【キリストの足跡をたどる】106_神の前では誰が偉い?

106_神の前では誰が偉い?

【マルコの福音書9:33~35】
9:33 一行はカペナウムに着いた。イエスは家に入ってから、弟子たちにお尋ねになった。「来る途中、何を論じ合っていたのですか。」
9:34 彼らは黙っていた。来る途中、だれが一番偉いか論じ合っていたからである。
9:35 イエスは腰を下ろすと、十二人を呼んで言われた。「だれでも先頭に立ちたいと思う者は、皆の後になり、皆に仕える者になりなさい。」

【マタイの福音書18:1~4】
18:1 そのとき、弟子たちがイエスのところに来て言った。「天の御国では、いったいだれが一番偉いのですか。」
18:2 イエスは一人の子どもを呼び寄せ、彼らの真ん中に立たせて、
18:3 こう言われた。「まことに、あなたがたに言います。向きを変えて子どもたちのようにならなければ、決して天の御国に入れません。
18:4 ですから、だれでもこの子どものように自分を低くする人が、天の御国で一番偉いのです。

【聖書】マルコの福音書9:33~35・マタイの福音書18:1~4  
●だれが一番偉いか 
●神の国ではだれが偉い? 
●子供のように自分を低く  
●お手本はキリスト 

前回は、神であるなら納める必要のない「神殿税」を、イエス・キリストが人として納めたシーンを紐解きました。今日は、神の前ではどんな人が偉いか、という話です。

だれが一番偉いか

【マルコの福音書9:33~37】
9:33 一行はカペナウムに着いた。イエスは家に入ってから、弟子たちにお尋ねになった。「来る途中、何を論じ合っていたのですか。」彼らは黙っていた。来る途中、だれが一番偉いか論じ合っていたからである。

イエス・キリストが弟子たちに、ここに来るまでに、何を論じ合っていたのか、尋ねました。すると弟子たちは、一様に黙りこくってしまったのですね。それもそのはず、彼らは、自分たちの中で誰が一番偉いかを論じ合っていたからでした。

振り返れば、しばらく前に、キリストが山の上で変貌を遂げたとき、その光景に立ち会えたのは、弟子の中で、ペテロとヤコブ、ヨハネの3人だけでした。一方で、山の麓に取り残された9人は、群衆の前で病人を癒すことが出来ず、身の置き所がありませんでした。

それに、ペテロがイエス・キリストに、「あなたは生ける神の子キリストです」と告白して喜ばれたことや、キリストが自分とペテロの分だけ神殿税を用意したのを思い起こせば、おのずと彼らに、優越感や劣等感が芽生えていたのかもしれません。

なので、いずれキリストが神の国を打ち立てて王になったら、弟子たちの中では、誰が一番偉いのか、そして、自分たちにどんなポストが用意されるのか、気にしていても不思議はありません。そこでキリストが、偉いのはどんな人か、神の目線に立って、弟子たちに教えます。

【マルコの福音書9:33~35】
9:35 イエスは腰を下ろすと、十二人を呼んで言われた。「だれでも先頭に立ちたいと思う者は、皆の後になり、皆に仕える者になりなさい。」

示唆に富んだ一言が飛び出しました。一般的に、人の「先頭に立ちたい」と思ったら、ほかの人たちより抜きん出て、輝かしい実績をあげたり、目立つポジションで注目を浴びたりしようと考えがちですね。

ところがキリストは、「先頭に立ちたいと思う者は、皆の後になり、皆に仕える者になりなさい」というのです。すなわち、「俺が」「俺が」と、人を押しのけて前に出るのではなく、後ろに回って、前を行く皆への奉仕に徹しなさい、というわけです。

こうした考え方は、現代では「サーバント・リーダーシップ」とも呼ばれて、ビジネスの世界でも採用されるようになりました。ただし、当時の弟子たちにとっては、驚きの一言だったのではないでしょうか。

そしてこの続きは、マルコよりマタイが詳しく書いているので、ここからはマタイの記事を紐解きます。

神の国ではだれが偉い?

【マタイの福音書18:1~4】
18:1 そのとき、弟子たちがイエスのところに来て言った。「天の御国では、いったいだれが一番偉いのですか。」

マタイによれば、今度は弟子たちが、「天の御国では」誰が一番偉いか、聞いてきたとあります。この「天の御国」とは、彼らが期待している「神の国」のことです。ただマタイは、この記事をユダヤ人に向けて書いているので、ユダヤ人がみだりに「神」という言葉を口にしないことに配慮して、あえて「神の国」とは言わず、「天の御国」と書いていているのです。

なので弟子たちは、キリストが樹立する「神の国」では、具体的に誰が一番偉いのか尋ねつつ、内心は、誰を要職に据えるんだ、そして自分には、どんなポストが待っているんだと聞きたかったのかもしれません。

このことから察するに、当時の弟子たちは、キリストがエルサレムで殺されると予告していたことなど、まともに信じていなかったのでしょう。彼らにとっては、神の計画の実現よりも、自己実現の方が大切だったとわかります。そしてそれは、現代の私たちの姿でもあるのではないでしょうか。では、キリストの回答を見てみましょう。

