【キリストの足跡をたどる】031_キリストは私たちに休みを与える?

キリストは私たちに休みを与える?

【聖書】ヨハネの福音書5:1~18 
●ベテスダの池での癒し 
●安息日論争 
●私たちに休みを与える神 
●私たちのために働かれる神 

【ヨハネの福音書5:1~18

5:1 その後、ユダヤ人の祭りがあって、イエスはエルサレムに上られた。

5:2 エルサレムには、羊の門の近くに、ヘブル語でベテスダと呼ばれる池があり、五つの回廊がついていた。

5:3 その中には、病人、目の見えない人、足の不自由な人、からだに麻痺のある人たちが大勢、横になっていた。

5:4 【本節欠如】

5:5 そこに、三十八年も病気にかかっている人がいた。

5:6 イエスは彼が横になっているのを見て、すでに長い間そうしていることを知ると、彼に言われた。「良くなりたいか。」

5:7 病人は答えた。「主よ。水がかき回されたとき、池の中に入れてくれる人がいません。行きかけると、ほかの人が先に下りて行きます。」

5:8 イエスは彼に言われた。「起きて床を取り上げ、歩きなさい。」

5:9 すると、すぐにその人は治って、床を取り上げて歩き出した。ところが、その日は安息日であった。

5:10 そこでユダヤ人たちは、その癒やされた人に、「今日は安息日だ。床を取り上げることは許されていない」と言った。

5:11 しかし、その人は彼らに答えた。「私を治してくださった方が、『床を取り上げて歩け』と私に言われたのです。」

5:12 彼らは尋ねた。「『取り上げて歩け』とあなたに言った人はだれなのか。」

5:13 しかし、癒やされた人は、それがだれであるかを知らなかった。群衆がそこにいる間に、イエスは立ち去られたからである。

5:14 後になって、イエスは宮の中で彼を見つけて言われた。「見なさい。あなたは良くなった。もう罪を犯してはなりません。そうでないと、もっと悪いことがあなたに起こるかもしれない。」

5:15 その人は行って、ユダヤ人たちに、自分を治してくれたのはイエスだと伝えた。

5:16 そのためユダヤ人たちは、イエスを迫害し始めた。イエスが、安息日にこのようなことをしておられたからである。

5:17 イエスは彼らに答えられた。「わたしの父は今に至るまで働いておられます。それでわたしも働いているのです。」

5:18 そのためユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとするようになった。イエスが安息日を破っていただけでなく、神をご自分の父と呼び、ご自分を神と等しくされたからである。

これまでキリストは、人々に神の国の福音を述べ伝え、様々な奇跡や言葉を通して、ご自身が神であることを示して来られました。ところが、キリストの教えは、あくまでも聖書の言葉に基づくもので、昔の人たちの言い伝えを重んじた、当時のユダヤ教の教えとは相容れませんでした。今日はその軋轢が表面化します。

ベテスダの池での癒し

【ヨハネの福音書5:1~18】  

5:1 その後、ユダヤ人の祭りがあって、イエスはエルサレムに上られた。エルサレムには、羊の門の近くに、ヘブル語でベテスダと呼ばれる池があり、五つの回廊がついていたその中には、病人、目の見えない人、足の不自由な人、からだに麻痺のある人たちが大勢、横になっていた。

5:4 【本節欠如】

ユダヤ人の祭りとあります。彼らには、民族の歴史に由来する、「過越の祭り」「七週の祭り」「仮庵の祭り」という、神が定めた三つの祭りがありました。キリストは、そのために、ガリラヤからエルサレムに上られ、ベテスダの池と呼ばれるところに来ました。そして、池の回廊には、病人や体の不自由な人たちが大勢いたのです。

実は、最近の日本語訳聖書は、3節の後、4節がなくて、5節から続きが始まっています。それは、翻訳する際の底本であるギリシャ語の聖書に、その部分がないからなのですが、そのままだと、なんで池の周りに人がいたのか、理由がよくわからないのですね。それで、聖書の後の写本の中には、誰かによって、そこに書き足された言葉があったのです。それが、3節の後半と、4節にあたります。

それによると、

【ヨハネの福音書5:3b~4】※底本に欠落した節の異本訳

彼らは水が動くのを待っていた。それは、主の使いが時々この池に降りて来て水を動かすのだが、水が動かされてから最初に入った者が、どのような病気にかかっている者でも癒されたからである。

