059_血筋でなく信仰で救われる?
【ルカの福音書7:1~10】
7:1 イエスは、耳を傾けている人々にこれらのことばをすべて話し終えると、カペナウムに入られた。
7:2 時に、ある百人隊長に重んじられていた一人のしもべが、病気で死にかけていた。
7:3 百人隊長はイエスのことを聞き、みもとにユダヤ人の長老たちを送って、自分のしもべを助けに来てくださいとお願いした。
7:4 イエスのもとに来たその人たちは、熱心にお願いして言った。「この人は、あなたにそうしていただく資格のある人です。
7:5 私たちの国民を愛し、私たちのために自ら会堂を建ててくれました。」
7:6 そこで、イエスは彼らと一緒に行かれた。ところが、百人隊長の家からあまり遠くないところまで来たとき、百人隊長は友人たちを使いに出して、イエスにこう伝えた。「主よ、わざわざ、ご足労くださるには及びません。あなた様を、私のような者の家の屋根の下にお入れする資格はありませんので。
7:7 ですから、私自身があなた様のもとに伺うのも、ふさわしいとは思いませんでした。ただ、おことばを下さい。そうして私のしもべを癒やしてください。
7:8 と申しますのは、私も権威の下に置かれている者だからです。私自身の下にも兵士たちがいて、その一人に『行け』と言えば行きますし、別の者に『来い』と言えば来ます。また、しもべに『これをしろ』と言えば、そのようにします。」
7:9 イエスはこれを聞いて驚き、振り向いて、ついて来ていた群衆に言われた。「あなたがたに言いますが、わたしはイスラエルのうちでも、これほどの信仰を見たことがありません。」
7:10 使いに送られた人たちが家に戻ると、そのしもべは良くなっていた。
前回まで、「山上の説教」と呼ばれる、イエス・キリストの一連のメッセージを紐解いてきました。今回から再び、イスラエルのガリラヤという地域における、キリストの様々な働きを追いかけていきます。では早速、今日の聖書箇所を読んでみましょう。
百人隊長の信仰
【ルカの福音書7:1~10】
7:1 イエスは、耳を傾けている人々にこれらのことばをすべて話し終えると、カペナウムに入られた。時に、ある百人隊長に重んじられていた一人のしもべが、病気で死にかけていた。
まず、カペナウムとは、ガリラヤ湖という湖の北側にある村のことです。そして当時は、ローマ帝国が一帯を支配していたので、各地にローマ軍が駐屯していたわけですね。その兵隊の100人程度を束ねる一個中隊の隊長が、百人隊長と呼ばれる人です。この人が重用していたしもべが、病気で死にかかっていたというのです。続きです。
【ルカの福音書7:1~10】
7:3 百人隊長はイエスのことを聞き、みもとにユダヤ人の長老たちを送って、自分のしもべを助けに来てくださいとお願いした。イエスのもとに来たその人たちは、熱心にお願いして言った。「この人は、あなたにそうしていただく資格のある人です。私たちの国民を愛し、私たちのために自ら会堂を建ててくれました。」
ユダヤ人の長老たちが、この百人隊長を随分と称賛していますね。実はこれはとても珍しいことで、この時代のユダヤ人たちは、ローマ帝国に服従しつつも、心のうちでは、異邦人である彼らを見下す傾向がありました。なぜなら、ユダヤ人たちの多くは、自分たちこそ神から選ばれた民族で、ユダヤ人以外の異邦人は、神とは無縁の人たちだと考えていたからです。
その彼らが、異邦人である百人隊長の願いを聞いてくれるよう、熱心にお願いしたというのですから、この人は相当な人望があったとわかります。実際、その人となりが、冒頭の「百人隊長はイエスのことを聞き、みもとにユダヤ人の長老たちを送って」という記録からもうかがえるんです。
すなわち、この百人隊長は、キリストがユダヤ人の救い主と目されている手前、自分が異邦人であることを弁え、あえて直接会いに行くのを控えて、ユダヤ人の長老を使いに立てていたのです。それがより明らかとなるのが、続きの部分です。
【ルカの福音書7:1~10】
7:6 そこで、イエスは彼らと一緒に行かれた。ところが、百人隊長の家からあまり遠くないところまで来たとき、百人隊長は友人たちを使いに出して、イエスにこう伝えた。「主よ、わざわざ、ご足労くださるには及びません。あなた様を、私のような者の家の屋根の下にお入れする資格はありませんので。ですから、私自身があなた様のもとに伺うのも、ふさわしいとは思いませんでした。ただ、おことばを下さい。そうして私のしもべを癒やしてください。
キリストが、百人隊長のもとに赴こうとしたら、百人隊長は再び使いを送って、「私にはキリストを家の中にお迎えする資格がないので、わざわざご足労頂くには及びません」と伝えてきたのです。そして、「私はキリストの前に出ることさえふさわしくない者です」と吐露した上で、「ただ、おことばを下さい。そうして私のしもべを癒やしてください」と願ったわけです。
これはまさに、百人隊長の信仰告白です。すなわち、キリストがユダヤ人の救い主なら、異邦人の自分はお会いする資格さえないと自覚した一方、キリストが神の権威をお持ちなら、言葉を頂けるだけでも、願いはかなえられるという信仰の現われが、この言葉になったのです。ちなみに聖書は、信仰についてこう定義しています。
【ヘブル人への手紙11:1】
信仰は、望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるものです。
「望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させる」これが信仰のあり方です。その模範のような百人隊長が、こう続けます。
