060_信じる者は死んでも生きる?
【ルカの福音書7:11~17】
7:11 それから間もなく、イエスはナインという町に行かれた。弟子たちと大勢の群衆も一緒に行った。
7:12 イエスが町の門に近づかれると、見よ、ある母親の一人息子が、死んで担ぎ出されるところであった。その母親はやもめで、その町の人々が大勢、彼女に付き添っていた。
7:13 主はその母親を見て深くあわれみ、「泣かなくてもよい」と言われた。
7:14 そして近寄って棺に触れられると、担いでいた人たちは立ち止まった。イエスは言われた。「若者よ、あなたに言う。起きなさい。」
7:15 すると、その死人が起き上がって、ものを言い始めた。イエスは彼を母親に返された。
7:16 人々はみな恐れを抱き、「偉大な預言者が私たちのうちに現れた」とか、「神がご自分の民を顧みてくださった」と言って、神をあがめた。
7:17 イエスについてのこの話は、ユダヤ全土と周辺の地域一帯に広まった。
私たちは今、イスラエルのガリラヤという地域における、イエス・キリストの様々な働きを追いかけています。では今日の聖書箇所を読んでみましょう。
やもめの息子の蘇生
【ルカの福音書7:11~17】
7:11 それから間もなく、イエスはナインという町に行かれた。弟子たちと大勢の群衆も一緒に行った。イエスが町の門に近づかれると、見よ、ある母親の一人息子が、死んで担ぎ出されるところであった。その母親はやもめで、その町の人々が大勢、彼女に付き添っていた。
この頃キリストは、ご自分が旧約聖書で予告されていた救い主であることを証明する、様々な奇跡や権威ある言葉によって、民衆から絶大な人気を得ていました。なので、大勢の群集がキリストについてきて、ナインという町にきたのですね。すると、それとは対照的な、弔いの場に出くわしました。それも、死んだのは一人息子で、母親はやもめだというのです。これは悲しみの極みですね。さあ、キリストはどうしたんでしょう。続きです。
【ルカの福音書7:11~17】
7:13 主はその母親を見て深くあわれみ、「泣かなくてもよい」と言われた。
この一文、注意深く見ると、「キリストは」ではなく、「主は」ではじまっていますね。この「主」とは、聖書の神の固有名詞です。なのでルカはこの場面で、イエス・キリストが、聖書に啓示されている、神であることを強調しているのです。
そして、「その母親を見て深くあわれみ」とあります。この「深くあわれみ」というのも、その意味を汲み取るなら、内臓が引きちぎられるほどにとか、断腸の思い、あるいは、はらわたが煮えくり返るようなといった、キリストが激しい感情の高鳴りを覚えたときに使われる言葉です。なのでこの一文から、「主」なる神ご自身が、人の死に対して、怒りのような激しい感情をもって、「泣かなくてもよい」と言ったと読み取れるのです。
でも、息子を失ったやもめにとっては、この事態に「泣かなくてもよい」と言われても、何の慰めにもなりませんね。ではなんでこんなことを言ったんでしょう。続きです。
【ルカの福音書7:11~17】
7:14 そして近寄って棺に触れられると、担いでいた人たちは立ち止まった。イエスは言われた。「若者よ、あなたに言う。起きなさい。」
キリストが「近寄って棺に触れられると、担いでいた人たちは立ち止まった」とあります。当時は、死人の棺に触れたらその人は汚れるとされていたのです。それに、棺といってもこの場合は、死体を覆った程度の、担架のようなものだったのかもしれません。それにキリストが触れたので、人々が驚いて、思わず歩みを止めたのです。そして出た言葉が、「若者よ、あなたに言う。起きなさい」です。さあ、どうなったでしょう。
【ルカの福音書7:11~17】
7:15 すると、その死人が起き上がって、ものを言い始めた。イエスは彼を母親に返された。人々はみな恐れを抱き、「偉大な預言者が私たちのうちに現れた」とか、「神がご自分の民を顧みてくださった」と言って、神をあがめた。イエスについてのこの話は、ユダヤ全土と周辺の地域一帯に広まった。
すごいことが起こりました。「死人が起き上がって、ものを言い始めた」というのです。そして、「イエスは彼を母親に返された」とあります。この死人の蘇生が、この時のキリストの奇跡です。
この光景に、人々は恐れを抱いたのですね。そして、「偉大な預言者が私たちのうちに現れた」と言っています。実は、昔このあたりには、エリヤとエリシャという預言者がいて、死んだ人を蘇生させたという前例がありました。なので人々は、キリストのことを、こうした預言者の再来かと思ったわけです。
そして、「神がご自分の民を顧みてくださった」と言って、神をあがめたとありますから、人々は少なくとも、この奇跡が神から出たものだと悟ったようですね。そこでこの話が、ユダヤ全土と周辺の地域一帯に広まったというのが、今日のエピソードです。
信じる者は死んでも生きる?