とあるのです。

この言葉は、あくまでも後の時代の加筆なので、聖書の言葉としての信頼を置くわけにはいきません。但し、当時の人々が池の周りにいた理由や、彼らの思いを窺うことは出来ますね。それによると、真偽はともかく、この池の水が動いた時の効能に期待した人々が集まっていたというのです。

【ヨハネの福音書5:1~18

5:5 そこに、三十八年も病気にかかっている人がいた。イエスは彼が横になっているのを見て、すでに長い間そうしていることを知ると、彼に言われた。「良くなりたいか。」病人は答えた。「主よ。水がかき回されたとき、池の中に入れてくれる人がいません。行きかけると、ほかの人が先に下りて行きます。」

38年間病気の人がいました。実はこの38年とは、かつてユダヤ民族が、荒野で神に背いてから過ごした時間と重なる、特別な数字です。なので、ユダヤ人にとっては、このストーリーは、民族の歴史とオーバーラップする出来事と感じられるかもしれません。

そんな病人に、キリストが、「良くなりたいか」と尋ねると、彼は、助けてくれる人がいないから治らない、とこぼしました。そこでキリストが促します。

【ヨハネの福音書5:1~18

5:8 イエスは彼に言われた。「起きて床を取り上げ、歩きなさい。」すると、すぐにその人は治って、床を取り上げて歩き出した。ところが、その日は安息日であった。

ここで特筆すべきは、キリストはこの時、病人の信仰を問わず、ただ神の愛と主権をもって、この病人に「起きて床を取り上げ、歩きなさい。」と言っていることです。そして、後の記述から明らかとなりますが、この病人は、相手がイエス・キリストであることを知りません。それでも、キリストが言葉をかけたら、すぐにその人は治って、床を取り上げて歩き出した というのです。

これが、ベテスダの池での癒しの話となりますが、実はここから思わぬ展開に発展します。それが、ところが、その日は安息日であったという記録で始まる、安息日に関する論争です。

安息日論争

【ヨハネの福音書5:1~18

5:10 そこでユダヤ人たちは、その癒やされた人に、「今日は安息日だ。床を取り上げることは許されていない」と言った。しかし、その人は彼らに答えた。「私を治してくださった方が、『床を取り上げて歩け』と私に言われたのです。」彼らは尋ねた。「『取り上げて歩け』とあなたに言った人はだれなのか。」しかし、癒やされた人は、それがだれであるかを知らなかった。群衆がそこにいる間に、イエスは立ち去られたからである。

さあ、ひと悶着始まりました。恐らく、近くに、宗教指導者と思しきユダヤ人たちがいたのでしょう。病気が治った彼に、「今日は安息日だ。床を取り上げることは許されていない」と詰め寄りました。この言葉、当時の事情を知らないと、なんで?と思いますね。

前回のおさらいとなりますが、当時の宗教指導者たちは、聖書の他に、後にユダヤ教の教典となる、昔の人たちの言い伝えを重んじて、人々に守るよう教えていました。それによると、聖書に、6日働いたら、7日目は「安息日」として休むよう書かれていることから、安息日にはあれをするな、これもするな、それは労働だからと、数え切れないほどの細則を、口伝えの律法として定めていたというのです。

なのでユダヤ人たちは、病気が治った人を見つけると、床を取り上げて歩いているのは労働にあたるから、安息日の規定に違反している、と咎めたのです。当時は、彼らの定めた律法に違反したら、最悪の場合は、石打の刑で死刑まで行ってしまいますから、病気が治った彼は、この展開にたじたじです。彼は、自分を治した人に言われたからそうしただけだ、と言い出しました。実際、キリストはもうそこにいなかったので、彼にしてみれば、それは誰だ?と問われても、それ以上、答えようもなかったのですね。

【ヨハネの福音書5:1~18

5:14 後になって、イエスは宮の中で彼を見つけて言われた。「見なさい。あなたは良くなった。もう罪を犯してはなりません。そうでないと、もっと悪いことがあなたに起こるかもしれない。」その人は行って、ユダヤ人たちに、自分を治してくれたのはイエスだと伝えた。そのためユダヤ人たちは、イエスを迫害し始めた。イエスが、安息日にこのようなことをしておられたからである。

聖書は、病気だった人の詳細は伝えていません。なので、キリストが諭した彼の素性まではわかりません。ただ、彼は自分を治した方がイエス・キリストだったと知って、ユダヤ人たちにそれを報告しました。するとユダヤ人たちは、キリストを迫害し始めたのです。なぜなら、当時の彼らにとっては、安息日に人を癒すことは労働であり、彼らが定めていた律法に違反していたからです。