【ルカの福音書7:1~10】
7:8 と申しますのは、私も権威の下に置かれている者だからです。私自身の下にも兵士たちがいて、その一人に『行け』と言えば行きますし、別の者に『来い』と言えば来ます。また、しもべに『これをしろ』と言えば、そのようにします。」
百人隊長は、「自分のような者でさえ、ローマ帝国から付与された権威によって命令すれば、部下が従うのだから、救い主が神の権威を行使すれば、必ずそうなる」と信じているわけです。恐らく彼は、様々な情報を通して、キリストこそ異邦人も救える方だと確信していたんでしょうね。これに対するキリストの反応を見てみましょう。
異邦人とユダヤ人の救い
【ルカの福音書7:1~10】
7:9 イエスはこれを聞いて驚き、振り向いて、ついて来ていた群衆に言われた。「あなたがたに言いますが、わたしはイスラエルのうちでも、これほどの信仰を見たことがありません。」使いに送られた人たちが家に戻ると、そのしもべは良くなっていた。
キリストが彼の言葉を聞いて、「イスラエルのうちでも、これほどの信仰を見たことがありません」と驚いていますね。実は、この出来事は、ルカのほかにマタイも記録していて、最後のこの部分については、マタイのほうが詳しく伝えているんです。こうあります。
【マタイの福音書8:10~13】
イエスはこれを聞いて驚き、ついて来た人たちに言われた。「まことに、あなたがたに言います。わたしはイスラエルのうちのだれにも、これほどの信仰を見たことがありません。あなたがたに言いますが、多くの人が東からも西からも来て、天の御国でアブラハム、イサク、ヤコブと一緒に食卓に着きます。しかし、御国の子らは外の暗闇に放り出されます。そこで泣いて歯ぎしりするのです。」それからイエスは百人隊長に言われた。「行きなさい。あなたの信じたとおりになるように。」すると、ちょうどそのとき、そのしもべは癒やされた。
マタイによれば、キリストが百人隊長の信仰を称賛した上で、「多くの人が東からも西からも来て、天の御国でアブラハム、イサク、ヤコブと一緒に食卓に着きます」と言っていますね。この言葉、百人隊長と何の関係があるんでしょう。
実は、アブラハム、イサク、ヤコブとは、その信仰が称賛された、ユダヤ人の先祖たちのことです。なのでキリストは、たとえユダヤ人でなくとも、彼らのような信仰さえあれば、東や西のほうにいる異邦人でも、天の御国に入れると宣言しているのです。従って、聖書の神は、ユダヤ人だけでなく、異邦人である私たちも、信仰によって救ってくださる神なのです。嬉しいですね。
一方で、「御国の子らは外の暗闇に放り出されます。そこで泣いて歯ぎしりするのです」と言います。これは、本来は天の御国に入るはずのユダヤ人も、信仰がなければ、入れずに放り出されるという警告です。これを聞いた人たちは驚いたはずです。なぜなら、当時のユダヤ人たちの多くは、ユダヤ人として生まれたなら、だれでも天の御国に入れると思い込んでいたからです。
そして最後に、「行きなさい。あなたの信じたとおりになるように」とキリストが言うと、その時に百人隊長のしもべが癒やされたとあります。これが、キリストが言葉だけで遠くのしもべを癒した奇跡です。
視点の異なる二つの記録
さて、ここで一点、気になることがないでしょうか。実はマタイは、「イエスは百人隊長に言われた」と、キリストがまるで、百人隊長と直接話しているかのような書き方をしていますね。でもルカは、「百人隊長は友人たちを使いに出して」と、キリストが百人隊長の使いと話したと言っています。なんで相手が違うんでしょう。
それは、マタイとルカが、異なる視点で記事を書いているからです。すなわち、キリストが話した相手はあくまでも百人隊長の使いですが、マタイが伝えたいテーマは、ルカとは違うので、マタイは簡潔に、実質的な対話の相手が百人隊長であることを示したのです。
具体的には、ルカは異邦人に向けて記事を書いているので、異邦人でも信仰によって救われることを伝えたいです。なので、異邦人である百人隊長と、ユダヤ人の救い主と目されていた、イエス・キリストとのやりとりを詳しく伝えているのですね。
一方でマタイは、ユダヤ人に向けて記事を書いているので、ここでは、ユダヤ人でも信仰がなければ救われないことを強調しているのです。なので、天の御国に関するキリストの言及を伝える一方、ほかは簡潔にまとめたというわけです。ゆえに、二つの記事に齟齬はありません。では、今日の結論です。
血筋によらず信仰と恵みによって救われる
まず明らかとなったのは、このイエス・キリストこそ、紛れもなく、神の権威を持った救い主だという事実です。そうでなければ、言葉だけで、遠くのしもべが癒やされるなど、起こることではありません。
そして、キリストの救いに与るには、血筋によってではなく、誰でも信仰と恵みによるという事実です。なのでキリストは、血筋によって救われていると思っていたユダヤ人たちに警鐘を鳴らしたのです。事実、聖書は救われた人のことを、こう言っています。
【エフェソの信徒への手紙2:8】 ※共同訳
あなたがたは恵みにより、信仰を通して救われたのです。それは、あなたがたの力によるのではなく、神の賜物です。
この言葉どおり、百人隊長は信仰と恵みによって、しもべの癒しという神の賜物を受け取ったというのが、今日のエピソードです。そこで私たちも、信仰を通して、共に救いの恵みに与ろうではありませんか。この信仰と恵みによる救いこそ、私たちに等しく差し出された神の賜物、プレゼントです。是非このプレゼントを受け取られますよう、おすすめします。
(2024.8.30)
