【キリストの足跡をたどる】042_心のきよい者は幸い?

心のきよい者は幸い?

【聖書】マタイの福音書5:3~5:10 
●心のきよい者は幸い? 
●心のきよい者は神を見る? 

これまで5回にわたって、「八福の教え」と呼ばれる、キリストが語った言葉を順に紐解いてきました。この「八福の教え」は、キリストを救い主と信じた人たちに対して、キリストが、彼らに徐々に備わっていく特徴を挙げて、その幸いを約束した、励ましの言葉です。では今日も先ず、全体を読んでみましょう。

【マタイの福音書5:3~5:10
5:3
「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。

5:4 悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです。

5:5 柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐからです。

5:6 義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるからです。

5:7 あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるからです。

5:8 心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るからです。

5:9 平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。

5:10 義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。

今日は、6つ目の言葉です。

心のきよい者は幸い?

【マタイの福音書 5:8
心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るからです。

「心のきよい者は幸いです。」ときました。この言葉、簡単なようで、かなり奥が深いです。先回りして言えば、この世の中、生まれた時から、一点の曇りもなく、心のきよい人など、一人もいません。こう言ってしまうと、絶望的に聞こえますが、聖書はこう宣言しています。

【旧約聖書・エレミヤ書17:9~10

「人の心は何よりもねじ曲がっている。それは癒やしがたい。だれが、それを知り尽くすことができるだろうか。わたし、主が心を探り、心の奥を試し、それぞれの生き方により、行いの実にしたがって報いる。」

手厳しいですね。人の心はきよいどころか、何よりもねじ曲がっていて、癒やしがたいというんです。そんな人の心を、「主」と呼ばれている聖書の神が探って、試して、その生き方や行いに報いるというのですから、実際は、報いられるより、裁かれると覚悟しておいたほうが良さそうに聞こえます。でも、「私の心は曲がってませんよ」と言いたい人がいるかもしれません。では、人の心はそんなにねじ曲がっているのでしょうか。それについて、キリストが、こんなことを言っています。

【マタイの福音書15:18~19

「口から出るものは心から出て来ます。それが人を汚すのです。悪い考え、殺人、姦淫、淫らな行い、盗み、偽証、ののしりは、心から出て来るからです。」

これもきついですね。心がきよいなら出て来ないはずの言葉が、口から出て来て、それが人を汚すのだと言うんです。この指摘の中では、まあ表立っての殺人には至らなくとも、悪い考えや、偽証、ののしりの類が、心から出て来たことはないか?と問われたら、「ない」と答えられる人はいないですよね。むしろ「ない」と答えたら、その時点で、その人は神から偽証罪を問われますね。従って、聖書が言うとおり、人の心はねじ曲がっていて、心がきよい人など、だれもいないことがわかります。

ではなぜこんな結論になってしまうのか。聖書によれば、それは、私たちが、「原罪」と呼ばれる、罪の根っこのような性質を持っていて、それが私たちの心をねじ曲げているのだ、というのです。だから私たちは、誰かに教えられたわけでもないのに、子どもの頃から、平気で嘘をついたり、ののしったりするわけです。

でも、聖書によれば、神がはじめて人を造ったときは、罪や悪は、人には無かったことがわかります。ところが、ある時点で、人に罪の根っことなる「原罪」が入ってから、人はいつもその悪影響に悩まされるようになりました。それが、先程キリストが言っていた、悪い考え、殺人、姦淫、淫らな行い、盗み、偽証、ののしりの類です。

従って、私たちの内側から出て来る悪いものは、すべて、私たちが持っている罪の性質が原因であることがわかります。となるとやはり、心のきよい人など誰もいない、とわかりますね。

ではなぜ、そんな私たちにキリストは、「心のきよい者は幸いです。」と言うのでしょう。それは、この教えが、キリストを救い主と信じた人たちに語られているものだからです。でも、決して信じた人がきよかったわけではありません。この点について、キリストは弟子たちにこんな言葉を残しています。

【ヨハネの福音書15:3~4

あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、すでにきよいのです。わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。

この言葉によれば、キリストは、弟子たちがキリストの話した言葉を信じたので、すでにきよいのだ、と言うんですね。言い換えれば、人はみな罪があってきよくないけれども、私を信じた人たちについてはきよいのだ、と言っているわけです。なんか、おかしくないですか。信じた人にだって罪があるはずなのに、なんでキリストは彼らのことを、きよいと言えるんでしょう。

でも、実はこれが、神の私たちに対する、「あわれみ」の表れなのです。「あわれみ」については、前回、「あわれみ深い者は幸いです。」という言葉を紐解きましたね。そこでわかったのは、キリストを信じた人は、既に神の「あわれみ」を受け取って救われた人だ、ということでした。

