103_信仰は「量より質」?
【マタイの福音書17:14~20】
17:14 彼らが群衆のところに行くと、一人の人がイエスに近寄って来て御前にひざまずき、
17:15 こう言った。「主よ、私の息子をあわれんでください。てんかんで、たいへん苦しんでいます。何度も火の中に倒れ、また何度も水の中に倒れました。
17:16 そこで、息子をあなたのお弟子たちのところに連れて来たのですが、治すことができませんでした。」
17:17 イエスは答えられた。「ああ、不信仰な曲がった時代だ。いつまであなたがたと一緒にいなければならないのか。いつまであなたがたに我慢しなければならないのか。その子をわたしのところに連れて来なさい。」
17:18 そして、イエスがその子をお叱りになると悪霊は出て行き、すぐにその子は癒やされた。
17:19 それから、弟子たちはそっとイエスのもとに来て言った。「なぜ私たちは悪霊を追い出せなかったのですか。」
17:20 イエスは言われた。「あなたがたの信仰が薄いからです。まことに、あなたがたに言います。もし、からし種ほどの信仰があるなら、この山に『ここからあそこに移れ』と言えば移ります。あなたがたにできないことは何もありません。」
【マルコの福音書9:14~29】
9:14 さて、彼らがほかの弟子たちのところに戻ると、大勢の群衆がその弟子たちを囲んで、律法学者たちが彼らと論じ合っているのが見えた。
9:15 群衆はみな、すぐにイエスを見つけると非常に驚き、駆け寄って来てあいさつをした。
9:16 イエスは彼らに、「あなたがたは弟子たちと何を論じ合っているのですか」とお尋ねになった。
9:17 すると群衆の一人が答えた。「先生。口をきけなくする霊につかれた私の息子を、あなたのところに連れて来ました。
9:18 その霊が息子に取りつくと、ところかまわず倒します。息子は泡を吹き、歯ぎしりして、からだをこわばらせます。それであなたのお弟子たちに、霊を追い出してくださいとお願いしたのですが、できませんでした。」
9:19 イエスは彼らに言われた。「ああ、不信仰な時代だ。いつまで、わたしはあなたがたと一緒にいなければならないのか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をわたしのところに連れて来なさい。」
9:20 そこで、人々はその子をイエスのもとに連れて来た。イエスを見ると、霊がすぐ彼に引きつけを起こさせたので、彼は地面に倒れ、泡を吹きながら転げ回った。
9:21 イエスは父親にお尋ねになった。「この子にこのようなことが起こるようになってから、どのくらいたちますか。」父親は答えた。「幼い時からです。
9:22 霊は息子を殺そうとして、何度も火の中や水の中に投げ込みました。しかし、おできになるなら、私たちをあわれんでお助けください。」
9:23 イエスは言われた。「できるなら、と言うのですか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」
9:24 するとすぐに、その子の父親は叫んで言った。「信じます。不信仰な私をお助けください。」
9:25 イエスは、群衆が駆け寄って来るのを見ると、汚れた霊を叱って言われた。「口をきけなくし、耳を聞こえなくする霊。わたしはおまえに命じる。この子から出て行け。二度とこの子に入るな。」
9:26 すると霊は叫び声をあげ、その子を激しく引きつけさせて出て行った。するとその子が死んだようになったので、多くの人たちは「この子は死んでしまった」と言った。
9:27 しかし、イエスが手を取って起こされると、その子は立ち上がった。
9:28 イエスが家に入られると、弟子たちがそっと尋ねた。「私たちが霊を追い出せなかったのは、なぜですか。」
9:29 すると、イエスは言われた。「この種のものは、祈りによらなければ、何によっても追い出すことができません。」
前回、キリストが、ペテロ、ヤコブ、ヨハネという3人の弟子を連れて、高い山に登ったら、キリストの姿が輝き出し、モーセとエリヤという、旧約聖書を代表する人物が現れたシーンを紐解きました。その光景は、いずれ訪れる神の国を、キリストが弟子たちに垣間見せた出来事でした。今日は、彼らが山を下りたところから紐解きます。
不信仰な曲がった時代
【マタイの福音書17:14~20】
17:14 彼らが群衆のところに行くと、一人の人がイエスに近寄って来て御前にひざまずき、こう言った。「主よ、私の息子をあわれんでください。てんかんで、たいへん苦しんでいます。何度も火の中に倒れ、また何度も水の中に倒れました。そこで、息子をあなたのお弟子たちのところに連れて来たのですが、治すことができませんでした。」
