【キリストの足跡をたどる】032_信じる者は「命」に移っている?

信じる者は「命」に移っている?

【聖書】ヨハネの福音書5:19~24 
●神の本質 
●救いの本質 

【ヨハネの福音書5:19~24

5:19 イエスは彼らに答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分から何も行うことはできません。すべて父がなさることを、子も同様に行うのです。

5:20 それは、父が子を愛し、ご自分がすることをすべて、子にお示しになるからです。また、これよりも大きなわざを子にお示しになるので、あなたがたは驚くことになります。

5:21 父が死人をよみがえらせ、いのちを与えられるように、子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます。

5:22 また、父はだれをもさばかず、すべてのさばきを子に委ねられました。

5:23 それは、すべての人が、父を敬うのと同じように、子を敬うようになるためです。子を敬わない者は、子を遣わされた父も敬いません。

5:24 まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。

前回、キリストが、ベテスダの池で、安息日に病人を癒したことで、安息日の規定をめぐる論争が起こりました。その際、キリストが神であることを明示されると、今度は、キリストが神を冒涜しているとして、ユダヤ人たちがキリストに殺意を抱くようになりました。それを受けて、今日は、キリストが、ご自分がどのような方であるのか、より詳しく語っていかれます。

神の本質

【ヨハネの福音書5:19~24

5:19 イエスは彼らに答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分から何も行うことはできません。すべて父がなさることを、子も同様に行うのです。

キリストの第一声、「まことに、まことに」とはじまりました。この言葉、祈りの最後で使われる「アーメン」という単語で、「然り」「本当です」という意味があります。それを重ねてきているので、キリストは、これからものすごく大事な真実を言うから、よく聞くよう促しておられるわけです。なので、この部分、共同訳聖書では、「よくよく言っておく」と訳しています。

そして、「子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分から何も行うことはできません。すべて父がなさることを、子も同様に行うのです。」と言いました。これを聞いたユダヤ人たちはカンカンだったでしょうね。なぜなら、ここでの父とは、父なる神のこと、そして、子は、キリストのことなので、キリストは、父なる神と同じことをする、すなわち、父なる神とキリストは、同じ神にして、一心同体のようなものだ、と言っているわけです。これは、キリストが本当の神でなければ、決して言えない言葉です。

【ヨハネの福音書5:19~24

5:20 それは、父が子を愛し、ご自分がすることをすべて、子にお示しになるからです。また、これよりも大きなわざを子にお示しになるので、あなたがたは驚くことになります。

この言葉も重要です。父なる神とキリストは、父と子として表される、親子の愛で結ばれていて、すべてのことを共有している、というわけです。とはいえ、これが人間だったら、親子関係が必ずしも良好ではないケースもありますから、ここで描かれる親子像は、神が示した、親密かつ完全な愛に根ざした親子関係、と言えます。

そして、「これよりも大きなわざ」とは、前回見た、ベテスダの池での、病人の癒しを指してのことなので、病人の癒しよりすごいことが起こって、あなたがたは驚くことになる、というわけです。それはどんなことなのでしょう?

【ヨハネの福音書5:19~24

5:21 父が死人をよみがえらせ、いのちを与えられるように、子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます。

なんと、父なる神が、死人をよみがえらせ、命を与える、というのです。この言葉、皆さんはどうお感じでしょうか?皆さんは、死人をよみがえらせる、ということを、素直に信じられるでしょうか?

でも、聖書は、実際に死人がよみがえったことを記録している書物です。その最たる出来事が、私たちの救いの根拠となる、キリストが十字架に架かって死んで、葬られた後、三日目によみがえった事実です。実はこの出来事、キリストが勝手によみがえったのではなく、キリストは人として完全に死なれた後、父なる神が

【使徒の働き2:32

よみがえらせました。

と、聖書は言っているのです。

従って、父なる神が、死人をよみがえらせ、命を与えることが出来るのと同様に、キリストもまた、人に命を与える権威を持った、子なる神だ、ということが示されているわけです。このことが人々にもわかるよう、キリストはこの後、目に見えるカタチで人をよみがえらせて、ご自身が神であることを証明されていかれます。

但しここで、キリストが「いのちを与えます」と言っているのは、実は、人間を一時的に蘇生させることではなくて、キリストが私たちに、永遠に滅びることのない、霊的な命をくださることを意味しているのです。なぜならキリストは、私たちに命を与えるために、私たちの代わりに死ぬ覚悟で、この世界に来られたからです。ゆえにキリストはこう続けます。

【ヨハネの福音書5:19~24

5:22 また、父はだれをもさばかず、すべてのさばきを子に委ねられました。

これも驚くべき言葉です。父なる神が、キリストに裁きを委ねた、とあります。従って、キリストが「裁き主」である以上、私たちは本来、誰よりもキリストを恐れる必要があるのです。けれども、驚いたことに、「裁き主」であるキリストは、人を直接裁くことはせず、ご自分が自ら、人の代わりに裁きを受けることで、私たちを裁きから免れさせて下さったのです。それが、後に起こる、キリストの十字架による死と埋葬です。

