【キリストの足跡をたどる】049_信じた人は完全な者とされる?

信じた人は完全な者とされる?

【聖書】マタイの福音書5:38~48 
●悪者に手向かうな 
●敵を愛し、迫害する者のために祈れ 
●完全であるとは? 
●人生のロードマップ  

【マタイの福音書5:38~48

5:38 『目には目を、歯には歯を』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。

5:39 しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つ者には左の頬も向けなさい。

5:40 あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着も取らせなさい。

5:41 あなたに一ミリオン行くように強いる者がいれば、一緒に二ミリオン行きなさい。

5:42 求める者には与えなさい。借りようとする者に背を向けてはいけません。

5:43 『あなたの隣人を愛し、あなたの敵を憎め』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。

5:44 しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。

5:45 天におられるあなたがたの父の子どもになるためです。父はご自分の太陽を悪人にも善人にも昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからです。

5:46 自分を愛してくれる人を愛したとしても、あなたがたに何の報いがあるでしょうか。取税人でも同じことをしているではありませんか。

5:47 また、自分の兄弟にだけあいさつしたとしても、どれだけまさったことをしたことになるでしょうか。異邦人でも同じことをしているではありませんか。

5:48 ですから、あなたがたの天の父が完全であるように、完全でありなさい。

今、私たちは、「山上の説教」と呼ばれる、キリストが語られた一連のメッセージを紐解いています。この「山上の説教」で、キリストは、「律法」と呼ばれる、神がかつて人々に授けた戒めの数々が、一体何を言わんとしているのか、「律法」に込められた神の意図がなんなのかを解き明かしています。

そしてこれまで、「殺人」、「姦淫」、「離婚」、「誓い」に関する「律法」の戒めについて、当時の人々と、神との認識の違いを指摘されました。なぜなら、人々はそれまで、宗教指導者たちが重んじていた、「昔からの言い伝え」に従うあまり、神が授けた「律法」の本質を見失っていたからです。そこでキリストは、引き続き、「昔からの言い伝え」とは異なる、神が授けた「律法」の意図を説いていかれます。では早速、今日の聖書箇所を読んでいきましょう。

悪者に手向かうな

【マタイの福音書5:38~48

5:38 『目には目を、歯には歯を』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。

 『目には目を、歯には歯を』とは、旧約聖書の「律法」のほかに、「ハムラビ法典」でも有名ですね。この言葉、「律法」では、人が相手に危害や損害を与えた場合の、損害賠償の判例として登場します。従って、公の裁判で、公正を期すための言葉で、決して個人的な仕返しや復讐を促したものではありません。

ところが、人はしばしば、この言葉を、「やられたらやり返せ」という意味で、自分の行いを正当化するために用いていないでしょうか。そこでキリストは、こう教えます。

【マタイの福音書5:38~48

5:39 しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。

やられたら仕返しが当然と思う人にとっては、意外な答えですよね。仕返ししないどころか、悪い奴に手向かうな、というわけです。ただしそれは、「悪に屈服せよ」という意味ではありません。そうではなくて、恨みを増幅させる悪に、同調しないよう促しているのです。そしてこう続けます。

【マタイの福音書5:38~48

5:39 あなたの右の頬を打つ者には左の頬も向けなさい。

あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着も取らせなさい。

あなたに一ミリオン行くように強いる者がいれば、一緒に二ミリオン行きなさい。

求める者には与えなさい。借りようとする者に背を向けてはいけません。

さあ、キリストが示された神の義の規範の、次元の違いがおわかりでしょうか。普通なら、打たれたら打ち返し、取られたら取り返し、強いられたら抵抗せよ、となりますよね。ところが、打つ者にはそれ以上に打たせ、取る者にもそれ以上に取らせ、強いる者には強いられた以上に応じて、求める者には与えよ、借りたい者に背中を向けるな、と言うのです。どれも、簡単には真似の出来ない内容です。そしてキリストは、こう教えるのです。

敵を愛し、迫害する者のために祈れ

【マタイの福音書5:38~48

5:43 『あなたの隣人を愛し、あなたの敵を憎め』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。

5:44 しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。

「あなたの隣人を愛しなさい」という言葉は、「律法」が教えている最も大切な戒めです。けれども、その後の、「あなたの敵を憎め」という教えは、「律法」にはありません。そこでキリストは、この言い伝えに対して、「自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」と反論するんです。自分に危害を加えてくる敵を愛し、迫害する者のために祈れだなんて、私たちに出来るでしょうか。そこでキリストは、その理由をこう説明します。

【マタイの福音書5:38~48

5:45 天におられるあなたがたの父の子どもになるためです。父はご自分の太陽を悪人にも善人にも昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからです。

この言葉から、何がわかるでしょうか。それは、天におられる私たちの父なる神が、私たちを等しく愛して、誰もが神の子どもとなるのを願っておられる、ということです。だから、誰に対しても太陽を昇らせ、雨を降らせているのですよ、というわけです。そして、こう言います。

【マタイの福音書5:38~48

5:46 自分を愛してくれる人を愛したとしても、あなたがたに何の報いがあるでしょうか。取税人でも同じことをしているではありませんか。

また、自分の兄弟にだけあいさつしたとしても、どれだけまさったことをしたことになるでしょうか。異邦人でも同じことをしているではありませんか。

キリストは、当時の人々が、取税人や異邦人を見下していたことを逆手にとって、近しい人を愛するだけなら、誰でもやっているではないか、と言います。ということは、その程度なら、神の子どもとして相応しいとは言えないのではないですか、と問うているわけです。なので、天におられる私たちの父なる神に倣って、あなたがたも、人を分け隔てなく愛し、挨拶を交わしなさい、と促すのです。そして、今日の締めの言葉です。

完全であるとは?