イエス・キリストと3人の弟子たちが麓についたら、病に苦しむ子供の親が「主よ、私の息子をあわれんでください」とやってきました。この親子は、キリストと3人の弟子が戻る前から、麓に残っていた他の弟子たちに、病を治してほしいとお願いしていたのですね。でも残念ながら、彼らでは治すことができませんでした。
このシーン、同じく福音書の記者であるマルコが、より詳しく描いているのでご紹介します。こうあります。
【マルコの福音書9:14~29】
9:14 さて、彼らがほかの弟子たちのところに戻ると、大勢の群衆がその弟子たちを囲んで、律法学者たちが彼らと論じ合っているのが見えた。群衆はみな、すぐにイエスを見つけると非常に驚き、駆け寄って来てあいさつをした。イエスは彼らに、「あなたがたは弟子たちと何を論じ合っているのですか」とお尋ねになった。すると群衆の一人が答えた。「先生。口をきけなくする霊につかれた私の息子を、あなたのところに連れて来ました。その霊が息子に取りつくと、ところかまわず倒します。息子は泡を吹き、歯ぎしりして、からだをこわばらせます。それであなたのお弟子たちに、霊を追い出してくださいとお願いしたのですが、できませんでした。」
先ほどのマタイは、父親が息子の「てんかん」を治してほしいと連れてきたと書いていました。それについてマルコは、父親が息子に取りついた「口をきけなくする霊」を追い出してほしいとお願いしたと証しています。
そしてそこには、彼らのほかに、「律法学者たち」までいたのですね。この律法学者というのは、ユダヤ教の宗教指導者のことです。彼らは、イエス・キリストを救い主とは認めていない人たちでした。ということは、キリストのいぬ間に、残った弟子たちが病を治せないのを責め立てていたと思われます。それを「大勢の群衆が」眺めていたのですから、弟子たちは、身の置き所がなかったでしょうね。ではマタイの記事に戻ります。
【マタイの福音書17:14~20】
17:17 イエスは答えられた。「ああ、不信仰な曲がった時代だ。いつまであなたがたと一緒にいなければならないのか。いつまであなたがたに我慢しなければならないのか。その子をわたしのところに連れて来なさい。」
さあ、キリストがこれを聞いて、「ああ、不信仰な曲がった時代だ」と嘆きました。キリストには、これからエルサレムに行って、十字架に架かるという、大事な使命がありました。なので、残された時間が少ないにもかかわらず、人々の信仰が心許ないと感じたのでしょう。
そこでこれから子供を呼び寄せ、父親に信仰の成長を促すのです。そのシーン、より詳しいマルコの記事からご紹介します。
信じる者にはどんなことでもできる
【マルコの福音書9:14~29】
9:20 そこで、人々はその子をイエスのもとに連れて来た。イエスを見ると、霊がすぐ彼に引きつけを起こさせたので、彼は地面に倒れ、泡を吹きながら転げ回った。イエスは父親にお尋ねになった。「この子にこのようなことが起こるようになってから、どのくらいたちますか。」父親は答えた。「幼い時からです。霊は息子を殺そうとして、何度も火の中や水の中に投げ込みました。しかし、おできになるなら、私たちをあわれんでお助けください。」イエスは言われた。「できるなら、と言うのですか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」するとすぐに、その子の父親は叫んで言った。「信じます。不信仰な私をお助けください。」イエスは、群衆が駆け寄って来るのを見ると、汚れた霊を叱って言われた。「口をきけなくし、耳を聞こえなくする霊。わたしはおまえに命じる。この子から出て行け。二度とこの子に入るな。」すると霊は叫び声をあげ、その子を激しく引きつけさせて出て行った。するとその子が死んだようになったので、多くの人たちは「この子は死んでしまった」と言った。しかし、イエスが手を取って起こされると、その子は立ち上がった。
さあ、キリストが子供に宿った霊を叱って、病を癒されました。ちなみに聖書では、天使や、「汚れた霊」と呼ばれる悪霊の類が存在することを証しています。この点については、善悪や病気を擬人的に描いたのだと解釈する人たちもいますが、キリストはここで、霊に直接命令を下していますね。なので、聖書の言葉を素直に受け入れるなら、「汚れた霊」が病を使って、「息子を殺そうとして」いたとわかります。
但し、このエピソードで注目すべきことは、病の癒しや「汚れた霊」の追い出しではなく、キリストと父親とのやり取りです。
