【キリストの足跡をたどる】046_人は信仰によって救われる?

人は信仰によって救われる?

【聖書】マタイの福音書5:17~20  
●旧約聖書を成就するために来たキリスト 
●人は行いによって救われるのではない?  
●人はどうしたら救われる?  
●人は信仰によって救われる?

今日の聖書箇所は、キリストが語られた「山上の説教」と呼ばれる長いメッセージの、総論と言える内容です。そこでまず、冒頭の一節を読んだ上で、当時の状況を把握しておきたいと思います。

旧約聖書を成就するために来たキリスト

【マタイの福音書5:17~20

5:17 わたしが律法や預言者を廃棄するために来た、と思ってはなりません。廃棄するためではなく成就するために来たのです。

まずはじめに、「律法や預言者」という言葉が出てきました。この言葉は、「旧約聖書」を指している慣用句です。

今、私たちが手にしている「聖書」は、キリストが来られる前に書かれた「旧約聖書」と、キリストが来られた後に書かれた「新約聖書」からなっています。ということは、キリストがこの世界におられた当時は、まだ「新約聖書」はないので、「聖書」と言えば「旧約聖書」のことでした。そしてそれは、律法、預言者、諸書という書物群からなっているので、キリストは「旧約聖書」を「律法や預言者」と呼んで、そこに書かれたことを「廃棄するためではなく成就するために来た」と言ったのです。どういう意味なんでしょう。

実は、キリストは人々の注目を浴びる一方で、律法学者やパリサイ人と呼ばれる当時の宗教指導者たちからは、目の敵にされていました。その原因は、キリストが、「律法」と呼ばれる「旧約聖書」に書かれた戒めは守った反面、宗教指導者たちが重んじていた「口伝律法」とも呼ばれる「昔からの言い伝え」は、守ろうとしなかったからでした。

なぜなら、「聖書」に書かれた「律法」は、神が授けた教えでしたが、宗教指導者たちの教えは、神の意図から逸脱した、人の言い伝えに過ぎなかったからです。それが後に、ユダヤ教の教典となっていきます。

なので、当時の宗教指導者たちは、キリストが彼らの教えを軽んじていると受け取ったわけです。でもキリストは、人の教えではなく、神が教えた「律法」を守り、「聖書」の言葉をことごとく成し遂げるために来られたのでした。それが、「わたしが律法や預言者を廃棄するために来た、と思ってはなりません。廃棄するためではなく成就するために来たのです。」という言葉の真意です。このことを踏まえて、続きを読んでみましょう。

人は行いによって救われるのではない?

【マタイの福音書5:17~20

5:18 まことに、あなたがたに言います。天地が消え去るまで、律法の一点一画も決して消え去ることはありません。すべてが実現します。

5:19 ですから、これらの戒めの最も小さいものを一つでも破り、また破るように人々に教える者は、天の御国で最も小さい者と呼ばれます。しかし、それを行い、また行うように教える者は天の御国で偉大な者と呼ばれます。

聖書の言葉を成就するために来たキリストは、人々に「律法」の大切さを説きます。なぜなら「律法」は、神を信じる当時の人たちにとって、生活の規範だったからです。なので、それを守る人を、キリストは「天の御国で偉大な者と呼ばれます。」と称賛したのです。

一方で、「律法」を軽んじるなら、「天の御国で最も小さい者と呼ばれます。」と戒めました。ただし、そんな人でも、「天の御国に入れない」とは言っていないですね。それに、この場にいたのは、既にキリストを救い主と信じた人たちです。なのでこの場面は、どうしたら「天の御国」に入れるかを教えているのではなくて、「天の御国」に入る人たちに、「律法」をどう理解したら良いかを教えているとわかります。ところが、そんなキリストから、青天の霹靂のような一言が飛び出します。

【マタイの福音書5:17~20

5:20 わたしはあなたがたに言います。あなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の御国に入れません。

突然、キツイ一言が飛んできましたね。この言葉、キリストの意図を知らずに、ここだけ抜き出してしまうと大変なことになります。というのは、当時、「律法」を行うことに最も熱心だったのは、「律法学者やパリサイ人」と呼ばれる宗教指導者たちでした。となると、天の御国に入るには、彼らの上を行かないとダメだ、と言うわけです。

ちなみに、ここで出て来る「義」という言葉は、簡単に言えば、「神の目から見て正しいこと」を意味します。なのでキリストは、「律法」にうるさい彼らより正しくないと、あなたがたは神の国には入れませんよ、と言っているわけです。そう言われたら、普通の人なら、そんなの無理だ、となりますね。なのでキリストは、一見、かなり絶望的な一言を発しているわけです。では、キリストが本当に言わんとしていたことはなんなのでしょう。

