【キリストの足跡をたどる】090_ユダヤ教とキリスト教は何が違う?

090_ユダヤ教とキリスト教は何が違う?

【聖書】マルコの福音書7:1~8 
●食事の前に手を洗え 
●人間の命令を教える偽善者 
●なぜ言い伝えを重んじるのか 
●真理は私たちを自由にする 

【マルコの福音書7:1~8】
7:1 さて、パリサイ人たちと、エルサレムから来た何人かの律法学者たちが、イエスのもとに集まった。
7:2 彼らは、イエスの弟子のうちのある者たちが、汚れた手で、すなわち、洗っていない手でパンを食べているのを見た。
7:3 パリサイ人をはじめユダヤ人はみな、昔の人たちの言い伝えを堅く守って、手をよく洗わずに食事をすることはなく、
7:4 市場から戻ったときは、からだをきよめてからでないと食べることをしなかった。ほかにも、杯、水差し、銅器や寝台を洗いきよめることなど、受け継いで堅く守っていることが、たくさんあったのである。
7:5 パリサイ人たちと律法学者たちはイエスに尋ねた。「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人たちの言い伝えによって歩まず、汚れた手でパンを食べるのですか。」
7:6 イエスは彼らに言われた。「イザヤは、あなたがた偽善者について見事に預言し、こう書いています。『この民は口先でわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。
7:7 彼らがわたしを礼拝しても、むなしい。人間の命令を、教えとして教えるのだから。』
7:8 あなたがたは神の戒めを捨てて、人間の言い伝えを堅く守っているのです。」

今日は、ユダヤ教に熱心な人たちが、イエス・キリストの弟子たちにクレームをつけるシーンから紐解きます。

食事の前に手を洗え

【マルコの福音書7:1~8】
7:1 さて、パリサイ人たちと、エルサレムから来た何人かの律法学者たちが、イエスのもとに集まった。

イエス・キリストのもとに、「パリサイ人」「律法学者」と呼ばれる人たちがやって来ました。「パリサイ人」とは、ユダヤ教の教えを熱心に守る人たち、そして「律法学者」とは、ユダヤ教の宗教指導者のことです。そして、キリストの弟子たちの、ある行為に目を留めました。

【マルコの福音書7:1~8】
7:2 彼らは、イエスの弟子のうちのある者たちが、汚れた手で、すなわち、洗っていない手でパンを食べているのを見た。

ユダヤ教の人たちが、手を洗わずにパンを食べている弟子たちを見つけました。食事の時に手を洗わなかったなんて、些細なことに気がつきましたね。でも彼らにとっては、これは由々しき問題でした。その理由を、この記事を書いたマルコが、こう説明しています。

【マルコの福音書7:1~8】
7:3 パリサイ人をはじめユダヤ人はみな、昔の人たちの言い伝えを堅く守って、手をよく洗わずに食事をすることはなく、市場から戻ったときは、からだをきよめてからでないと食べることをしなかった。ほかにも、杯、水差し、銅器や寝台を洗いきよめることなど、受け継いで堅く守っていることが、たくさんあったのである。

この通り、ユダヤ人たちには、手を洗ってからでないと食事をしない習慣があったのですね。それだけでなく、彼らが食事に使う「杯、水差し、銅器」といった食器から、身体を横たえる「寝台」に至るまで、「洗いきよめ」て使っていたというのです。

ただし、彼らがそうするのは、必ずしも「汚(よご)れ」を落とすためではありませんでした。そうではなくて、宗教的、儀式的な意味で「汚(けが)れ」を洗い清めよ、という「言い伝え」に従って、洗っていたのでした。そこで彼らが問い詰めます。

【マルコの福音書7:1~8】
7:5 パリサイ人たちと律法学者たちはイエスに尋ねた。「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人たちの言い伝えによって歩まず、汚れた手でパンを食べるのですか。」

さあ、彼らが、「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人たちの言い伝えによって」歩まないのか、と問うて来ました。この通り、彼らは「手が汚(きたな)いから洗え」というのではなく、昔の人たちの言い伝えに従え、と言いたいわけです。ということは、このことを通して、弟子たちに「言い伝え」を守らせていない、キリストを糾弾したいのですね。そこでキリストが反論します。

人間の命令を教える偽善者

【マルコの福音書7:1~8】
7:6 イエスは彼らに言われた。「イザヤは、あなたがた偽善者について見事に預言し、こう書いています。『この民は口先でわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。彼らがわたしを礼拝しても、むなしい。人間の命令を、教えとして教えるのだから。』

さあ、痛烈な一言が飛び出しました。キリストが、ユダヤ教に熱心な人たちに向かって、「偽善者」と呼んでいますね。そして、旧約聖書に出て来るイザヤという預言者が告げていた、神の言葉を引用し、彼らの本性を言い表わしました。それによれば、聖書の神はイザヤを通して、

【マルコの福音書7:1~8】
7:6 『この民は口先でわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。彼らがわたしを礼拝しても、むなしい。人間の命令を、教えとして教えるのだから。』

と言っていたというのです。神の立場からすれば、ユダヤ人たちは口先ばかりで、心の中では決して神など敬っていない、だから彼らの礼拝はむなしいのだ、事実彼らは、「人間の命令」でしかない「言い伝え」を、まるで「神の命令」であるかのように教えているではないか、というわけです。そしてキリストがこう結論付けます。

