【キリストの足跡をたどる】023_見ないで信じられるか?

見ないで信じられるか?

【聖書】ヨハネの福音書4:46~54  
●ヨハネが記録した2つめの奇跡 
●1つめの奇跡との共通点 
●見ないで信じる信仰へ 

【ヨハネの福音書4:46~54

4:46 イエスは再びガリラヤのカナに行かれた。イエスが水をぶどう酒にされた場所である。さてカペナウムに、ある王室の役人がいて、その息子が病気であった。

4:47 この人は、イエスがユダヤからガリラヤに来られたと聞いて、イエスのところに行った。そして、下って来て息子を癒やしてくださるように願った。息子が死にかかっていたのである。

4:48 イエスは彼に言われた。「あなたがたは、しるしと不思議を見ないかぎり、決して信じません。」

4:49 王室の役人はイエスに言った。「主よ。どうか子どもが死なないうちに、下って来てください。」

4:50 イエスは彼に言われた。「行きなさい。あなたの息子は治ります。」その人はイエスが語ったことばを信じて、帰って行った。

4:51 彼が下って行く途中、しもべたちが彼を迎えに来て、彼の息子が治ったことを告げた。

4:52 子どもが良くなった時刻を尋ねると、彼らは「昨日の第七の時に熱がひきました」と言った。

4:53 父親は、その時刻が、「あなたの息子は治る」とイエスが言われた時刻だと知り、彼自身も家の者たちもみな信じた。

4:54 イエスはユダヤを去ってガリラヤに来てから、これを第二のしるしとして行われた。

今私たちは、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネという4人が、それぞれの視点で書き残した『福音書』を時間順に並べて、キリストの足跡を辿っています。キリストはその生涯を通して、沢山の言葉を残し、多くの奇跡的な出来事を起こされましたが、福音書を書いた1人のヨハネは、そこから代表的な奇跡を7つ紹介しています。そこで今日は、ガリラヤにおける2つめの奇跡を見ていきます。

ヨハネが記録した2つめの奇跡

【ヨハネの福音書4:46~54

4:46 イエスは再びガリラヤのカナに行かれた。イエスが水をぶどう酒にされた場所である。さてカペナウムに、ある王室の役人がいて、その息子が病気であった。この人は、イエスがユダヤからガリラヤに来られたと聞いて、イエスのところに行った。そして、下って来て息子を癒やしてくださるように願った。息子が死にかかっていたのである。

ガリラヤでは、キリストがエルサレムでされた様々な奇跡の噂が広まっていました。それを聞きつけたある役人が、病気で死にかかっている息子を癒してもらいたいと、キリストを訪ねて来ました。彼は30キロ離れたカペナウムから、標高差にして600メートルも高いカナまで、恐らく藁をもすがる思いで駆け上ってきたのでしょうね。ところがキリストの言葉は、はじめネガティブなものでした。

【ヨハネの福音書4:46~54

4:48 イエスは彼に言われた。「あなたがたは、しるしと不思議を見ないかぎり、決して信じません。」

この言葉から察せられるのは、エルサレムでもガリラヤでも、多くの人は、キリストが、「しるしと不思議」即ち、奇跡を起こすから歓迎しているに過ぎない、という背景です。事実、エルサレムでは、人々がキリストがされる奇跡を見て、その時は信じて沸き立ったものの、彼らは3年後、キリストを十字架に架けよ、と叫ぶようになるのです。ゆえにキリストは、奇跡を見て熱狂しただけの人々を信用しませんでした。けれども、息子を救いたいと必死の思いでやってきたこの役人はどうだったのでしょう?

※エルサレムでの出来事
【キリストの足跡を辿る】017_イエスをだれだと言いますか? 参照

【ヨハネの福音書4:46~54

4:49 王室の役人はイエスに言った。「主よ。どうか子どもが死なないうちに、下って来てください。」

この役人は、キリストのネガティブな言葉をよそに、ただただキリストに助けを求めました。恐らくこの人には、この方が来て下さったなら、必ず息子は治るという確信があったのでしょう。この思いに対してキリストは、神ならではの応答をされます。

【ヨハネの福音書4:46~54

4:50 イエスは彼に言われた。「行きなさい。あなたの息子は治ります。」その人はイエスが語ったことばを信じて、帰って行った。

キリストは、子どものもとに出かけるのではなく、「行きなさい。あなたの息子は治ります。」と、ただ言葉だけを役人に返しました。それに対して、この役人は、イエスが語ったことばを信じて、帰って行った、とあります。

【ヨハネの福音書4:46~54

4:51 彼が下って行く途中、しもべたちが彼を迎えに来て、彼の息子が治ったことを告げた。子どもが良くなった時刻を尋ねると、彼らは「昨日の第七の時に熱がひきました」と言った。父親は、その時刻が、「あなたの息子は治る」とイエスが言われた時刻だと知り、彼自身も家の者たちもみな信じた。イエスはユダヤを去ってガリラヤに来てから、これを第二のしるしとして行われた。

役人は帰り道にしもべたちと出くわし、息子の病が癒されたことを知りました。それが、キリストが言葉を返された時だったとわかると、彼とその家の者たち、即ち、しもべも含む家族全員がキリストを信じたのです。これが、ヨハネの紹介する、2つめの奇跡です。