子供のように自分を低く

【マタイの福音書18:1~4】
18:2 イエスは一人の子どもを呼び寄せ、彼らの真ん中に立たせて、こう言われた。「まことに、あなたがたに言います。向きを変えて子どもたちのようにならなければ、決して天の御国に入れません。ですから、だれでもこの子どものように自分を低くする人が、天の御国で一番偉いのです。

キリストは、具体的に「誰が偉い」とは答えませんでした。そもそも弟子たちが、誰が一番偉いかと気にしている時点で、キリストの思いとはかけ離れていたのでしょうね。そこで、家にいた一人の子供を呼び寄せ、「まことに、あなたがたに言います」と注目させました。すなわち、「今から大事なことを語るからよく聞くように」というわけです。

そして、「向きを変えて子どもたちのようにならなければ、決して天の御国に入れません」と宣言しました。これは極めて大事な忠告です。要は、誰が一番偉いか、誰がどんなポストに就くかなどと、思い巡らせていること自体が論外で、まずはその心を入れ替え、「向きを変えて子どもたちのように」なりなさい、というわけです。

では、「子どもたちのように」なれとは、一体どうなればいいのでしょう。それは、小さな子供が素直に親に依存するように、私たちが素直に神に依存し、全幅の信頼を置くことにほかなりません。言い換えれば、神こそ私たちに命を授けた真の親だと認めて、全面的に信頼せよ、そうでなければ、決して「神の国」には入れない、というのです。

このことは、かつてキリストが、ニコデモという人に、

【ヨハネの福音書3:3】
「まことに、まことに、あなたに言います。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」

と言っていたことと、内実は全く同じです。すなわち、キリストがニコデモに、「新しく生まれなければ」と言ったのは、母体に戻って生まれ変わることではなくて、生まれた子供が親のもとで成長するように、私たちが神によって生かされる、「神の子供」として生きることにほかなりません。

なので、「向きを変えて子どもたちのように」なれとは、神などいない、いても自分とは関係ないと、神に背中を向けてきた態度を改め、神のほうに向きを変えて、「神の子供」として生きなさい、と言っているのです。

その上で、「子どものように自分を低くする人が、天の御国で一番偉いのです」と結論付けました。「子どものように自分を低くする」とは、子供っぽく振舞ったり、自分を卑下したりすることではありません。

そうではなくて、子供は親の庇護なくしては生きられず、庇護があって当然だからこそ、素直に親に依存しますよね。そのように、私たちも、神の前に身を低くして、素直に神に依存し、その庇護に与ることにほかなりません。

ゆえにキリストは、「神の子供」として身を低くし、神に全幅の信頼を寄せた上で、皆の後ろで奉仕に徹しなさい、と諭したのでした。これが今日のエピソードの本質です。

お手本はキリスト

そして実は、天の父なる神の子供として、我が身を低くし、父なる神に全幅の信頼を寄せて、人々に仕えた方こそ、ほかならぬイエス・キリストご自身でした。そのことをまとめた、聖書の言葉をご紹介します。

【ピリピ人への手紙2:6~8】
キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。

このように、キリストは本来、神と同質の「子なる神」であったにもかかわらず、へりくだって、イエスという「人」となり、「父なる神」が計画したとおり、十字架に架かって死ぬ運命にまで従ったのですね。すなわち、万物の頂点に君臨する神ご自身が、神であることを捨てて人になり、更に人々の罪を背負って十字架に架かるほど身を低くしたというわけです。

ゆえに、そんなキリストを、父なる神がどうされたのか、続きです。

【ピリピ人への手紙2:9~11】
それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。それは、イエスの名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、すべての舌が、「イエス・キリストは主です」と告白して、父なる神に栄光を帰するためです。

キリストの父である神は、自らを低くして死なれたキリストをよみがえらせて、天で最も高い地位にまで、キリストを引き上げたのでした。そしてそれによって、全世界がイエス・キリストをあがめ、すべての人が「イエスこそ主なる神の子キリスト(救い主)です」と告白することにより、父なる神が計画がした「神の国」が実現し、神の栄光が現れる、というわけです。

低い者が高く上げられる

ここでのポイントは、まずキリストが、「ご自分を空しくして」、神なのに「人間と同じようになられ」た上で、「自らを低くして」「十字架の死に」至るまで、父なる神の計画に従った、ということです。ゆえに父なる神は、低きに下ったキリストを高く上げたのです。このことは、キリストが弟子たちに語っていた、

【マタイの福音書18:1~4】
18:4 だれでもこの子どものように自分を低くする人が、天の御国で一番偉いのです。

という言葉そのものです。すなわち、神の国では、この世の中で輝かしい実績や力を持った人が偉いのではなく、へりくだって仕える人こそ偉い、というわけです。なのでキリストは、ご自分の歩みをお手本として、弟子たちにも自分を低くして、皆に仕える者となるよう諭したのでした。

ゆえに弟子たちも、キリストが天に上げられた後に、キリストに倣って低きに下り、キリストの「使徒」として人々に仕えたのでした。この姿に学ぼうではありませんか。そこで最後に、弟子のペテロが後に書き残した言葉をご紹介して終わります。

【ペテロの手紙第一5:6】
あなたがたは神の力強い御手の下(もと)にへりくだりなさい。神は、ちょうど良い時に、あなたがたを高く上げてくださいます。

(2026.8.30)

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!