。但しこれが神の基準であって、罪があるなら裁かれて死なねばならないことは、聖書の一貫した教えなのです。
なのでパウロは、望まない「悪」を行っている自分が「死」に値することに絶望し、救いを求めたのでした。となれば、私たちもパウロと同じ立場だと言えるのではないでしょうか。聖書によれは、私たちは誰もが、神の前では「死」に値する「罪人」だからです。
でも、こうした思いに至ったパウロは勿論、このことに今日気付いた私たちは幸いです。なぜなら、こんな私たちを罪による死の滅びから救い出すために、2000年前にこの世界に現れたのが、神のひとり子と呼ばれる、イエス・キリストだったからです。そしてこのキリストの誕生をお祝いしているのが、クリスマスです。
ではそのキリストは、どうやって私たちを死の滅びから救い出すのでしょう。実はその解決策こそ、イエス・キリストが、私たちの身代わりとなって罪の裁きを受けるため、十字架に架かって死んで葬られ、更には三日後に死を克服してよみがえり、天に上げられ、父なる神の右の座に着かれる、ということでした。実はそうなることを、キリストは事前に弟子たちに、こう予告していました。
【マタイの福音書16:21】
そのときからイエスは、ご自分がエルサレムに行って、長老たち、祭司長たち、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、三日目によみがえらなければならないことを、弟子たちに示し始められた。
そして後に、この予告が全て実現したことを、聖書は克明に記録し、こう伝えています。
【コリント人への手紙第一15:3~4】
キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと、・・・
この事実のゆえに、私たちがこのことを信じるなら、神は私たちを愛しているゆえに、私たちの罪を赦し、たとえ今ある肉体が滅んでも、永遠に生き続ける命を授けよう、というのが、聖書の約束です。なので、イエス・キリストが私たちの罪を贖うために死んで葬られ、よみがえられたことを私たちが信じることこそ、天の父なる神の切なる願いにほかなりません。聖書にこうあります。
【ヨハネの福音書3:16】
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
この事実から、「私は自分のしていることが分からない」と告白していたパウロは、
【ローマ人への手紙7:25】
私たちの主イエス・キリストを通して、神に感謝します。
と神を賛えた上で、こう喜ぶのです。
【ローマ人への手紙8:34】
だれが、私たちを罪ありとするのですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、しかも私たちのために、とりなしていてくださるのです。
このように、あなたがイエス・キリストを救い主と信じたなら、キリストがあなたの罪を贖って、今もとりなしておられるので、あなたは既に罪が赦された者として、滅びを免れ、永遠に生きる者とされるのです。これが、クリスマスに神から差し出されたプレゼントです。そこで是非、あなたもこのクリスマスプレゼントを受け取ろうではありませんか。
(2025.12.24)
