【キリストの足跡をたどる】056_狭い門から入れ?

狭い門から入れ?

【聖書】マタイの福音書7:13~14 
●二つの門 
●広い道と大きな門とは? 
●狭い門から入るとは?

【マタイの福音書7:13~14

7:13 狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広く、そこから入って行く者が多いのです。

7:14 いのちに至る門はなんと狭く、その道もなんと細いことでしょう。そして、それを見出す者はわずかです。

私たちは長らく、キリストが語った「山上の説教」と呼ばれるメッセージを紐解いています。この「山上の説教」とは、キリストを救い主と信じた当時の人々が、聖書に書かれた「律法」をどのように解釈し、彼らがどう生きていけばよいかを教えたものです。そして今日も、キリストの有名な言葉が出て来ます。

二つの門

【マタイの福音書7:13~14

狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広く、そこから入って行く者が多いのです。いのちに至る門はなんと狭く、その道もなんと細いことでしょう。そして、それを見出す者はわずかです。

キリストが、「狭い門」「大きい門」という二つの門の話をしています。「狭い門」と聞くと、小説を思い出す人も多いかもしれません。或いは、受験などで難関を意味する「狭き門」を想像されるでしょうか。でも、これはそんなレベルの話ではありません。ここでマタイが書き残している門は、普通の門とは違う、特別な門です。どういうことでしょう。

先ず「狭い門」は、そこに通じる道もとても細くて、この門を見出す者はわずかだといいます。ところがキリストによれば、この門こそ、「いのちに至る門」だと言うのです。これが、普通の門とは違う、特別な門である理由です。なのでキリストは、私たちにこの「狭い門」から入るようすすめてくれているのです。

一方で、これとは対照的な「大きい門」があって、そこに通じる道は広いといいます。であれば、道は通りやすく、門もくぐりやすいので、多くの人がそこから入っていきますね。ところがこの門は「滅びに至る門」だと言うのです。

これはなかなかキツイ話で、決して軽んじていい内容ではありません。なぜならキリストは、人の行く末を門に例えて、多くの人が「広い道」を通って「滅びに至る」一方、「細い道」を見出して、「いのちに至る」人はわずかだという、真理を語っているからです。では、当時の人々にとって、このことは具体的に、何を意味していたのでしょう。

広い道と大きな門とは?

それは、今までの文脈から判断すれば、「広い道」とは、「律法学者やパリサイ人」と呼ばれる、当時の宗教指導者たちが教えていた道にほかなりません。彼らは本来、聖書に書かれた「律法」を教える立場だったにもかかわらず、神が定めた「律法」より、人が定めた「言い伝え」を重んじて、それを行うよう教えていました。なので、それを聞いていた民衆は、人の「言い伝え」を行うことで、神の「律法」を守っていると思い込んでいたのです。でも所詮、人の言葉は、神の言葉ではありません。そこでキリストは、

【マタイの福音書15:3

「なぜ、あなたがたも、自分たちの言い伝えのために神の戒めを破るのですか。」

と宗教指導者たちを問いただし、彼らの誤った教えを挙げて、

【マタイの福音書15:6

「こうしてあなたがたは、自分たちの言い伝えのために神の言葉を無にしてしまいました。」

と非難しています。

加えて彼らは、ユダヤ民族を興した聖書の神は、自分たちだけの神だ、と思っていたので、ユダヤ人として生まれたなら誰でも神の国に入ると、多くの人が思い込んでいたのです。これこそ、多くの人が通る「広い道」ですね。そこでキリストはこう言うのです。

【マタイの福音書23:13

わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは人々の前で天の御国を閉ざしている。おまえたち自身も入らず、入ろうとしている人々も入らせない。

すなわち、当時の宗教指導者たちの教えに従って、「広い道」を通っても、その先に、「天の御国」と呼ばれる神の国はないというわけです。なぜなら、彼ら自身が、「神の言葉を無にして」「狭い門」の先にある「天の御国」に入ろうとせず、「入ろうとしている人々も入らせない」よう、「大きい門」にいざなっていたからです。でもそれが、「滅びに至る門」だというのです。

これは、私たちには、他人事のように聞こえるかもしれません。けれども、キリストがここで、時代を超えた普遍的な真理を語っているとしたら、極めて厳粛に受け止める必要があるのではないでしょうか。単刀直入に言えば、私たちが、もし神の意図とは異なる教えを信じて、その道を歩んだら、私たちは「滅びに至る」ということです。実際、聖書の中にも、こんな言葉があります。

【旧約聖書・箴言14:12

人の目にはまっすぐに見えるが、その終わりが死となる道がある。

この前提に立つなら、私たちの身の回りには、キリストが言う「広い道」のような教えの、なんと多いことでしょう。でも残念ながら、人の目からはどんなにまっすぐに見えても、その道が「いのちに至る門」に通じていなければ、それは「その終わりが死となる道」であり、そこにあるのは、「滅びに至る門」だいうのが聖書の一貫した警告です。そして「その道は広く、そこから入って行く者が多いのです。」

狭い門から入るとは?

