悲しむ者は幸い?
前回から、「山上の説教」と呼ばれる、キリストが語られた一連のメッセージを紐解いています。そしてこの「山上の説教」の冒頭にある言葉が、「八福の教え」と呼ばれる8つの言葉です。これは、キリストを救い主と信じた人たちに対して、キリストが、信じた人に徐々に備わっていく特徴を挙げて、そんな彼らの幸いを約束している、励ましの言葉です。
【マタイの福音書5:3~5:10】
5:3 「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。
5:4 悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです。
5:5 柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐからです。
5:6 義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるからです。
5:7 あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるからです。
5:8 心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るからです。
5:9 平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。
5:10 義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。
今日はこの中の2つ目の言葉を味わいます。
悲しむ者は幸い?
【マタイの福音書5:4】
悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです。
「悲しむ者は幸いです。」ときました。ちょっと待て、悲しむ者のどこが幸いなんだ?と思いますよね。ここで押えておきたいことは、これらは全て、キリストを救い主と信じた人たちに向けた言葉だ、ということです。なので、ここでの「悲しみ」とは、誰もが味わう悲しみというよりは、信じた人が特に抱く悲しみについての励ましが込められているのです。
前提として、キリストを信じていようといまいと、私たちには、世の常として、悲しい出来事が降りかかります。加えてキリストを信じた人は、それまであまり感じることのなかった、神との関係において生じる、特有の悲しみに襲われることがあります。それは、その人が折に触れ、自分の罪に気付いて感じる悲しみです。
例えば、今までは気にならなかった小さな不正や、止められない悪習慣、あるいは、つい出てしまう口汚い言葉といった、あくまでも、神との関係において、日常生活で、ふと気付かされる罪意識などが挙げられるでしょうか。こうしたことを、神は決して喜んではおられない、と悟った時、その人は、心がちくちくと痛むような悲しみを覚えるのです。実は、新約聖書で多くの書簡を残した、パウロという人でさえ、自分が今もって罪深い人間だと赤裸々に告白した、悲しみの言葉を残しているんです。以下、パウロの告白を抜粋してご紹介します。
パウロの場合
【ローマ人への手紙7:15~25より抜粋】
7:15 私には、自分のしていることが分かりません。自分がしたいと願うことはせずに、むしろ自分が憎んでいることを行っているからです。【中略】
7:18 私は、自分のうちに、すなわち、自分の肉のうちに善が住んでいないことを知っています。私には良いことをしたいという願いがいつもあるのに、実行できないからです。私は、したいと願う善を行わないで、したくない悪を行っています。私が自分でしたくないことをしているなら、それを行っているのは、もはや私ではなく、私のうちに住んでいる罪です。そういうわけで、善を行いたいと願っている、その私に悪が存在するという原理を、私は見出します。【中略】
7:24 私は本当にみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか。
この時のパウロは、既に、キリストを信じて救われているんです。そのパウロでさえ、心のうちには、「したいと願う善を行わないで、したくない悪を行っています。」と嘆くほどの悲しみがあったのです。
悲しむ者は慰められる?