【ヨハネの福音書5:1~18

5:17 イエスは彼らに答えられた。「わたしの父は今に至るまで働いておられます。それでわたしも働いているのです。」そのためユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとするようになった。イエスが安息日を破っていただけでなく、神をご自分の父と呼び、ご自分を神と等しくされたからである。

このくだりのキモは、キリストが「わたしの父は」と言っていることです。この言葉に、当時のユダヤ人たちはカチンと来たのでした。なぜなら、ユダヤ人たちは、神を、「私たちの父」とは言っても、「私の父」とは呼びませんでした。ところが、キリストのこの一言で、キリストが、神と自分が父と子の関係で、自分も神だと宣言したと、直ちに悟ったからでした。このことで、キリストが、彼らの定めた律法を守らないばかりか、神を冒涜しているとして、彼らは殺意を抱いたのです。

では今日の結論です。

私たちに休みを与える神

旧約聖書の中にある、モーセの律法には、確かに「十戒」の一つとして、ユダヤ人たちに与えられた、安息日の規定がありました。こう書かれています。

【旧約聖書・出エジプト記20:8~10

安息日を覚えて、これを聖なるものとせよ。六日間働いて、あなたのすべての仕事をせよ。七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはいかなる仕事もしてはならない。

安息日には仕事をするな、とあります。但しその裏には、それまでユダヤ人たちが、エジプトで奴隷だったという背景がありました。当然ながら、奴隷に休みはありません。そこで神は、モーセという指導者を立てて、彼らをエジプトから解放されました。それが、「出エジプト」と呼ばれる出来事であり、その時に起こったことを記念するのが「過越の祭り」です。そして、自由の身となった彼らに、神が与えたのが、「十戒」をはじめとする、モーセの律法でした。

ゆえに安息日は、ユダヤ人たちを束縛するどころか、過酷な奴隷生活から解放された彼らに、休みを与え、自由を得させる、愛の神の恵みだったのです。これが、安息日の規定の本質です。なので、神であるキリストにしてみれば、この恵みを反故にする言い伝えなど、人々を神の愛から遠ざける、無用の長物でしかなかったのです。

私たちのために働かれる神

一方で、例えば、神がユダヤ民族を出エジプトに導いた時、聖書は、神が「寝ずの番をされた」と伝えています。実際には、神が寝起きしていたわけではありませんが、神が、絶えず生きて働かれている姿を、そう表現しているのです。旧約聖書の詩篇には、こうもあります。

【旧約聖書・詩篇121:3~4

主は あなたの足をよろけさせず あなたを守る方は まどろむこともない。

見よ イスラエルを守る方は まどろむこともなく 眠ることもない。

この言葉からわかるとおり、神は私たち人間に休みを与える一方で、ご自身はまどろむことなく働かれ、私たちのことを気にかけておられます。こうした背景が、キリストの、「わたしの父は今に至るまで働いておられます。それでわたしも働いているのです。」という言葉に繋がるのです。

ゆえに私たちは、神が働かれているおかげで、生きて、かつ、休むことが出来る、と言っても過言ではありません。神は、今に至るまで働いておられ、私たちが休んでいる間も、まどろむことがないからです。そして更に、わたしも働いているのです、と言われた、子なる神であるキリストについても、聖書はこう証言しています。

【ヘブル人への手紙13:8

イエス・キリストは、昨日も今日も、とこしえに変わることがありません。

そして、このキリストが、私たちにこう語っています。

【マタイの福音書11:28

すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。私があなたがたを休ませてあげます。

このように、神であるキリストは、私たちを休ませるために、「わたしのもとに来なさい」と、今も、神の愛と主権をもって、私たちを招いておられます。それは、具体的に言えば、歴史上明らかな、キリストの十字架による死と、埋葬、復活が、私たちのためだった、と信じて従うことに他なりません。

そこで今日、かつてユダヤ人たちが、出エジプトによって、休みを得たように、私たちも、キリストによって、共に休みを頂こうではありませんか。私たちを罪の裁きから解放し、真の自由と休みを与えて下さる方こそ、まどろむことのない、神である、イエス・キリストです。このキリストこそ、私の救い主であると信じて、共に従って参りましょう。

(2023.6.15)

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