では、「狭い門」とはなんでしょう。それを教えたキリストの言葉を二つご紹介します。

【ヨハネの福音書10:9

わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら救われます。

これは驚くべき言葉です。キリスト自身が「わたしは門です」と宣言し、「わたしを通って入るなら救われます」と約束しています。ということは、キリストが、自分こそ「いのちに至る門」だと自己アピールをしているわけですね。更に極めつけはこの言葉です。

【ヨハネの福音書14:6

わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。

これも爆弾発言です。先程の例えを当てはめれば、ご自分が「細い道」で、普遍的な「真理」そのものであると共に、「いのちに至る」「狭い門」だというわけです。従って、「細い道」かつ「いのちに至る」「狭い門」であるイエス・キリストを通らなければ、誰も天の父なる神のもとへ行くことは出来ない、と断言しているのです。

この言葉は、イエス・キリストが何者なのかを知らない人には、当然、評判がよくありません。なので、この言葉をもって、キリスト教は排他的だと言う人が多いのです。でも、そう言って多くの人が「広い道」を通っていく現実を見れば、なおさら、聖書の予告どおりに来られたキリストこそ、本当に「いのちに至る」「狭い門」である可能性は捨て切れません。

ゆえに、キリストが何者なのかを知らない人ほど、聖書やイエス・キリストの言うことが本当かどうかを、真剣に吟味されることをお勧めします。なぜなら、もしこの言葉が真実なら、キリストを拒否し続ければ、本当に「天の御国」には入れないからです。ちなみにキリストは、別な場面でこんなことも言っています。

【ヨハネの福音書3:3

「まことに、まことに、あなたに言います。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることは出来ません。」

ここで「新しく生まれなければ」と言っていることも、「細い道」や、「いのちに至る」「狭い門」と同じく、「イエス・キリストを通ること」ととらえて差し支えありません。では、「イエス・キリストを通る」と は、一体どういうことなのでしょう。

それは、このイエス・キリストを救い主と信じることにほかなりません。なぜなら、聖書によれば、私たちは誰もが、自分ではどうにも解決できない罪を持っているので、神の取り計らいによってその罪が清算されなければ、決して神の国には入れないからです。

そこで、神が、人間を罪の裁きから救うために、この世界に遣わした救い主が、イエス・キリストです。そしてキリストは、ご自分が聖書で予告されていた救い主であることを示された上で、最後に十字架に架かって死ぬという、壮絶な生涯を歩まれます。でも、葬られて三日後によみがえり、多くの人の前に現れた後、天に上げられたと、聖書は証言しているのです。

これらの記録を総合すると、キリストは、天の父なる神が約束していたとおりに、私たちの罪をすべて清算するために、この世界に来られて、私たちが罪人として裁かれる代わりに、十字架に架かって死んでくださったとわかるのです。聖書にこうあります。

【コリント人への手紙第一15:3~4

キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと、…

というわけで、キリストの話を聞いていた当時の人々にとっては、キリストこそ、聖書が予告していた救い主だと信じることが、「細い道」を通り、「いのちに至る」「狭い門」から入ることを意味していたのです。

そして、キリストが死んで葬られ、よみがえられたことを知っている現代の私たちにとっては、それらがすべて、私たちの罪を贖うためだったと信じることが、「狭い門」から入るということです。なぜなら、キリストが私たちの代わりに裁かれたので、それを信じる私たちは、罪の裁きを免れ、キリストがよみがえって天に上げられたように、私たちも永遠のいのちを与えられるというのが、聖書の約束だからです。こうあります。

【ヨハネの福音書3:16~17

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは、御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。

ここで、「ひとり子」とか「御子」とあるのが、イエス・キリストです。従って、「御子を信じる者が」「永遠のいのちを持つ」とあるとおり、イエス・キリストを救い主と信じることが、「いのちに至る」「狭い門」から入ることにほかなりません。このことを重く受け止め、賢明な判断を下そうではありませんか。今こそ「狭い門」から入ることをお勧めします。

(2024.7.15)

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