【キリストの足跡をたどる】041_あわれみ深い者は幸い?

あわれみ深い者は幸い?

【聖書】マタイの福音書5:3~5:10 
●あわれみ深い者は幸い? 
●神のあわれみを受け取った人とは? 
●神のあわれみを受けるとは? 

今まで4回にわたって、「八福の教え」と呼ばれる、キリストが語った8つの言葉を、順に紐解いてきました。これらはいずれも、キリストを救い主と信じた人たちに対して、キリストが、彼らに徐々に備わっていく特徴を挙げて、その幸いを約束した、励ましの言葉です。では先ず、全体を読んでみましょう。

【マタイの福音書5:3~5:10
5:3
「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。

5:4 悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです。

5:5 柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐからです。

5:6 義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるからです。

5:7 あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるからです。

5:8 心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るからです。

5:9 平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。

5:10 義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。

今日は、5つ目の言葉を味わいます。

あわれみ深い者は幸い?

【マタイの福音書 5:7
あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるからです。

「あわれみ」という言葉は、「人の苦しみや悲しみに深く同情すること」とか、「かわいそうに思う心」のことだと言われます。であれば、世間一般でも、多くの人がそのような思いは持っていますよね。それが、人助けや社会福祉に繋がっているわけです。

でも、繰り返しとなりますが、このキリストの言葉は、キリストを救い主と信じた人に備わっていく特徴として、語られているわけです。では、信じた人と、そうでない人とで、何か「あわれみ」の質に違いはあるのでしょうか?

それがあるとすれば、キリストを救い主と信じた人は、その人自身が、神から深くあわれまれ、その「あわれみ」を受けた人だ、ということです。もう一度言います。キリストを救い主と信じた人は、神の「あわれみ」を受け取った人、と言えるのです。どういうことでしょう。

神のあわれみを受け取った人とは?

「あわれみ」という言葉は、聖書によく登場します。なぜかというと、「あわれみ」は、神の性質の一つだからです。例えば、旧約聖書に、こうあります。

【旧約聖書・詩篇86:15

しかし主よ あなたはあわれみ深く 情け深い神。

怒るのに遅く 恵みとまことに富んでおられます。

この言葉からわかるとおり、日本語で「主」と訳されている、聖書の神は、私たちと同じように、感情を持った方であり、「あわれみ深く、情け深い神」だというわけです。

そして、聖書を読むと、神は、私たち人間のことを、いつも深くあわれんでおられることに気付かされるのです。なぜなら、私たちは皆、神から命を貰ったのに、その神に、背中を向けて歩んでいるからです。言い換えれば、私たちは神が見えず、神を知らず、神がわからないので、いつも「俺が」「私が」もしくは「私たちが」と、自己中心な人生を歩んでいるのです。だから聖書は、一貫して私たちに、神がどのような方かを示し、神と共に歩むよう、悔い改め、すなわち、神への方向転換を促しているわけです。

でも、「そんな神なんて知らねえ!」とか、「なんで俺が『あわれみ』を受けなくてはならないんだ?」と思う人もいるでしょうね。それに対して、聖書の神は、「そんなあなたに命を授けたのは私であり、私があなたを愛しているからですよ。でも、今のあなたは、私から遠く離れ、罪のゆえに死んだも同然なのです。」と、言わんとしているのです。これ、あとで聖書の言葉を紹介しますが、ホントです。

なぜなら、聖書によれば、神が人を造った当初、神と人とは、もっと近しい関係だったことがわかります。ところが、人が神に背いたとき、神の性質とは相容れない「罪」が人に宿り、それが今も、神と人とを隔てているのだ、と聖書は言うのです。

このことを、国と国との関係に例えれば、もし私たちの国と、外国との国交が断絶していたら、私たちは、その国に行きたくても、国交が回復されない限り、行けないですよね。同じように、私たちと神との間には、生まれた時から「罪」という障壁があるので、それが取り除かれない限り、私たちは、神との親しい関係を回復できない、というわけです。なので聖書は、

【ローマ人への手紙3:9

すべての人が罪の下(もと)にある

と断言するのです。そしてその「罪」とは、私たちが生まれた時から既に持っている、人が受け継いできた「罪の根」と言えるものなので、「原罪」とも呼ばれています。この「原罪」があるので、私たちは子どもの頃から、誰にも教わってないのに、平気で嘘をついたり、人を傷つけたりするのです。勿論、それは人の目からは些細なことかもしれません。けれども、正義の神の目線からみれば、明らかに「罪」なのです。

