【キリストの足跡をたどる】018_人は神を退けている?

人は神を退けている

【聖書】ヨハネの福音書3:1~13   
ニコデモってだれ? 
新しく生まれなければ? 
人は神を退けている?

【ヨハネの福音書3:1~13

3:1 さて、パリサイ人の一人で、ニコデモという名の人がいた。ユダヤ人の議員であった。

3:2 この人が、夜、イエスのもとに来て言った。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられなければ、あなたがなさっているこのようなしるしは、だれも行うことができません。」

3:3 イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに言います。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」

3:4 ニコデモはイエスに言った。「人は、老いていながら、どうやって生まれることができますか。もう一度、母の胎に入って生まれることなどできるでしょうか。」

3:5 イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに言います。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません。

3:6 肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。

3:7 あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。

3:8 風は思いのままに吹きます。その音を聞いても、それがどこから来てどこへ行くのか分かりません。御霊によって生まれた者もみな、それと同じです。」

3:9 ニコデモは答えた。「どうして、そのようなことがあり得るでしょうか。」

3:10 イエスは答えられた。「あなたはイスラエルの教師なのに、そのことが分からないのですか。

3:11 まことに、まことに、あなたに言います。わたしたちは知っていることを話し、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れません。

3:12 わたしはあなたがたに地上のことを話しましたが、あなたがたは信じません。それなら、天上のことを話して、どうして信じるでしょうか。

3:13 だれも天に上った者はいません。しかし、天から下って来た者、人の子は別です。

前回は、エルサレムで多くの人々がイエス・キリストを信じたけれども、キリストご自身は彼らを信用しなかった、という記事を見てきました。恐らく人々は、キリストが起こす奇跡を見て、自分たちに都合のよい人物として信じはしたものの、救い主である神として全幅の信頼を寄せたのではなかったのでしょう。実際、キリストが彼らの期待にそぐわないと、その心は離れ、最後は「十字架につけろ」と叫んでキリストを殺してしまうのです。

とはいえ、中には、イエス・キリストが確かに救い主ではないかと直感した人がいました。それが今日の主人公となる当時のエリート、ニコデモです。

ニコデモってだれ?

【ヨハネの福音書3:1~13

3:1 さて、パリサイ人の一人で、ニコデモという名の人がいた。ユダヤ人の議員であった。この人が、夜、イエスのもとに来て言った。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられなければ、あなたがなさっているこのようなしるしは、だれも行うことができません。」

ニコデモという人は、「サンヘドリン」と呼ばれるユダヤ議会の議員で、当時のユダヤ教の一派である「パリサイ派」に属する、「ラビ」と呼ばれる宗教指導者でもありました。その彼が、夜、お忍びのようにキリストのもとを尋ねてきました。そして、あなたは神のもとから来られたラビですねと評したのです。

【ヨハネの福音書3:1~13

3:3 イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに言います。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」

新しく生まれなければ?

キリストがいきなり核心的な一言を発しました。「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」この言葉、ニコデモだけでなく、私たちに向けられた極めて重要な宣言です。

すなわち、私たち人間は皆、肉体的に生まれては来たけれども、罪のゆえに神との関係が絶たれているなら、霊的にも新しく生まれて、神との関係を回復しないと、神と共にいることができないんだよ、と言っている訳です。だから、以前バプテスマのヨハネという人が、「悔い改めなさい」すなわち、「神に立ち返りなさい」「方向転換をしなさい」と、神との関係の回復を促していたのですね。

このことについて、キリストは、ニコデモが宗教指導者なので、真理をストレートに話したのですが、ニコデモの反応はどうなのでしょう。

【ヨハネの福音書3:1~13

3:4 ニコデモはイエスに言った。「人は、老いていながら、どうやって生まれることができますか。もう一度、母の胎に入って生まれることなどできるでしょうか。」

ニコデモは、目に見える肉体的な誕生に捕らわれて、目に見えない霊的な示唆を与えられたことがわからないのです。

【ヨハネの福音書3:1~13

3:5 イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに言います。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません。肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。

キリストがユダヤ的な表現を使ってきました。すなわち、人は誰でも、母親の羊水を通しておぎゃあと生まれてくるけれども、それでは肉体的に生まれただけなので、神の御霊、すなわち聖霊によって、霊的にも新しく生まれることで、神の国で神と共にいられるようになりなさい、というのです。

なぜなら、かつて人が神によって創られたときは、人には罪がなかったので、神と人との関係は親密だったのですね。ところが、アダムという最初の人が神に背いて以来、人は誰もが「原罪」という罪の根を持ってしまったので、それが清算されなければ、人は神と共にいることができないからだ、というわけです。そこでキリストは、私たちが今、肉体的に生きている間に、霊的にも新しく生まれて、神と人との関係を回復しなさい、と促しているのです。

【ヨハネの福音書3:1~13

3:7 あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。風は思いのままに吹きます。その音を聞いても、それがどこから来てどこへ行くのか分かりません。御霊によって生まれた者もみな、それと同じです。」

