【キリストの足跡をたどる】102_キリストの変貌は何を物語る?

102_キリストの変貌は何を物語る?

【マタイの福音書16:28~17:8】
16:28 まことに、あなたがたに言います。ここに立っている人たちの中には、人の子が御国とともに来るのを見るまで、決して死を味わわない人たちがいます。」
17:1 それから六日目に、イエスはペテロとヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。
17:2 すると、弟子たちの目の前でその御姿が変わった。顔は太陽のように輝き、衣は光のように白くなった。
17:3 そして、見よ、モーセとエリヤが彼らの前に現れて、イエスと語り合っていた。
17:4 そこでペテロがイエスに言った。「主よ、私たちがここにいることはすばらしいことです。よろしければ、私がここに幕屋を三つ造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」
17:5 彼がまだ話している間に、見よ、光り輝く雲が彼らをおおった。すると見よ、雲の中から「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞け」という声がした。
17:6 弟子たちはこれを聞いて、ひれ伏した。そして非常に恐れた。
17:7 するとイエスが近づいて彼らに触れ、「起きなさい。恐れることはない」と言われた。
17:8 彼らが目を上げると、イエス一人のほかには、だれも見えなかった。

【聖書】マタイの福音書16:28~17:8 
●キリストが神の国と共に来る? 
●キリストの変貌 
●エクソドス(出エジプト) 
●ペテロの提案 
●神の栄光と天の声 
●このエピソードが語るもの 

ご視聴ありがとうございます。このシリーズでは、今から約2000年前にこの世界に現れた、イエス・キリストの生涯を時間順に並べて、その足跡を追いかけています。

そして前回は、イエス・キリストから弟子たちに、キリストの弟子として従っていく上での心構えが語られました。今日はその最後の部分から紐解きます。

キリストが神の国と共に来る?

【マタイの福音書16:28~17:8】
16:28 まことに、あなたがたに言います。ここに立っている人たちの中には、人の子が御国とともに来るのを見るまで、決して死を味わわない人たちがいます。」

さあ、キリストから、謎めいた話が告げられました。まず、ここで出てくる「人の子」とはキリストのことです。そして「御国」とは「神の国」を意味します。なので、そこにいた弟子たちのうちの何人かは、キリストが神の国とともにやって来るのを目撃することになる、というのです。どういうことでしょう。それを踏まえて、次の章です。

キリストの変貌

【マタイの福音書16:28~17:8】
17:1 それから六日目に、イエスはペテロとヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。

文脈に従えば、今までイエス・キリストと弟子たちは、イスラエルの北のほうの、ピリポ・カイサリアという地方にいました。そこは、このあたりで最も高い、ヘルモン山という山の麓です。なのでキリストは、12人いた弟子のうち、ペテロとヤコブ、ヨハネという3人を連れて、ヘルモン山に登ったと思われます。続きです。

【マタイの福音書16:28~17:8】
17:2 すると、弟子たちの目の前でその御姿が変わった。顔は太陽のように輝き、衣は光のように白くなった。そして、見よ、モーセとエリヤが彼らの前に現れて、イエスと語り合っていた。

さあ、山の上で、3人の弟子たちの前に凄い光景が広がりました。それまで一緒だったキリストの顔が「太陽のように輝き」、着ていた衣が「光のように白くなった」のですね。ということは、人として肉体をまとってこの世界に来たイエス・キリストが、本来の姿に戻り、神の威光が「太陽のように」内側から輝き出したのです。そして更に、旧約聖書に出てくる「モーセとエリヤ」という人が現れて、「イエスと語り合っていた」というではありませんか。

この「モーセとエリヤ」という2人は、旧約聖書を代表する人物です。具体的には、モーセは、旧約聖書で『モーセ五書』とも呼ばれる『律法』の代表、そしてエリヤは、旧約聖書の中の『預言者』を代表する人物にほかなりません。なので、「律法と預言者」と言えば、それは旧約聖書を意味していて、旧約聖書は、救い主の到来を予告した書物です。

したがって、ここで旧約聖書を代表する「モーセとエリヤが」光り輝く「イエスと語り合っていた」というのは、このイエスこそ、旧約聖書が予告していたキリスト、すなわち救い主であることを証明した出来事だと言えるのです。そして更に、ルカの記録によれば、

【ルカの福音書9:30~31】
それはモーセとエリヤで、栄光のうちに現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について、話していたのであった。

とあります。ということは、既にこの世を去った2人が、実は別な世界で生きていて、キリストのいる場に、「栄光のうちに現れ」たのですね。このことから私たちも、たとえ死んで今の肉体が滅んでも、彼らと同じように生き続けるとわかります。

エクソドス(出エジプト)

そして彼らは、「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について、話していた」とあります。これも注目すべき記録です。というのは、「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期」というのは、イエス・キリストが予告していた、

【マタイの福音書16:21】
ご自分がエルサレムに行って、…(中略)…多くの苦しみを受け、殺され、三日目によみがえらなければならないこと…

にほかなりません。そのことを、日本語の聖書では、「最期」と訳していますね。でもこの言葉は、ギリシャ語で「エクソドス」と言って、「外に出ていくこと」や、「その場を離れて出発すること」、そして更には、旧約聖書に出てくる「出エジプト」という出来事を指した言葉なのです。

