平和をつくる者は幸い?
これまで紐解いてきた、キリストによる「八福の教え」も、7回目となりました。この「八福の教え」は、キリストを救い主と信じた人たちに対して、キリストが、彼らに備わっていく特徴を挙げて、その幸いを約束した、励ましの言葉です。では、全体を読んでから、今日の言葉を味わいましょう。
【マタイの福音書5:3~5:10】
5:3 「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。
5:4 悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです。
5:5 柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐからです。
5:6 義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるからです。
5:7 あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるからです。
5:8 心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るからです。
5:9 平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。
5:10 義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。
今日は、7つ目の言葉です。
平和をつくる者は幸い?
【マタイの福音書 5:9】
平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。
「平和をつくる者」と聞くと、皆さんはどんな人を想像されるでしょうか。私たち人間の視点に立てば、いろんな人が、平和をつくろうとしているなあと思い浮かべることが出来ますね。そんな人たちの多くは、称賛に値する、素晴らしい人々だと言えるでしょう。
ただし、この「八福の教え」は、そのような人たちにではなくて、キリストを救い主と信じた人たちに向けた言葉だ、ということを見誤ってはいけません。
そこで、この前提に立って言えることは、ここでキリストが「平和をつくる者」と言っている人々とは、たとえ社会で平和運動をやったり、平和のために貢献をしていても、キリストを信じていない人々を指しているのではありません。なので、人が平和を志しているからといって、その人たちを一様に、キリストが言う「神の子ども」と呼ぶわけにはいきません。この点、特にこの言葉は、社会で都合よく利用されてしまうことがあるので、注意が必要です。
では、キリストが言う「平和をつくる者」とは、どんな人のことなのでしょう。それはまず、大前提として、その人が、「神との平和」を得ている人だ、ということです。
「神との平和」と言われても、多くの人はピンと来ないでしょうね。なので、ショッキングな事実をお伝えしますが、聖書によれば、私たち人間は、生まれながらにして、神の性質とは相容れない、「罪」の根と言える、「原罪」と呼ばれるものを持っているので、実は、「神との平和」がありません。言い換えれば、人間の「罪」が、神と人とを妨げる障壁となっているので、人は、神との親密な交流を持てないでいるのです。
でも、「罪」とか「原罪」なんて言われても、ピンと来ない人も多いでしょうね。では、「罪」とは何かというと、神の視点に立って言えば、それは、神の性質に反する一切のこと、すなわち、殺人のような、誰の目からも明らかな「罪」に限らず、心の中で湧き上がる悪い思いに至るまで、神が良しとしない一切のことが「罪」にあたるのです。
そして、最大の「罪」は、実は私たちが、私たちに命を与えた神に、背中を向けて歩んでいるという事実、これこそが最大の「罪」です。言い換えれば、私たちは本来、神に目を向け、神と共に歩むべきところ、誰もが神を見失い、神から的を外した生き方をしているのです。この「的外れ」のことを、聖書は「罪」だと言っています。だから私たちは、「神との平和」がなく、羅針盤や海図を持たない船のように、時代の波間を漂っているわけです。
従って、この状態で、もし正義の神が私たちに審判を下したら、私たちは誰もが「罪」を問われ、裁かれても文句は言えません。それほどまでに、私たちの「罪」の根は、実は深いというのが聖書の見立てです。
けれども神は、私たちに審判を下す「義の神」であると同時に、私たちを造られ、「三位一体」と呼ばれる、父と子と聖霊という三つの属性が、愛によって一体となった、「愛の神」でもあるのです。なので、神は、私たちを愛して、私たちを罪の裁きから救うため、救いの道を用意されました。それが、「三位一体」の父なる神が、子なる神であるイエス・キリストを、救い主としてこの世界に遣わすことだったのです。それは、神を見失った私たちにわかるよう、神ご自身が人となって現れた出来事でした。このことを世界中でお祝いしているのが、クリスマスです。
そして父なる神は、私たちを救う計画を、このキリストを通して実行されました。すなわち、罪があるなら裁かれなくてはならない人間に代わって、罪のないイエス・キリストが、代わりに裁かれて死ぬことで、それを信じる人々が、裁きを免れるという、神でなければ出来ない「贖い」を成し遂げられたのです。それが、今から2000年前に起こった、キリストの十字架による死でした。