キリストの説明が続きます。すなわち、風が目に見えないように、新しく生まれることも人の目には見えないけれども、確かにがあるのですよ。そして風がどこへ行くのか分からないように、新しく生まれた人がどこにいくのか、言い換えれば、新しく生まれた人が神の国に入ることは、あなた方には分からないでしょう。けれども、風が吹くと音がするように、新しく生まれた人の働きは自ずと周りに影響を与えるので、そういう人がいることは分かりますね、というわけです。

なので、私たちの生涯でも、様々な感化や影響を与えてくれた人たち、或いは、社会に様々な貢献をされた人たちのバックボーンを紐解くと、実は、ここでキリストが言っている「新しく生まれた人」が案外多いのですね。ところがニコデモはピンと来ません。

【ヨハネの福音書3:1~13

3:9 ニコデモは答えた。「どうして、そのようなことがあり得るでしょうか。」イエスは答えられた。「あなたはイスラエルの教師なのに、そのことが分からないのですか。まことに、まことに、あなたに言います。わたしたちは知っていることを話し、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れません。わたしはあなたがたに地上のことを話しましたが、あなたがたは信じません。それなら、天上のことを話して、どうして信じるでしょうか。だれも天に上った者はいません。しかし、天から下って来た者、人の子は別です。

キリストはニコデモの返事にガッカリです。なぜなら、ニコデモをはじめとするユダヤ民族は、神が救い主を世に送り出すために、アブラハムという人から子孫を興して育ててきた、特別な民族だったからでした。その中でトップクラスの宗教指導者がニコデモだったのに、全く理解できないのですね。

そこでキリストは、地上のたとえを信じないなら、目に見えない天上のことなど信じられないですよ、なぜなら、天に上って見てきた人はいないでしょう?だから私が、天から下ってきて、人の子となって証言しているのだよ、と言っているのです。

ニコデモとの対話はまだ続きますが、今日はここまでで纏めます。

人は神を退けている?

今日の聖書箇所の肝はなんと言っても「新しく生まれる」ということですが、キリストが教えても、ニコデモの理解が及びません。そして、ニコデモと同様に、現代でも、聖書が教えてくれていることを、受け入れられない人が多いのです。なぜでしょう?

私たちが聖書を紐解くときに、どうにも陥りやすいのは、聖書で「神が語られた」のに、自分本位で読むあまり、私たちの常識や価値観を聖書に押し付けてしまうことです。すると、私たちや時代の考え方にそぐわないこと、知見の及ばないこと、今の科学と矛盾するかに見えることが出てくると、自分の考えを優先して、聖書を退けてしまうのです。そして残念ながら、エリートと呼ばれる人ほど、この罠に陥りやすいのです。

その最たる例がニコデモです。彼は当時の宗教界のエリートで、社会的にも地位の高かった人です。それが落とし穴でした。事実、キリストが、人知を超えた神の領域について、人が理解できるように、地上のたとえまで使って教えてくれているのに、彼は「どうして、そのようなことがあり得るでしょうか。」すなわち、心の底では「そんなはバカな」と思っていたのですね。

このことは、神によって創られた私たちが、神に背中を向けているのと同じです。そして今でも、多くの人が、ニコデモと同じ態度を神にしています。例えば、「神とはああだ」「来世はこうだ」「裁きなどあるはずがない」と、見てもいない神の領域を自分に都合よく規定しがちです。当時のエルサレムの人々もそうだったのでしょう。でもそれは、神の目から見れば、「俺が俺が」と、人が神の座に居座る傲慢な態度です。

実は、最初の人アダムが犯した罪の根源とはまさにそれで、「人が神のように振舞って、真の神を退けること」これこそ、人類の最大の罪なのです。

ゆえにキリストは、人が知り得ない神の領域について、私が天から下ってきて話しているのだよ、なぜなら私が、人の子としてこの世に来た、三位一体の「子なる神」だからですよ、さあ、あなたは私を誰だといいますか?と私たちに問うている、それが今日のストーリーです。

ここまでの結論となる言葉をご紹介して終わりにします。

【コリント人への手紙第一8:1~3

知識は人を高ぶらせ、愛は人を育てます。自分は何かを知っていると思う人がいたら、その人は、知るべきほどのことをまだ知らないのです。しかし、誰かが神を愛するなら、その人は神に知られています。

この言葉、人が持つ知識を否定しているのではありません。そうではなく、知識だけを拠り所として神の御心に反した判断をしないよう、先ず神との愛の関係を持ちなさいと教えています。そのためには、私たちが神に方向転換し、新しく生まれた上で、知識の源である神との信頼関係のもとで、知り得たことを活用しなさいと勧めてくれているのです。

そこで、「人」や「誰か」という所に、【私】もしくは【ご自分の名前】を入れて読んでみると、キリストが仰りたかった思いがよくわかってまいります。

知識は【人】を高ぶらせ、愛は【人】を育てます。自分は何かを知っていると思う【人】がいたら、【その人】は、知るべきほどのことをまだ知らないのです。しかし、【誰か】が神を愛するなら、【その人】は神に知られています。

次回、福音の核心となる続きの記事を、ニコデモと共に学んでまいります。私たちは、上から目線ではなく、素直な心で、神が語る聖書の言葉に耳を傾けようではありませんか。

(2022.11.30)

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