この「出エジプト」とは、かつてユダヤ人たちがエジプトで奴隷だった時、モーセが民を率いてエジプトから脱出した、という出来事のことです。その中で、脱出の前夜に、神がエジプト全土に裁きを下すのですが、ユダヤ人たちには、傷のない子羊を殺して、その血を家の鴨居に塗らせることで、血がついた家は、神が裁かずに通り過ぎる「過ぎ越す」という出来事が起こるのです。

なので今もユダヤ人たちは、神が裁きを過ぎ越して、彼らをエジプトから救い出したことを記念し、毎年「過越しの祭り」というお祝いをするのです。こうした一連の出来事を、「出エジプト」「エクソドス」と呼ぶのです。

ではなぜ、キリストが遂げる「最期」が、「出エジプト」「エクソドス」なのでしょう。それは、罪のないキリストが、傷のない子羊と同じように血を流して殺されることにより、子羊の血を塗ったユダヤ人たちを、神が裁かずに過ぎ越したのと同じように、キリストが私たちの罪のために血を流されたと信じる人たちを、神が裁かずに過ぎ越すことになるからです。

もう一度言います。キリストが、子羊と同じように血を流して死ぬことで、子羊の血を塗ったユダヤ人たちを神が救ったのと同じように、キリストの血が流されたのは私のためだったと信じる人たちを、神が赦して罪の滅びから救うのです。これが、イエス・キリストが十字架で死ぬことで成し遂げられる、私たちの罪の贖いの核心です。

ペテロの提案

【マタイの福音書16:28~17:8】
17:4 そこでペテロがイエスに言った。「主よ、私たちがここにいることはすばらしいことです。よろしければ、私がここに幕屋を三つ造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」

ペテロが「幕屋を三つ造ります」と言い出しました。ただし、「幕屋」と訳された、ギリシャ語の「スケーネー」という言葉は、「仮小屋」とか「仮庵」とも訳せます。そしてペテロはユダヤ人なので、もし神の国が実現したその時には、「仮庵の祭り」という、お祭りをすることが念頭にあったのかもしれません。実は旧約聖書に、神の国の予告とされる、こんな言葉があるのです。

【旧約聖書・ゼカリヤ書14:16】
エルサレムに攻めて来たすべての民のうち、生き残った者はみな、毎年、万軍の主である王を礼拝し、仮庵の祭りを祝うために上って来る。

ここで出てくる「万軍の主である王」いうのがキリストです。なので、ペテロはこの時、神の国が到来したと思って、「仮庵の祭り」をお祝いしようと「仮庵を造る」と言ったのではないでしょうか。

ただし、キリストがこれから遂げようとしていることは、人間の罪を贖うために血を流して殺される、「過越しの祭り」を意味することにほかなりません。なので、名実ともに神の国が到来して「仮庵の祭り」を祝うのは、まだ先のことになるのでした。では、今日のクライマックスです。

神の栄光と天の声

【マタイの福音書16:28~17:8】
17:5 彼がまだ話している間に、見よ、光り輝く雲が彼らをおおった。すると見よ、雲の中から「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞け」という声がした。弟子たちはこれを聞いて、ひれ伏した。そして非常に恐れた。するとイエスが近づいて彼らに触れ、「起きなさい。恐れることはない」と言われた。彼らが目を上げると、イエス一人のほかには、だれも見えなかった。

さあ、ペテロが話していたら、「光り輝く雲」が彼らをおおい、天の父なる神がキリストを「わたしの愛する子」と呼んで、ペテロたちに、「彼の言うことを聞け」と言ったのですね。これは、天の父なる神が、「このイエスこそ、生ける神の子キリスト(すなわち救い主)である」とお墨付きを与えた出来事にほかなりません。

この出来事に彼らは驚嘆してひれ伏しましたが、キリストから「起きなさい。恐れることはない」と言われて目をあげると、もう「イエス一人のほかには、だれも見えなかった」のでした。すなわちこの光景は、山の上で彼らの前に展開された、一時的な出来事だったのです。これがこのエピソードの顛末です。

このエピソードが語るもの

さあ、みなさんはこのエピソードをどう捉えるでしょう。これは作り話か、ペテロが夢でも見たとお感じでしょうか。そこで最後に、ペテロ自身が書き記した、聖書の言葉をご紹介します。

【ペテロの手紙第二1:16~18】
私たちはあなたがたに、私たちの主イエス・キリストの力と来臨を知らせましたが、それは、巧みな作り話によったのではありません。私たちは、キリストの威光の目撃者として伝えたのです。この方が父なる神から誉れと栄光を受けられたとき、厳かな栄光の中から、このような御声がありました。「これは私の愛する子。わたしはこれを喜ぶ。」私たちは聖なる山で主とともにいたので、天からかかったこの御声を自分で聞きました。

このようにペテロは、この話は「巧みな作り話」ではないと言っています。では事実なら、私たちはどう受け止めればいいでしょう。それは、3人の弟子たちが、いずれ必ず到来する「神の国」を、前もって垣間見た出来事だったということです。言い換えれば、キリストが彼らに未来を悟らせるために、前もって「神の国」の様子を、彼らに垣間見せたのでした。ゆえに、今日の冒頭でキリストが予告していた、

【マタイの福音書16:28~17:8】
16:28 ここに立っている人たちの中には、人の子が御国とともに来るのを見るまで、決して死を味わわない人たちがいます。」

という言葉がここで実現したのでした。というわけで、彼らが垣間見た神の国はいずれ必ず到来し、その時には私たちも、モーセやエリヤと同じように、キリストと共にいることになるのです。それを信じて、イエス・キリストを救い主と仰ごうではありませんか。

(2026.6.30)

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