では、その神の「あわれみ」とは、具体的には何だったでしょう。それは、罪のゆえに裁かれて滅ぶ私たちを、父なる神があわれみ、私たちを救うために、子なる神であるキリストを遣わした、ということでした。そして、罪のないキリストが、私たちのすべての罪を背負って裁かれ、死んだ、という、途方もない出来事が起こったのです。それが、キリストの十字架による死と、埋葬、復活によって、キリストが私たちの代わりに罪を清算してくださった、という事実です。これを成し遂げるために、キリストはこの世界に来られたのでした。

なので、このキリストの死と埋葬、復活が、私たちの罪を贖うためだったのだと、私たちが信じるなら、私たちは、罪が赦され、裁きを免れ、永遠の命が与えられるというのです。この救いの良い知らせを「福音」と言います。

そこで、今日の本題に戻りますが、キリストが弟子たちに向かって、「あなたがたはすでにきよいのです」と言ったのは、他ならぬキリストご自身が、この後、この弟子たちの罪を全部かぶって死ぬ前提だったから言えた言葉なのです。

すなわち、キリストは、「きよい私が、あなたの罪を、全部かぶって裁きを受けるから、あなたが私を信じれば、父なる神は、あなたをきよいとみなして、もう裁くことはありません。だから、私を信じたあなたは、すでにきよいといえるのです。」と言わんとしているのです。

従って、「きよい者」とは、キリストを救い主と信じた人のことです。そして厳密には、キリストを信じた人は、罪がなくてきよいのではなく、罪が赦されて、きよいとみなされた人だ、というわけです。

では、信じて救われたら、その人はその後、どうなるんでしたでしょう?それは、これまでの教えによれば、信じた人は、神との関係において、悲しみを覚えたり、柔和になったり、義に飢え渇くようになると言われていましたね。なので、キリストを信じてきよいとみなされた人は、こうした過程を通して、徐々に、「心のきよい者」へと成長していくのです。そんな人のことを、キリストは、「心のきよい者は幸いです。」と喜ばれるのです。

心のきよい者は神を見る?

そしてキリストは、「心のきよい者」に対して、「その人たちは神を見るからです。」と約束されました。ただし、キリストから直接この話を聞いていた人たちにとっては、「神を見る」という約束は、この時に即、実現していたことになります。なぜでしょう。それは、この言葉を語ったキリストこそ神なので、彼らは目の前で神を見ていたことになるからです。キリストが、別な場面でこう言っています。

【ヨハネの福音書14:9

「わたしを見た人は、父を見たのです。」

ここで言う「父」とは、三位一体の父なる神のことなので、子なる神であるキリストは、神が一体であることを前提に、「私を見た人は、神を見たのと同じだ、なぜなら、私は神だから」と言っているわけです。では、私たちは、いつ「神を見る」のでしょう。それについては、聖書はこう約束しています。

【ヨハネの手紙第一3:2~3

愛する者たち、私たちは今すでに神の子どもです。やがてどのようになるのか、まだ明らかにされていません。しかし、私たちは、キリストが現れたときに、キリストに似た者になることは知っています。キリストをありのままに見るからです。キリストにこの望みを置いている者はみな、キリストが清い方であるように、自分を清くします。

今日のまとめに相応しい言葉が出てきました。それによれば、キリストを信じた私たちは、「神の子ども」とされて、再びキリストが現れたとき、キリストをありのままに見るようになる、というのです。これは、キリストが「八福の教え」の冒頭で約束していた「天の御国」、すなわち「神の国」で実現することで、それが、キリストを救い主と信じる者にとっての希望なのです。

ただ、この類の預言の言葉を、いぶかしく感じる人もいるでしょうね。けれども、聖書の預言はすべて実現していることを忘れてはなりません。また、やがて世界がどうなるかは、聖書の預言以上のことはわかりません。なので、聖書から逸脱した教えや、キリストを利用しようとする偽者に惑わされてはいけません。そんなものを相手にするより、最後のこの言葉に注目しましょう。

【ヨハネの手紙第一3:3

キリストにこの望みを置いている者はみな、キリストが清い方であるように、自分を清くします。

この言葉のとおり、私たちがキリストを信じて救われたなら、私たちは、自ずと救い主であるキリストに望みを置くようになります。それは、ありのままのキリストを、より深く知ることを通して、その教えに信頼し、そのきよさに倣うことです。そんな人のことを、キリストが、「心のきよい者は幸いです。」と喜ばれ、「その人たちは神を見るからです。」と励ましてくれるのです。

そこで今日、あなたもこのキリストに信頼を置いて、そのきよさに倣おうではありませんか。そのようなあなたを、神であるキリストが、「幸いだ」と喜ばれ、罪の赦しと永遠の命に添えて、「あなたはやがて、神である私を見るようになります」と約束してくれるのです。

(2023.12.15)

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!