そこで神は、そんな些細な「罪」であっても、「罪」があるなら裁かれて罰を受けねばならない私たちを、あわれまれたのです。ゆえに神は、私たちと神との間にある、人間の「罪」という障壁を取り除き、神と人との関係を回復するため、救い主をこの世に送られました。それが、イエス・キリストです。そのキリストを通して成し遂げられたことを、聖書はこう説明しています。

【エペソ人への手紙2:4~5

あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、そむきの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。

さあ、ここで、「そむきの中に死んでいた私たち」という表現が出てきました。痛烈ですよね。この言葉によれば、私たち人間は、外面的には生きていても、内面的には、「そむきの中に死んでいる」というわけです。すなわち、人が神に背中を向けて歩んでいるなら、その人は、傍目にはどんなに素晴らしい人生を歩んでいても、神から見れば、「罪」によって死んでいるのと変わらないのです。

そこで神は、そんな私たちを救うため、三位一体の子なる神である、イエス・キリストをこの世に遣わしました。そして、キリストが成し遂げたのが、私たちの「罪」を清算する、救いの提供でした。それを言い表したのが、「そむきの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました」という言葉です。

具体的には、キリストは、「罪」がないのに十字架に架かって、罪人として裁かれ、死んで、葬られ、よみがえられました。それは、私たち人間のすべての「罪」を肩代わりして、私たちの代わりに罰せられるためだったのです。

そこで、私たちがこのことを信じるなら、神は、私たちの罪を赦し、内面的には死んでいる私たちを生かして、永遠の命を与える、と聖書は約束しています。従って、この救いをもたらすために、キリストがこの世に来られたこと自体が、神の私たちに対する深い「あわれみ」のしるしなのです。

というわけで、キリストを救い主と信じた人とは、神の「あわれみ」を素直に受け取って、神に方向転換をした人だと言えます。なのでその人たちが、キリストに似た者へと徐々に変えられ、「あわれみ深い者」に成長していくことを、キリストが、「幸いだ」と喜んでいるのです。それが、「あわれみ深い者は幸いです。」という、今日の言葉の意味するところです。

神のあわれみを受けるとは?

そしてキリストは、「その人たちはあわれみを受けるからです。と締めくくっています。この言葉、文脈に従えば、来るべき天の御国、すなわち、神の国で「あわれみを受ける」ようになることを意味しています。

但し、キリストを信じた人は、既に神の「あわれみ」を受け取って救われた人でしたよね。なので、その人は、今も神の「あわれみ」によって救われていて、これからもその「あわれみ」によって救われ続けていくことになります。ということは、信じた人は、将来、神の国で「あわれみを受ける希望があると同時に、過去、現在、未来と、「あわれみ」を受け続ける「幸い」に与っていると言えるのです。

まとめ

そこで私たちは、自分があわれみ深くあろうとする前に、先ず神が、私たちを救うために、キリストを遣わしてくださったという、深い「あわれみ」に感謝し、素直にその「あわれみ」を受け取ろうではありませんか。なぜなら、神はすべての人をあわれんでおられ、私たちは、神の「あわれみ」がなければ、誰も自力では救われないからです。繰り返しますが、聖書は、

【ローマ人への手紙3:9

すべての人が罪の下(もと)にある

と断言しています。だから、「俺はあわれみは受けねぇ!」と強がったところで、その人が罪の下にある以上、自分で自分を救うことはできません。ゆえに私たちは、誰もが、神から「あわれみ」を受け取る必要があるお互いだということを、今日、認めようではありませんか。それが出発点です。

そして、神の「あわれみ」の表れこそ、私たちを罪の滅びから救い出すために遂げられた、キリストの十字架による死と埋葬、復活です。なので、この事実が、私の罪を贖うためになされたのだと、あなたが信じて受け取るなら、先程ご紹介した聖書の言葉が、あなたのものとなるのです。

【エペソ人への手紙2:4~5

あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、そむきの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。

では、繰り返しとなりますが、神の「あわれみ」の表れとして提供された、キリストの十字架による死と埋葬、復活が、私の罪を贖うためだったのだと、あなたが信じたのであれば、この言葉の、「私たち」とか「あなたがた」とあるところに、ご自分のお名前を入れて読んでみることをすすめします。

【エペソ人への手紙2:4~5

あわれみ豊かな神は、○○○○を愛してくださったその大きな愛のゆえに、そむきの中に死んでいた○○○○を、キリストとともに生かしてくださいました。○○○○が救われたのは恵みによるのです。

この言葉どおり、あなたがキリストを救い主と信じたのであれば、そむきの中に死んでいたあなたは、「あわれみ豊かな神」の恵みによって、救われたのです。おめでとうございます!

(2023.11.30)

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