それは、「人は、律法を行うことによっては、神の国に入ることはできない」、言い換えれば、「人は、行いによって救われるのではない」と言いたいのです。なぜなら、人がどんなに良い行いを積み上げても、罪があるなら、神の目からは「義」とは認められない、すなわち、神の目から見て、人は「正しい」とは言えないからです。そして、神が正義を貫くなら、すべての人の罪を裁かねばならないのが神の立場です。例えば、新約聖書にこうあります。

【ヤコブの手紙2:8~10

もし本当に、あなたがたが聖書にしたがって、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」という最高の律法を守るなら、あなたがたの行いは立派です。しかし、もし人がえこひいきするなら、あなたがたは罪を犯しており、律法によって違反者として責められます。律法全体を守っても、一つの点で過ちを犯すなら、その人はすべてについて責任を問われるからです。

ここで聖書は、「律法全体を守っても、一つの点で過ちを犯すなら、その人はすべてについて責任を問われる」と言っていますね。すなわち、人がどんなに立派なことをしても、一つでも律法に違反するなら、神はそれを破った責任を問うと言うのです。その例として、「人を愛する」ことが「えこひいき」によるなら、それさえも罪だと説明しています。厳しいですよね。神が「正しい」とする「義」の次元が、こんなに高くて厳しいなら、だれも律法なんて守れないのが現実ではないでしょうか。

人はどうしたら救われる?

では、私たちは一体どうしたら、神から「正しい」とか、「義」だと認められて、神の国に入れるのでしょう。言い換えれば、私たちは、どうしたら救われるのでしょう。実はその答えが、この場に集まっていた人たちにあります。彼らは、キリストを救い主と信じた人たちでした。その彼らにキリストは、「八福の教え」を説いて「天の御国はあなたがたのものだ」と喜ばれ、「あなたがたは地の塩、世の光だ」と言っていました。

従ってキリストが、「あなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の御国に入れません。」と語った言葉の裏には、「律法に熱心な宗教指導者たちより、あなたがたのほうが、義にまさっている。なぜなら、あなたがたは私を救い主と信じたからだ。ゆえに、天の御国はあなたがたのものだ。」という意図があるのです。すなわち、「人は、律法を行うことによるのではなく、キリストを救い主と信じることによって神の国に入る」、要約すると「人は、行いによらず、信仰によって救われる」というのです。聖書にこうあります。

人は信仰によって救われる?

【ガラテヤ人への手紙3:11

律法によって神の前に義と認められる者が、だれもいないということは明らかです。「義人は信仰によって生きる」からです。

「義人は信仰によって生きる」、これが今日の結論です。すなわち、「人は行いによらず、信仰によって救われる」のです。でも、なんでそうなるんでしょう。信じる者は救われるなんて、都合が良すぎるんではないでしょうか。

実は、私たち人間が、神が「正しい」とする「義」の水準に達し得ないのは、神は百も承知なのです。なぜなら、人は誰もが罪の根を持っていて、罪のない人など、一人もいないからです。そして、神が正義を貫く「義の神」である以上、私たちに罪があるなら、どうしても私たちを裁かねばなりません。

一方で神は、私たち一人一人に命を与え、私たちを愛しておられる「愛の神」にほかなりません。ゆえに、私たちが罪のために裁かれて滅ぶのを、決して望んではいないのです。

そこで神は、そんな私たちを救うため、はるか昔から「旧約聖書」を通して、救い主を遣わすと約束していました。その約束どおりに来られたのがイエス・キリストです。そして、「律法」をことごとく守り、人として生まれた者の中で唯一、罪がなくて正しい、「義」に完全にかなった生涯を歩まれたのです。

そんなキリストが、神の「義」に適っていない私たちの代わりに、当時最も残酷な刑と言われていた、十字架刑による死を遂げられました。すなわちキリストは、私たちの罪を肩代わりして、罪がないのに罪人として裁かれることで、罪がある私たちが裁かれずに済むようにしてくださったのです。このことを「贖い」と言います。

ゆえに現代の私たちは、キリストが十字架に架かって、死んで、葬られ、よみがえられた事が、私たちの罪を贖うためだったと信じる、信仰によって救われるのです。その根拠は、キリストによる罪の贖いを信じたなら、キリストの「義」が私たちに転嫁され、その瞬間から私たちが「義」と認められる、というわけです。聖書にこうあります。

【ローマ人へ手紙3:21~24

しかし今や、律法とは関わりなく、律法と預言者たちの書によって証しされて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることによって、信じるすべての人に与えられる神の義です。そこに差別はありません。すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められるからです。

「神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められる」。これが、私たちの救いの根拠、キリストによる贖いを信じる「信仰による義」です。

さあ、そこであなたも、行いによるのではなく、この聖書の言葉にあった、「イエス・キリストを信じることによって、信じるすべての人に与えられる神の義」をいただこうではありませんか。あなたはこの信仰によって救われるのです。

(2024.2.15)

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