【マタイの福音書5:38~48

5:48 ですから、あなたがたの天の父が完全であるように、完全でありなさい。

さあ、最後に、大変な言葉が飛び出しました。「あなたがたの天の父が完全であるように、完全でありなさい」。この言葉、皆さんはどう受け止めるでしょう。そもそも、罪があって、欠けたところのある私たちは、完全なのでしょうか。完全ではありません。なので、もし、この「完全でありなさい」という言葉が、私たちが救われるための条件だとしたら、残念ながら、私たちは誰も救われません。

では、なぜキリストは、「完全でありなさい」なんて無茶なことを言うのでしょう。それは、この話を聞いている、キリストを救い主と信じている人たちを、キリストご自身が、罪のない完全な者にする前提だからです。言い換えれば、キリストを救い主と信じた人は、キリストによって、完全な者とされる、というわけです。どういうことなんでしょう。それは、この後に起こるキリストの死に根拠があります。

すなわち、キリストはやがて、十字架に架けられて殺されることになりますが、後にその死が、私たちの罪を清算する、贖いの死であったと明らかになります。ゆえに、このキリストを救い主と信じたなら、私たちは罪が赦され、罪の裁きを免れることになるのです。これがキリストによる救いの実体です。

そうなれば、イエス・キリストを救い主として遣わした、天におられる父なる神は、もはや私たちを罪人とはみなさず、罪のない完全な者として迎えてくださる、というわけです。なぜなら、私たちの罪をキリストが背負って十字架で死なれたことで、私たちが負うはずだった罪の裁きが完了したからです。なので、十字架がキリスト教のシンボルとなっているのです。

というわけで、キリストは私たちに、決して自力で完全になれと勧めているのではありません。そうではなくて、私たちは、キリストによって罪が贖われることで、父なる神から、罪のない完全な者と認められると共に、それから徐々に、完全な方である神に似た者へと、内側から変えられていくのです。これは、私たちが努力してなせる業ではなく、神がそうしてくださるのです。それについて、聖書はこう説明しています。

【コリント人への手紙第二3:16~18

しかし、人が主に立ち返るなら、いつでもその覆いは除かれます。主は御霊です。そして、主の御霊がおられるところには自由があります。私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。

実は、この言葉の前の部分で、聖書は、キリストに出会う以前の私たちは、心に覆いが掛かっている状態なのだ、と説明しているのです。どういうことかというと、私たちは神と断絶した状態で生きているので、神についての理解力が鈍くなっている、というわけです。そのことを聖書は、「人の心に覆いが掛かっている」と表現するのです。

そこで、「人が主に立ち返るならいつでもその覆いは除かれますと言うのです。言い換えれば、人が背中を向けていた、「主」と呼ばれる神に方向を転換するなら、今まで覆いが掛かって見えなかった真理が見えるようになり、その人は内側から徐々に、鏡のように神に似た者へと変えられていくというのです。

そしてそれは、父と子と聖霊という三つの属性を持つという、三位一体の神の、聖霊なる神の働きによってなされるのだ、というのが、「御霊なる主の働きによるのです。」という言葉の意味するところです。

というわけで、「完全でありなさい。」という言葉は、キリストを救い主と信じた人が、父なる神の前で「完全な者」と認められると同時に、聖霊なる神の働きによって、実生活でも、「完全な者」へと、徐々に変えられていくことを示しているのです。なので、キリストを救い主と信じた人たちは、少しずつ、神に似た者となる過程を歩んでいるのです。それが、信じた人の人生です。

ゆえに、私たちの生涯の理想は、例え身体が老いて不自由になったり、病に蝕まれたとしても、日々、聖霊なる神に導かれて、神に似た者へと、内側から変えられていくことです。それがやがて外側にも現れ、鏡のように神の栄光を映す者となることが期待されているわけです。それを先読みして励ましているのが、「あなたがたの天の父が完全であるように、完全でありなさい」というキリストの言葉です。

人生のロードマップ

今日は、悪に手向かうな、打つ者には打たせよ、取る者には取らせよ、求める者には与えよ、そして、敵を愛し、迫害する者のために祈れなど、ハードルの高い神の規範が次々と披露されました。なので、そんなことは出来るわけがないと、落胆された方もいるかもしれません。

けれども、これらは決して、私たちが救われるための条件ではありません。そうではなくて、キリストを救い主と信じたなら、私たちはその瞬間に救われて、父なる神が「完全な者」として迎えてくださる、というのが今日の結論です。そして、実際には相変わらず不完全な私たちを、聖霊なる神が徐々に、神に似た者に変えてくださるのです。これが私たちの人生のロードマップです。

さあそこで、先ずは今日、私たちの心に掛かっている覆いが除かれ、真理を知ることが出来るよう、父なる神が遣わされたキリストによる救いを信じて、今後の人生を、聖霊なる神に伴走していただこうではありませんか。

(2024.3.30)

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