【マルコの福音書7:1~8】
7:8 あなたがたは神の戒めを捨てて、人間の言い伝えを堅く守っているのです。」

ユダヤ教の人たちは、「神の戒め」を捨ててしまったというのですね。ここで出て来る「神の戒め」とは、神が彼らに授けた教え、すなわち、「十戒」で有名な、「モーセの律法」と呼ばれる戒めが収められた、「旧約聖書」の教えのことです。なので、彼らは聖書の教えを捨ててしまったというのです。

一方で、「人間の言い伝え」とは、昔の人たちが口伝えで語り継いできた、聖書にはない、膨大な戒めを指しています。それらは後に成文化されて「ミシュナ」と呼ばれるようになり、そこに更に、多くの注釈が付加されて、やがて「タルムード」というユダヤ教の正典となります。なので、建前上は、「旧約聖書」と「タルムード」の二つを正典としているのが、現代のユダヤ教です。

ただし、所詮「タルムード」は、人が考えた「言い伝え」に過ぎません。なので、聖書の神の目線に立てば、それは「神の戒め」ではありません。

従って、聖書の教えを差し置いて、「人間の言い伝え」ばかり守れと教えていた「パリサイ人」や「律法学者たち」は、キリストに言わせれば、「神の戒めを捨て」「偽善者」にほかなりませんでした。これがこのエピソードの全貌です。

そしてこの後、彼らの教えが、いかに聖書の教えからかけ離れているか、キリストが具体例を示します。それについては、次回触れることにして、今日は、彼らユダヤ人たちが、なぜ殊更に「言い伝え」を重んじるのか、そして、それを重んじるユダヤ教と、キリスト教とでは、何が違うのかをまとめておきたいと思います。

なぜ言い伝えを重んじるのか

そもそも聖書では、なぜユダヤ人をクローズアップするのでしょう。それは神が、私たち人類に神の意思を告げ知らせ、この世界に救い主を送り出すために、一人の人から民族を起こしたからでした。それが、アブラハムという先祖から増え広がり、神ご自身が「イスラエル」と命名した、ユダヤ民族です。これが、彼らが「選民」とも呼ばれる所以です。

でも神は、決して彼らがほかの民族より優れていたから選んだわけではありません。むしろ神に反抗したり、堕落したりと、間違いを犯すことの多いのが彼らユダヤ民族でした。なので彼らは、神に背き続けた結果、国が滅んで民族ごと移住を強いられたことさえありました。それが、紀元前586年に起こった「バビロン捕囚」と呼ばれる悲劇です。

でも神は、決して彼らを見捨てはしませんでした。なのでユダヤ人たちは、国を追われてから70年後に、元いた場所に戻ることが出来ました。すると彼らは、もう神に背いてはならないという思いから、今度は、「神の戒め」より、更に厳しい戒めを、自分たちで作り出すようになりました。それが問題の「昔の人たちの言い伝え」の数々です。

そしていつしか、彼らは「神の戒め」以上に「昔の人たちの言い伝え」を重んじるようになり、日常生活を「言い伝え」で束縛するようになりました。なのでキリストは、彼らが「言い伝え」に捕らわれて、「神の戒め」を捨ててしまったことを嘆いたのです。

真理は私たちを自由にする

こうした経緯から、キリストは「人の言い伝え」に束縛されるのではなく、「神の戒め」が書かれた「旧約聖書」の教えに、彼らが改めて立ち返るよう、

【マタイの福音書4:17】
「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」

と促したのでした。この「悔い改め」とは、「考えを改める」とか「方向を転換する」「立ち返る」という意味を持つ言葉です。この通り、「人の言い伝え」ではなく、神が授けた聖書の教えに立つことこそ、彼らのみならず、私たちもまた、あらゆる束縛から解放されて、真の自由を得る第一歩と言えるのです。それをキリストはこう説明しています。

【ヨハネの福音書8:32】
「あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」

このとおり、聖書に書かれた真理、すなわち神の教えは、人を束縛するものでは決してなく、私たちに真の自由を得させるものにほかなりません。なぜなら聖書は、私たち人間が、実は既に束縛されているお互いなのだと説明し、その上で、私たちを束縛から解放すると約束してくれているからです。もう一度言います。私たちは今、既に束縛されているお互いなのです。では、私たちを束縛しているものはなんでしょう。それは、私たちの誰もが宿していると聖書が言っている「罪」のことで、人は皆「罪」のゆえに、死んで滅びる運命にあるというのです。そこで、私たちを「罪」の束縛から救い出すために、神が遣わすと予告していた「救い主」こそ、イエス・キリストです。

そして事実、2000年前にこの世界に来たキリストは、私たちの「罪」の身代わりとして十字架に架かって死ぬことによって、私たち人間が「罪」の束縛から解放され、真の自由を得る道を拓いてくださったのでした。なので私たちは、このイエス・キリストこそ、私の「罪」を贖うために死なれた「救い主」だと信じる信仰によって救われ、真に自由の身とされるのです。これがキリストのもたらした「良い知らせ」「福音」です。

これについては、キリストが来た後のことを記録した「新約聖書」が、詳しく説明しています。というわけで、人が考えた「言い伝え」ではなく、神が「救い主」を遣わすと予告した「旧約聖書」と、その約束が実現したことを伝える「新約聖書」を正典としているのが、キリスト教です。

そこであなたも、私たちの周りにも溢れる、人間の「言い伝え」に捕らわれず、神が「旧新約聖書」を通して啓示したイエス・キリストこそ、私の救い主だと信じて、真の自由を得ようではありませんか。それを示した言葉をもう一度読んで終わりにします。

【ヨハネの福音書8:32】
「あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」

(2025.12.15)

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