1つめの奇跡との共通点

ここで思い出したいのは、かつて同じカナで催された婚礼での1つめの奇跡です。あの時イエス・キリストの母マリアは、ぶどう酒がなくなって、キリストに助けを求めました。それに対してキリストは「私の時はまだ来ていません」と、一見突き放したかのような返事をしました。けれどもマリアは給仕たちに、あの方の言うことは何でもするようにと、ただキリストを信頼し、その助けに寄り頼みました。そこでキリストは給仕たちに、「水がめを水で満たし、それを汲んで持って行くように」と、言葉だけを与えました。給仕たちはその言葉に素直に従ったところ、水がぶどう酒に変わっていました。そして、弟子たちがキリストを信じたのです。

※カナの婚礼における1つめの奇跡
【キリストの足跡を辿る】015_奇跡は信じられるか? 参照

一方で今回は、とある役人が、息子が死にかかって、キリストに助けを求めてきました。それに対してキリストは「あなたがたは奇跡を見ないと信じない」と、またしても、一見突き放したかのような返事をしました。けれども役人は、何とか息子を助けてほしいと、ただキリストを信頼し、その助けに寄り頼みました。そこでキリストは役人に、「行きなさい、あなたの息子は治ります」と、このときも、言葉だけを与えました。役人はその言葉を素直に信じて帰ったところ、キリストが話した時刻に息子は癒されていました。そして、役人とその家全員がキリストを信じたのです。

この二つの話、沢山の共通点がありますね。

先ずキリストは、助けを求めてきた人に、いずれも、突き放したかのような言葉を発しています。でも、キリストは、決して彼らを拒絶したのではありませんでした。そうではなくて、キリストの言葉は、父なる神に忠実に従っているゆえに、発せられたものでした。従ってキリストは、事実として、その時点ではまだ、父なる神の意図した救いの時ではなかったり、或いは、奇跡を見て信じるのではなく、信じることが先だという、父なる神の思いをストレートに取り次いだに過ぎないのです。

けれども、キリストはこうした言葉によって、彼らが抱いていた、キリストを信じて願い求める応答を引き出され、彼らの心の奥底に信仰があることを見抜かれました。なので、もし彼らが、「だったら自分で何とかするわよ!」とか、「奇跡を起こさないなら頼まねえ!」と逆上していたら、これらの話はそれでおしまいだったかもしれません。でも幸い、二人とも、あの方の言うことは何でもするように、とか、何とか息子を助けてほしいと、ただキリストを信頼し、その助けに寄り頼んだのです。

そこで、彼らのうちに信仰があるのを見抜いたキリストは、その願いに言葉で応えていかれます。注目したいのは、この場面でも、給仕が水を汲んだり、役人はただ帰ったりと、彼らはキリストの言葉を素直に受け入れて、実行していることです。このあり方もまた、キリストが喜ばれた信仰の現われだったのです。

するとその結果、ありえないことが起こり、彼らは改めて、この方こそ救い主だと認識することとなりました。即ち、神は言葉をもって世界を造ったと、聖書は説明していますが、彼らはその神が救い主として来られ、再び言葉をもって、ぶどう酒を用意し、人を癒されたことを悟ったのです。それをヨハネは、1つめの奇跡で、キリストが「ご自分の栄光を現された」【ヨハネの福音書2:11】と表現し、いずれの場合も、人々がキリストを信じたと締めくくっています。

このようにキリストは、素直に信じ求めて従う人に、ご自身が、聖書に書かれた主なる神、三位一体の子なる神であることを啓示していかれます。そして、見て信じるのではなく、見ないで信じる、より高い次元の信仰へと、私たちを成長させてくださるのです。

見ないで信じる信仰へ

では、現代の私たちは、果たして、見ないで信じることが出来るでしょうか?

この問いかけについて、神は、私たちが見ないで信じることが出来るよう、十分な材料を提供してくれています。それが聖書です。神は、私たちに必要な啓示を全て、この聖書に残して下さいました。当然、今日のエピソードもその一つです。従って私たちは、奇跡を見ずとも、聖書を通して、当時の彼らと同じ立場に立ち、見ないで信じる信仰を持つことができるのです。それを表わした聖書箇所を幾つかご紹介して終わりにします。

【ヘブル人への手紙11:1~3

さて、信仰は、望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるものです。昔の人たちは、この信仰によって称賛されました。信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、その結果、見えるものが、目に見えるものからできたのではないことを悟ります。

【ヘブル人への手紙11:6

信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。

この言葉どおり、今日出てきた役人やマリアは、彼らに信仰があることを、神が喜ばれたゆえに、キリストの言葉によって、望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させる信仰へと導かれたのでした。この信仰のあり方こそ、キリストが私たちに望んでおられる姿です。それを物語る、キリストご自身の言葉が残されています。

【ヨハネの福音書20:29

「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。」

私たちはキリストを肉眼で見ることは出来ません。けれども、もし私たちが2000年前に生きていて、キリストを見て信じたとしても、それは、事実を確認しただけに過ぎません。ゆえに、見ないで信じるという、信仰の働く余地があるのです。

そこで今日、私たちも、このイエス・キリストこそ、私たちの罪を贖う救い主であると、見ないで信じ仰ごうではありませんか。そうすれば、あなたのその決断を、キリストが、「見ないで信じるあなたは幸いです」と、称賛してくださいます。

(2023.2.15)

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!