人は贖われて救われる?
前回、キリストが語っている「山上の説教」と呼ばれるメッセージの、総論と言える部分を紐解きました。そこで先ず、そのおさらいを簡単にしておきたいと思います。
「山上の説教」の目的
前回のキモとなる聖書箇所は、
【マタイの福音書5:20】
あなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の御国に入れません。
という言葉でした。この真意は、人はどんなに努力しても、神が求める正義のレベルには及ばず、天の御国には入れない、すなわち、人は行いによっては救われない、ということでした。では、どうしたら人は救われるのか。それは、行いではなく、信仰によって救われる、というのが結論でした。聖書にこうあります。
【ガラテヤ人への手紙3:11】
律法によって神の前に義と認められる者が、だれもいないということは明らかです。「義人は信仰によって生きる」からです。
すなわち、人は律法を守り行うから救われるのではなく、信仰によって救われるのです。それが、「義人は信仰によって生きる」という言葉の意図するところです。では、何を信じればいいのか。それは、神が聖書で予告していた、救い主を信じること、すなわち、旧約聖書の予告どおりに来られた、イエス・キリストを救い主と信じることによって救われる、というのが、その答えです。
従って、キリストが語るこの「山上の説教」は、人がどんな行いをすれば救われるかを説いたものではありません。そうではなくて、既にキリストを救い主と信じて救われた人たちに、「律法」に込められた神の意図がなんなのかを教えているのです。
というわけで、これから、その具体例が語られます。では、今日の聖書箇所を読んでいきます。
「殺してはならない」とは?
【マタイの福音書5:21~26】
5:21 昔の人々に対して、『殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。
再びおさらいとなりますが、キリストは、「律法」と呼ばれる、「旧約聖書」に書かれた教えは守る一方で、当時の宗教指導者たちが教えていた「昔からの言い伝え」には、従いませんでした。なぜなら、それらは人が定めたもので、神の意図とは違っていたからです。そこでキリストは、その違いを示し、「律法」に込められた神の意図を教えていかれます。その一つ目が、『殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない』という言い伝えです。
「殺してはならない。」という戒めは、神が授けた「律法」の中の「十戒」に出て来ます。そして、「人を殺す者はさばきを受けなければならない。」という内容も、旧約聖書の「創世記」に根拠があります。なので、これら自体は決して間違った教えではありません。
ただし、当時の人々は、この言い伝えから、殺人という行為だけを問題視していました。それに対して「いやいや、そうじゃない」と、キリストが神の意図を教えたのが、続きのくだりです。
【マタイの福音書5:21~26】
5:22 しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に対して怒る者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に『ばか者』と言う者は最高法院でさばかれます。『愚か者』と言う者は火の燃えるゲヘナに投げ込まれます。
さあ、神と人々との、認識の違いがおわかりでしょうか。私たちは、「殺すな」と言われれば、「殺人」という行為が犯罪だと考えますね。ところがキリストは、「兄弟に対して怒る者は、だれでもさばきを受けなければなりません。」と言っています。更に、兄弟に「ばか者」「愚か者」と言うだけで、「最高法院でさばかれ」、「火の燃えるゲヘナに投げ込まれます」と警告するんです。
この「ゲヘナ」とは、当時ゴミ捨て場だった場所に由来した、地獄を指す言葉です。また、「兄弟」とは、自分にとって兄弟のように近しい人、すなわち「隣人」と言ってもいいですね。なので、兄弟愛によらず、怒ったり罵ったりするなら、裁かれたり、地獄に落ちるというのです。
ちなみに神は、人が抱く怒りの感情そのものを否定しているわけではありません。ただし、人の怒りは様々で、必ずしも、神の義にかなった怒りばかりとは言えません。そこで、人が怒りの感情を抱いた時は、それを制御し、義にかなった公正な裁きをされる、神の怒りに委ねるよう促しているのです。
さあそこで、私たちはどうでしょう。私たちは、近しい人を怒ったり、罵ったことはないでしょうか。恐らく、一度もないと言い切れる人など、いないのではないでしょうか。
実は、キリストがここまで人の内面を問うのは、それが、神が意図する「律法」の本質だからです。その点をキリストは、こう説明しています。
【マタイの福音書22:37~39】
「あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」これが、重要な第一の戒めです。「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。」という第二の戒めも、それと同じように重要です。この二つの戒めに律法と預言者の全体がかかっているのです。
