地の塩・世の光ってなに?
これまで、キリストが語られた「山上の説教」と呼ばれるメッセージの冒頭にある、「八福の教え」という8つの幸いを紐解いてきました。今回はその後に続く有名な言葉です。
【マタイの福音書5:13~16】
5:13 あなたがたは地の塩です。もし塩が塩気をなくしたら、何によって塩気をつけるのでしょうか。もう何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけです。
5:14 あなたがたは世の光です。山の上にある町は隠れることができません。
5:15 また、明かりをともして升の下に置いたりはしません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいるすべての人を照らします。
5:16 このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです。
「あなたがたは地の塩」「世の光です」ときました。この言葉、語っておられるのはキリストです。では「あなたがた」とは誰でしょう。それは、弟子たちをはじめとする、キリストを救い主と信じた人たちです。彼らのことをキリストは、「あなたがたは地の塩」「世の光です」と言うのです。では、この言葉が何を意味するのか、紐解いてみましょう。
「地の塩」とは?
まず、「地の塩」の「地」とは、私たちがいる、この世界のことですね。そして「塩」は、料理に使われるあの「塩」です。「塩」は、存在こそ目立たず、溶けると見えなくなってしまうのに、絶大な効果で食物を味付けし、料理の味を整えますね。加えて、食物の腐敗も抑えてくれます。従ってキリストは、「あなたがたは地の塩です。」という言葉を通して、「私を信じた人は、目立たなくとも、人々に影響を及ぼし、社会を整え、腐敗を抑える、塩のような存在ですよ」と言っているわけです。
でも、当時の「塩」は、今の「塩」ほど純度が高くない、天然の「塩」なので、多かれ少なかれ、不純物が混ざり込んで、その効き目が失われることがあったんですね。それが、「もし塩が塩気をなくしたら、何によって塩気をつけるのでしょうか。もう何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけです。」という表現の背景です。なので、見た目は「塩」でも、実体が伴わないなら、役に立たず、人々から軽んじられると言うのです。
そう言われると、信じた人たちにはちょっとプレッシャーですよね。でも、キリストはなにも、自分の努力や修行によって「地の塩」になれ、と言っているのではありません。そうではなくて、キリストは、私を救い主と信じた人は、既に信じた時から「地の塩」なのだ、と言いたいのです。
なぜなら、これまで神に背中を向けて歩んできた私たちが、悔い改めて神に方向転換し、キリストを救い主と信じること自体が、神にとってこの上ない喜びだからです。そしてそれが、この世の腐敗を防ぐ上でも、極めて大事なことなのです。聖書にこうあります。
【ルカの福音書15:7】
一人の罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人のためよりも、大きな喜びが天にあるのです。
「一人の罪人が悔い改める」、すなわち、神に方向転換をするなら、「大きな喜びが天にある」とあります。ゆえに、「あなたがたは地の塩です」とは、キリストが喜びを込めて語った言葉だとわかります。
事実、この裏付けとして、神は、私たちがキリストを救い主と信じた時から、私たちを「新しく造られた者」とした、と説明しています。こうあります。
【コリント人への手紙第二5:17】
だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。
この言葉、キリストを信じるなら、その人の古い過去は過ぎ去って、すべてが新しくなると告げています。なぜなら、「キリストのうちにあるなら」とあるとおり、それまでキリストによる救いの外側にいた人が、信じたなら、キリストによる救いの内側に移されるからです。この前提があるので、キリストは、信じた人たちのことを、「地の塩」として「新しく造られた者」だ、と認めておられるのです。
そして実際に、キリストを信じて従っている人からは、徐々に、「地の塩」の効果がにじみ出るようになります。それが語られていたのが、この言葉の前でキリストが教えていた、「八福の教え」です。
「八福の教え」とは?
「八福の教え」とは、キリストを信じた人たちに備わっていく特徴を挙げて、そんな彼らに沢山の幸いがあることを約束した、励ましの言葉でした。なのでキリストは、「八福の教え」で挙げた特徴が、信じた人からにじみ出て、自然に「地の塩」の役目を果たすことを期待しておられるのです。
そこで、今一度、「八福の教え」を簡単におさらいしておきたいと思います。この教えによれば、キリストは、神の前に「心の貧しい者」こそ幸いで、その人は罪を「悲しむ」ようになると言っていました。そして、神に信頼を置くので、「柔和」になり、「義に飢え渇く」と言うのです。そうしていると、自ずと「あわれみ深く」、「心のきよい者」へと成長し、いつも神との平和があるので、真の「平和をつくる」ようになります。ただし、キリストを信じない人々からは、「迫害される」こともあるのですね。でも、そんなあなたがたに「天の御国」が用意されているので、あなたがたは「幸いです」と、励まされていたわけです。
これらはいずれも、程度の差こそあれ、キリストを救い主と信じて従っていると、徐々に備わっていく特徴として挙げられていました。従って、人はキリストを救い主と信じた時から既に「地の塩」であり、その人の分に応じて、自然に塩の効果がにじみ出ることを、神は期待しているのです。これが、「あなたがたは地の塩です。」という言葉の真意です。
「世の光」とは?