この事実は大変厳粛なものです。本来なら、法廷で判決を言い渡すべき裁判長が、被告人席まで降りて来て、被告の罪をかぶって死刑となり、裁かれるべき被告を無罪放免とする。これが、神であるキリストが実行された、私たちへの愛です。ゆえに聖書は、

【ヨハネの第一の手紙4:8】 ※口語訳

神は愛である。

と言っているのです。

従って、この事実に対して、私たちに委ねられた応答は、神が時を超えて用意されたこの愛を、私たちが受け取るかどうかです。それが、キリストの十字架による犠牲が、私を救うためだったと、あなたが信じるか否か、ということです。そして信じるなら、どんな過去を背負って生涯を終えようとも、既にキリストが十字架で裁かれたので、あなたが裁かれることはありません。これが、神の愛と、神の義です。

ゆえに私たちは、キリストを「裁き主」として恐れるのではなく「救い主」として信じるか否かによって、救われるか否かが決まるのです。なので、こう続きます。

【ヨハネの福音書5:19~24

5:23 それは、すべての人が、父を敬うのと同じように、子を敬うようになるためです。子を敬わない者は、子を遣わされた父も敬いません。

神の視点では、人がキリストを敬わないなら、それは、キリストを遣わした父なる神を敬っていないのと同じだ、というのです。なぜなら、私たちが素直にキリストを直視すれば、自ずとキリストが、「救い主」として来られた子なる神であり、このキリストを遣わされた方こそ、私たちの救いを計画された、父なる神であることが明白だからです。これが、聖書が教える、神の本質です。

【ヨハネの福音書5:19~24

5:24 まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。

再びキリストが「まことにまことに」と注意を促しました。大事なことが語られる予兆です。そして語られたのが、「わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。」これが、今日のキモとなる、キリストの言葉です。

キリストの話はこの後も続くのですが、今、私たちは、本当に大事な一言を頂きましたので、この言葉を、より噛み砕いて味わってみたいと思います。もう一度読みます。

救いの本質

【ヨハネの福音書5:19~24

5:24(後半) わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。

先ず、「わたしのことば」とは、キリストの言葉のことですね。そして、「わたしを遣わされた方」とは、父なる神ですね。なので、読み替えると、

キリストの言葉を聞いて、
キリストを遣わされた父なる神を信じる者は、
永遠のいのちを持ち、
さばきにあうことがなく、
死からいのちに移っています。

となります。

ここでわかることは、神は私たちに、「永遠のいのち」というものを用意しておられる、ということです。そして、信じる者は、「さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています」というのですね。とは言え、人間は神を信じても、いずれ死んでしまうではないですか。なので、ここで言わんとしていることは、私たちが父なる神を信じるなら、肉体的に死んだとしても、霊的には、「いのち」が永遠に生き続けるのだ、ということです。

一方で、信じる者が「死からいのちに移っています」というのなら、信じない場合は、「永遠のいのち」には移っていないのですから、肉体的に死ねば、裁きによる霊的な死も免れないとわかります。これは、神が聖書を通して私たちに教えている、極めて厳かな事実です。

となると、誰がいつどんな人生を歩もうとも、人を創った神の目から見れば、人が神と断絶した状態で生きるなら、その人は、裁きのゆえに「永遠のいのち」を持たない、「失われた者」に等しいのです。ゆえに、神であるキリストは、そんな私たちを救うために、この世界に来られたのでした。そのことをキリストは、ご自分を「人の子」と称して、こう説明しています。

【ルカの福音書19:10

「人の子は、失われた者を捜して救うために来たのです。」

では、こうした事実を反映して、キリストの言葉を読み替えてみます。少しくどくなりますが、こうなります。

キリストの言葉を聞いて、キリストを遣わされた父なる神を信じる者は、
キリストを救い主と信じる信仰によって、永遠のいのちを持ち、
キリストが裁かれたゆえに、裁きにあうことがなく、
霊的に死ぬことが定まっていた状態から、
永遠に生きるいのちを持った状態に移っています。

では、内実を垣間見たところで、もう一度、キリストの生の言葉を味わいましょう。

【ヨハネの福音書5:19~24】

5:24(後半) わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。

この言葉をぜひ、自分のものにしようではありませんか。神が時を越えて、今、あなたに望んでおられることは、キリストの十字架の犠牲という普遍的な愛を、あなたが素直に受け取ること、これだけです。それを受け取った瞬間、あなたは永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。これが、聖書が語る、救いの本質です。

(2023.6.30)

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