具体的には、父親が、「おできになるなら、私たちをあわれんでお助けください」と頼んだところ、キリストは、「できるなら、と言うのですか。信じる者には、どんなことでもできるのです」と返していますね。ということは、キリストがこの父親の信仰を奮い立たせて、より強い信仰へと導いているとわかります。なぜなら、「おできになるなら」というのは、イエス・キリストを神の子、救い主と信じていないのと同じだからです。
すると父親はすぐに、「信じます。不信仰な私をお助けください」と悔い改めました。キリストが期待していたのは、まさにこの信仰、すなわち、「できるなら」ではなく、「信じます」という信仰でした。なので、キリストはやみくもに父親の要求に応じたのではなく、彼の信仰に応えたというのが、ここでのポイントです。ではその後のことを、マタイの記録に戻ってご紹介します。
からし種ほどの信仰があるなら
【マタイの福音書17:14~20】
17:19 それから、弟子たちはそっとイエスのもとに来て言った。「なぜ私たちは悪霊を追い出せなかったのですか。」イエスは言われた。「あなたがたの信仰が薄いからです。まことに、あなたがたに言います。もし、からし種ほどの信仰があるなら、この山に『ここからあそこに移れ』と言えば移ります。あなたがたにできないことは何もありません。」
さあ、病を癒せなかった弟子たちが、「そっと」キリストに「なぜ私たちは悪霊を追い出せなかったのですか」と尋ねました。それに対してキリストは、「あなたがたの信仰が薄いからです」というのです。これは耳が痛いですね。
こう言われてしまうと、私たちは祈りや努力が足りなかったと感じて、より多くの時間をそれに割かなくてはと思いがちですね。
でも聖書は、私たちが救われるのは、ただ信仰と恵みによると言っていて、努力や修行で救われるとは教えていません。なので、私たちが修行めいたことをしたり、祈る時間を増やしてみたりしたところで、信仰が伴わなければ、何の意味もありません。
事実、キリストは弟子たちに、「あなたがたの信仰が薄いからです」と言っていますね。「信仰が薄い」とは、祈りや修行の量が足りないのではなく、信仰が質的に薄っぺらい、すなわち、信じると言いながら、心では全幅の信頼を置いていない、というわけです。
だからキリストは、「ああ、不信仰な曲がった時代だ」と嘆き、父親にも、「できるなら、と言うのですか」と、その信仰の薄さを指摘して、「信じる者には、どんなことでもできるのです」と戒めたのでした。この点を押さえておくと、キリストの最後の言葉が、ストンと腹落ちします。ではもう一度、最後の部分を読んでみましょう。
【マタイの福音書17:14~20】
17:20 まことに、あなたがたに言います。もし、からし種ほどの信仰があるなら、この山に『ここからあそこに移れ』と言えば移ります。あなたがたにできないことは何もありません。」
「からし種ほどの信仰があるなら」「できないことは何もありません」ときました。ここで出てくる「からし種」とは、ものすごく小さな種ですが、成長したら2~3メートルにも達するそうです。なので、そんな小さな信仰でも、質が伴っていれば、山だって移るというのですね。確かに、たとえ大きな種でも、中身がなければ、実を結ぶことはありません。種は、量より質が大切ですね。
ということは、キリストはうわべの信仰ではなく、心から神に信頼を寄せる、信仰の質を求めているのです。これが、今日のエピソードの本質です。
不信仰な私をお助けください
でも、「からし種ほどの信仰」を持ちましょうと、言うのは簡単ですが、本当にそれを持つのは、大変なことのように思えます。それこそ、山を動かすほどの信仰など、どんなに努力しても、持ち得ないのではないでしょうか。では、私たちが「からし種ほどの信仰」を持つには、どうしたらいいのでしょう。
実はその答えが、今日の父親の言葉にありました。彼は、「信じます。不信仰な私をお助けください」と言っていましたね。この通り、私たちに求められているのは、まず「信じます」と、本気で神に向きなおって信じることと、それでもなお、その決意がおぼつかない「不信仰な私をお助けください」という、ありのままの自分を神にさらけ出して、ゆだねることにほかなりません。
事実、それを父親が告白した時、願いが聞かれて、子供の病が癒された、言い換えれば、動かなかった山が動いたのでした。
そこで私たちも、まずは「信じます」と、神に向きなおって信じた上で、なおもその信仰が薄くておぼつかないことを認め、「不信仰な私をお助けください」と、神にゆだねようではありませんか。では今から、ともに心を合わせて祈りましょう。
(2026.7.15)