続いて、「あなたがたは世の光です。」とあります。これについて、「山の上にある町は隠れることができません。」と言われたのは、地元ガリラヤ湖の対岸にそびえる山頂の町や、或いは、ユダヤのエルサレムをモチーフにされたのでしょう。なぜなら、山の上にある町は、遠くからでもその明かりから、夜でもそこに町があるとがわかるからです。
その上で、「明かりをともして升の下に置いたりはしません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいるすべての人を照らします。」と言うのです。山頂の町に限らず、家の中でも、明かりは高い所に置いて、周りを照らすようにするでしょう、というわけです。
こうした明かりのように、キリストは、「あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです。」と結ぶのです。すなわち、キリストを信じた人の良い行いを、人々が目にして、その人が信じる神をあがめるようになることを、キリストは期待しておられるのです。
ただ、先程の「地の塩」は、塩自体は目立たない存在でしたが、「世の光」の場合は、「あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。」とあります。となると、「いやいや、私はまだそんな立派な人間ではないから」と、自分が目立つのをためらったり、逆に、「私ももっと良い行いをしなければ」と、殊更に頑張ってしまう人が多いんですね。
でも、キリストはここでも、私たちに努力や修行で「世の光」になれとは言っていません。よく読むと、「あなたがたを」ではなく、「あなたがたの光を輝かせなさい」と言っています。この「光」ってなんでしょう。これについて、ヒントとなるキリストの言葉を、二つご紹介します。
【ヨハネの福音書8:12】
「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。」
【ヨハネの福音書14:6】
「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」
いずれも驚くべき言葉です。まず、私たちが「世の光」である以前に、キリストご自身が、「わたしは世の光です。」と言っています。更に、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」とあります。そして、「わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」と言うのですね。この言葉、裏返せば、「わたしを通ることで、父なる神のみもとに行くことができる」と言っているわけです。そして、「わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。」とあります。
そこで、これらを要約すれば、「キリストこそ、世の光であるとともに、道であり、真理であり、いのちなので、キリストという真理に従う道を通れば、決して闇の中を歩むことがなく、いのちであるキリストという光を持って、父なる神のみもとに行くことができる」となります。
このことから、「あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。」の、「あなたがたの光」とは、信じた人自身のことではなくて、その人が信じたキリストのことだとわかります。というわけで、「あなたがたは世の光です。」とは、人が輝くのではなくて、その人が信じたキリストが輝くので、「世の光」だというわけです。
では、実際にはどのように輝くのかというと、これも「八福の教え」のとおり、信じた人に備わる特徴が自然ににじみ出ることで、その人が信じるキリストが、その人の内側から光を放つのです。肝心なことは、それが人の努力や虚栄心から来る表面的な行為ではなく、その人が信じるキリストの内面的な発露によることです。それを人々が見て、天におられる父なる神があがめられることを、子なる神であるキリストが期待されているのです。これが、「あなたがたは世の光です。」という言葉の内実です。
まとめ
というわけで、「あなたがたは地の塩」「世の光です」とは、いずれも、人の努力や修行によってそうなることを意図した言葉ではありません。実は、この言葉はしばしば、世間で良い働きをする人への称賛や、門出の言葉として使われてしまうのです。でも本当は、キリストを救い主と信じる人を指した言葉だということを見逃してはなりません。
そこで今日、ぜひあなたも、共に神から「地の塩」「世の光」と呼ばれるよう、キリストを救い主と信じようではありませんか。具体的には、キリストがあなたを罪の滅びから救い出すために、あなたの代わりに十字架に架かって死んで、葬られ、よみがえられた事を信じ、神に方向転換をすることです。それによって、あなたが本当の意味で「地の塩」「世の光」となることを、神は期待しておられるのです。
(2024.1.30)