そして更に、父なる神は、死んだキリストを三日後によみがえらせ、人々の前で、生きたまま天に上げられました。なので、耳を疑われるかもしれませんが、キリストは今も生きていて、父なる神の右の座で、罪ある私たちのためにとりなしておられる、と聖書は証言しています。このキリストの復活こそ、私たち人間にも、キリストと同じように、永遠に生きる命が与えられることの、揺るがぬ根拠となっているのです。
従って、キリストが私たちの罪を清算するために、死んで、葬られ、よみがえられたことを私たちが信じるなら、私たちは罪が赦され、「神との平和」を得ると、聖書は約束しています。こうあります。
【ローマ人への手紙4:25~5:1】
主イエスは、私たちの背きの罪のゆえに死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられました。こうして、私たちは信仰によって義と認められたので、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。
この言葉どおり、今まで、神に背中を向けて歩んできた私たちが、キリストを救い主と信じるなら、神は私たちを不義とはみなさず、義と認めて、「神との平和」が回復されるのです。これが、キリストが言う、「平和をつくる者」にどうしても必要な前提です。
でも、「平和をつくる」と言っても、実際は、身近なところから世界に至るまで、平和とは程遠い現実が広がっていますよね。なんでこんなことになっているのか、聖書はこう説明しています。
【ヤコブの手紙4:1~3】
あなたがたの間の戦いや争いは、どこから出て来るのでしょうか。ここから、すなわち、あなたがたのからだの中で戦う欲望から出て来るのではありませんか。あなたがたは、欲しても自分のものにならないと、人殺しをします。熱望しても手に入れることができないと、争ったり戦ったりします。自分のものにならないのは、あなたがたが求めないからです。求めても得られないのは、自分の快楽のために使おうと、悪い動機で求めるからです。
戦いや争いについて、聖書は、元をただせばそれらは、「欲望」や、自分の快楽を満たしたいという、「悪い動機」から来ているのだと言っています。一方で、聖書はこうも言うのです。
【ヤコブの手紙3:17~18】
しかし、上からの知恵は、まず第一に清いものです。それから、平和で、優しく、協調性があり、あわれみと良い実に満ち、偏見がなく、偽善もありません。義の実を結ばせる種は、平和をつくる人々によって平和のうちに蒔かれるのです。
この差はなんなのでしょうね。先程の、「欲望」や「悪い動機」は、すべて私たちの罪の根から出て来るものですね。ところが、「上からの知恵」とは、神から出ているものなので、モノが全く違うことがわかります。その「上からの知恵」の「第一」は、前回学んだ「清いもの」とあるではないですか。そして、今回の「平和」に続き、優しさ、協調性、そしてこれもしばらく前に学んだ、「あわれみ」と続きます。これらは全て、キリストを信じて救われた人が、徐々に身に付けていくものばかりではありませんか。
従って、これらの言葉からも、私たちが「平和をつくる」には、「神との平和」を回復することが先決だとわかります。そして私たちが「清いもの」となり、戦いや争いとは対極にある、「義の実を結ばせる種」と呼ばれるものが、平和のうちに蒔かれることを、神は期待しているのです。
なので私たちは、平和という大風呂敷を広げる前に、まず、「神との平和」を回復しようではありませんか。それは、キリストが、私たちの罪のために死んで、葬られ、よみがえられたことを、あなたが信じて救われることです。そして、「義の実を結ばせる種」が蒔かれるとは、このキリストの死と埋葬、復活がもたらした、救いの良い知らせ、すなわち、「福音の種」が蒔かれることにほかなりません。それによって、多くの人がキリストを信じ、「神との平和」を回復することを、神は期待しておられるのです。それが、真の平和をつくる第一歩です。
平和をつくる者は、神の子どもと呼ばれる?
では最後に、私たちが平和をつくり、「神の子どもと呼ばれる」上で、キリストが語られた大事な助言の言葉を、一つだけご紹介して終わります。
【マタイの福音書5:43~45】
「『あなたの隣人(となりびと)を愛し、あなたの敵を憎め』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。天におられるあなたがたの父の子どもになるためです。父はご自分の太陽を悪人にも善人にも昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからです。」
ここで、「父の子どもになるためです」と、「神の子どもと呼ばれる」ための指針が示されました。これが今日の結論です。それによれば、真に平和をつくるなら、「自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈れ」というのです。こんなことは、「神との平和」を持ってなければ、出来るものではありません。ゆえに、「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。」という今日の言葉は、「神との平和」が不可欠な、大変重い一言なのです。
そこで私たちは、平和をつくる上での基本中の基本である、キリストの救いを信じて、「神との平和」を回復するところからはじめようではありませんか。その上で、共に、「神の子ども」として、分に応じた歩みを進めてまいりましょう。
(2023.12.24)