ここで語られている、「あなたの神、主を愛しなさい」そして「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」という戒めは、聖書のマスターキーとも言える言葉で、この二つに「律法と預言者」すなわち、旧約聖書全体がかかっているのだ、というのです。なので、私たちが、隣人を自分自身のように愛するなら、殺人どころか、怒ったり罵ったりするなどあり得ないでしょう、と言わんとしているのです。これが、神の意図です。
このようにキリストは、 聖書の教えについて、人の解釈ではなく、それを授けた神の意図を教えています。それによれば、神は、表に出た外面的な行為だけでなく、その動機となる、内面的な思いまで問題にしているのです。そして、そんな思いが大ごとになる前に、解決を促したのが、続きのくだりです。
【マタイの福音書5:21~26】
5:23 ですから、祭壇の上にささげ物を献げようとしているときに、兄弟が自分を恨んでいることを思い出したなら、ささげ物はそこに、祭壇の前に置き、行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから戻って、そのささげ物を献げなさい。
「祭壇にささげ物」云々というのは、当時の人々が神を礼拝しようとしている描写です。なので、もし「兄弟が自分を恨んでいることを思い出したなら」、礼拝する前に、まずその人のところに行って仲直りをしなさい、というのですね。更にこう続きます。
【マタイの福音書5:21~26】
5:25 あなたを訴える人とは、一緒に行く途中で早く和解しなさい。そうでないと、訴える人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれることになります。まことに、あなたに言います。最後の一コドラントを支払うまで、そこから決して出ることはできません。
今度は、「あなたを訴える人とは」「早く和解しなさい」と、事態が切迫しています。そうしないと、あなたは裁判で裁かれ、牢屋に入れられると警告するのです。そして、今日の〆となる、最も厳かな言葉が、「まことに、あなたに言います。最後の一コドラントを支払うまで、そこから決して出ることはできません。」という警告です。
「一コドラント」とは、当時の最も小さな貨幣の単位です。なのでキリストは、実社会を例に、人の罪は、最後の1円まで完全に償われなければ、決して赦されないことを示されたのです。これが、キリストが伝えたかった、神の意図です。
私たちを贖う「最後の一コドラント」
では、ここまでの内容を纏めてみましょう。キリストは、神が、私たちの外面だけでなく、その動機となる内面を見通されること明らかにされました。ゆえに、怒ったり罵ったりするだけでなく、人と軋轢があるなら和解しないと、裁かれてしまうと警告します。そうなると、完全に償われない限り、赦されないというわけです。
このように、キリストは実社会を例に挙げて、神の裁きの厳しさを示されたのです。ただ、ここまで厳しいと、残念ながら私たちは、誰も裁きを免れることは出来ません。なぜなら、私たちは誰一人として、「律法」に込められた神の義の規範を守りきれるほど、完全ではないからです。となると、私たちの罪を完全に償うことが出来る、神の憐れみにすがるよりほかにありません。
そこで、この裁きから、私たちを救うために来られた救い主が、イエス・キリストです。とはいえ、キリストは、罪がないのに罪人とされ、十字架に架かって死んでしまうのです。でも、実はその死が、私たちの罪を完全に償うための、贖いの死に他なりませんでした。なぜそう言えるのか。実はキリストは、十字架に架かる前にこう予告していました。
【マルコの福音書10:45】
「人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるためにきたのです。」
ここで言う「人の子」とはキリストのことです。そして「多くの人のための贖いの代価」とあるのは、キリストご自身が、キリストを救い主と信じた人たちの罪を贖う、身代金になる、と言っているのです。すなわち、先程の「最後の一コドラント」まで弁償するために、キリストが死ぬ代わりに、私たちに「いのちを与える」というのです。これが、キリストによる、私たちの罪の贖いです。
従って、私たちは今や、キリストが私たちの代わりに死なれたことで、私たちの罪が贖われたと信じる、信仰によって救われるのです。聖書にこうあります。
【エフェソの信徒への手紙2:8~9】 ※共同訳
あなたがたは恵みにより、信仰を通して救われたのです。それは、あなたがたの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。
さあ、そこで今日、あなたも、このイエス・キリストを救い主と信じようではありませんか。このキリストの贖いこそ、私たちに提供された「神の賜物」、プレゼントです。ぜひこのプレゼントをあなたが受け取られることを、心よりお勧めします。
(2024.2.29)