なので、あなたが、キリストを信じてなお、パウロと同じような悲しみを抱くなら、それはごく自然なことです。むしろ、自分はいまだ罪深く、こんな自分は救われていないのでは、と感じるのは、実はけだし健全なことで、そう思うこと自体が、あなたが救われている証拠です。なぜなら、キリストは、あなたが今悲しみを抱いている、その罪をも贖うために、ただ一度、十字架に架かって死なれたからです。この事実があるので、パウロは、先程の続きをこう締めくくっています。
【ローマ人への手紙7:25】
私たちの主イエス・キリストを通して、神に感謝します。こうして、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。
この言葉は、パウロが、「自分は今も罪を犯してしまう、弱い人間だけれども、そんな自分のために、キリストが死なれたので、私は今も救われているのだ」、とわかっているから告白できた言葉です。
このパウロの告白から、何がわかるでしょう。それは、私たちも、キリストを信じたからといって、その時から急に罪を犯さなくなるわけではないんだ、ということです。事実、聖書は、キリストを信じた人たちに向かって、こう言っています。
【ヨハネの手紙 第一1:8】
もし自分には罪がないと言うなら、私たちは自分自身を欺いており、私たちのうちに真理はありません。
このように、私たちは、キリストを信じて救われても、依然として罪の根を宿しているので、神と向き合うほどに、自分の罪の根深さに気付いて、悲しくなるのです。そこで、そんな私たちを慰めるために、聖書は続けてこう促すのです。
【ヨハネの手紙 第一1:9】
もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。
この言葉どおり、私たちが罪による悲しみを覚えたら、それを素直に告白すれば、神はその罪を赦してくださる、というわけです。こうして神が、私たちの不義をきよめ、私たちは徐々に罪を犯さなくなっていくのです。これが、私たちが直面する罪の悲しみから解かれ、慰めを得る秘訣です。
ただ、罪の告白というと、どうも神父や牧師の前で懺悔することと思っている人が多いようですね。でも聖書は、なにも人前で罪を告白せよとは言ってません。告白する相手は、聖書が示す、見えない神ですから、いつでも、どこででも構わないので、犯した罪を素直に認め、ありのままを吐露することです。そうすれば、「神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。」と約束しています。この言葉を信じようではありませんか。もう一度、「私たち」とあるところに、ご自分の名前を入れて読んでみましょう。
【ヨハネの手紙 第一1:9】
「もし○○○が自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、○○○をすべての不義からきよめてくださいます。」
これが、悲しみを覚えたときに、神と向き合い、慰めを得る秘訣です。
ところが、それでもなお、こんな自分でも本当に救われているのだろうか?と悩んでしまう人が多いんです。そんな人のために、聖書はこうも言っています。
【ローマ人への手紙6:9~11】
私たちは知っています。キリストは死者の中からよみがえって、もはや死ぬことはありません。死はもはやキリストを支配しないのです。なぜなら、キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、キリストが生きておられるのは、神に対して生きておられるのだからです。同じように、あなたがたもキリスト・イエスにあって、自分は罪に対して死んだ者であり、神に対して生きている者だと、認めなさい。
この言葉、キモは最後の、「認めなさい」です。要約すれば、キリストが、既にあなたの罪を被って「死んだ」以上、それを信じたあなたも、既に「罪に対して死んだ」のだと認めなさい!というわけです。であれば、今やキリストが「神に対して生きている」以上、あなたも「神に対して生きている」と認めなさい!すなわち、あなたがキリストを信じたのなら、再び罪を犯してしまっても、その罪をも贖うために、キリストが既に十字架で死なれたので、あなたは今も救われ続けていると認めなさい!と教えているのです。
というわけで、私たちは、キリストによる救いが確かなゆえに、いつまでも悲しみ続けるには及びません。それほどまでに、キリストが「ただ一度罪に対して死なれた」ことは、私たちにとって唯一かつ最大の慰めであり、究極の神の愛の表れなのです。
あらゆる慰めに満ちた神
以上、「悲しむ者は幸いです。」という言葉が意味する、信じた人が特に抱く悲しみについて見てきました。一方で、私たちには、それでなくとも、様々な悲しみが降りかかりますよね。それら一般的な悲しみについては、慰めはないのでしょうか?そんなことはありません。聖書は、神のことを、
【コリント人への手紙 第二1:3】
あらゆる慰めに満ちた神
と言っていて、
【コリント人への手紙 第二1:4】
神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。
と断言しています。どうしてここまで言い切れるのでしょう?それは、この世界を造られた神ご自身が、人となって、私たちと同じように、この世の苦しみや悲しみを味わわれたからです。その方こそ、イエス・キリストです。
そこで聖書は、キリストのことを「大祭司」と呼んで、こう説明しています。
【ヘブル人への手紙4:15~16】
私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。
このように、聖書は、私たちが、「大祭司」と称されているキリストを、救い主と信じるなら、折にかなった助けを受けられると約束しています。そこで今、あなたがなんらかの悲しみに見舞われているなら、このキリストを救い主と仰いで、助けて頂こうではありませんか。この機会に、「神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。」という言葉と、「悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです。」という言葉に信頼して、豊かな慰めを得られますようお勧めします。
(2023.10.15)