このことから、イエス・キリストは、神から出た力によって、死んだ人を蘇生させる、預言者のような人物だとわかりました。ここまでは、当時の人々も認識したようです。
でも、これを書いたルカは、キリストのことを「主」と呼んでいますね。ということは、ルカはキリストの生涯を概観した上で、イエス・キリストこそ神ご自身であり、預言者を越える存在だと位置づけているわけです。この視点は極めて重要です。なぜなら、イエス・キリストを誰だととらえるかによって、私たちの運命が変わるからです。もう一度言います。イエス・キリストを誰だととらえるかが、私たちの運命を変えるのです。その根拠となる、キリストの言葉をご紹介します。
【ヨハネの福音書11:25~26】
「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。あなたは、このことを信じますか。」
この言葉、すごいパワーを秘めた、爆弾発言ではないでしょうか。「わたしを信じる者は死んでも生きるのです」だなんて、一体どういうことでしょう。
それは、イエス・キリストを救い主と信じる者は、肉体的に死んで滅んでも、霊的には、死んだり滅んだりすることはない、ということです。すなわち、イエス・キリストを救い主と信じたなら、その人には、永遠の命が与えられる、というのです。それを表したのが、「生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません」という言葉です。
では、「わたしはよみがえりです。いのちです」とはどういう意味でしょう。それは、キリストが、人に命を与えて霊的に生かすのみならず、肉体的にも人をよみがえらせる、「主」なる神だと宣言しているに等しいのです。
すなわち、キリストを信じる者は、一度は死んで肉体が滅んでも、キリストの言う「天の御国」が実現する時、朽ちない完全な肉体をまとってよみがえることが、聖書から読み取れるのです。だからルカは、キリストが神だと読者に知らせているのです。
でも、こんな破天荒なこと、普通は信じられませんね。そこでキリストが、実際にやもめの息子をよみがえらせて、ご自身が本当に命を与える神であることを示したのが、今日のエピソードです。
ただし、この時のよみがえりは、一時的な「蘇生」であって、人はいずれまた死んでしまいます。そこで、キリストご自身が死んで葬られた後、三日目によみがえったという事実こそ、「わたしはよみがえりです。いのちです」という言葉が真実であることの、最大の裏付けです。なぜなら、このキリストのよみがえりは、ただの「蘇生」ではなく、朽ちない体をまとってよみがえった「復活」だからです。
その根拠として、キリストが復活した後、多くの人の前に現れて、生きたまま天に上げられたことを伝えたのが、この記事を書いているルカです。なので聖書は、キリストのよみがえりを「復活の初穂」と呼んで、信じた者はこの「復活」に続く者となる、と教えています。これが、「信じる者は死んでも生きる」ことの内実です。
イエス・キリストは本当に救い主か
なお、この後に続くエピソードとして、バプテスマのヨハネという人が、イエス・キリストが本当に救い主なのか、使いを送って尋ねるシーンが出て来ます。その時キリストは、こう答えるのです。
【ルカの福音書7:22~23】
「あなたがたは行って、自分たちが見たり聞いたりしたことをヨハネに伝えなさい。目の見えない者たちが見、足の不自由な者たちが歩き、ツァラアトに冒された者たちがきよめられ、耳の聞こえない者たちが聞き、死人たちが生き返り、貧しい者たちに福音が伝えられています。だれでも、わたしにつまずかない者は幸いです。」
実は、救い主がこの世に来たらどんなことをするのかは、遠い昔から、旧約聖書のいたるところで予告されていました。例えばこうあります。
【旧約聖書・イザヤ書35:5~6】
そのとき、目の見えない者の目は開かれ、耳の聞こえない者の耳は開けられる。そのとき、足の萎えた者は鹿のように飛び跳ね、口のきけない者の舌は喜び歌う。
この予告のとおり、キリストは多くの人々を癒やして、ご自分が旧約聖書で予告されていた救い主であることを示されました。そして今日のエピソードも、キリストが人々に命を与える「主」であることを示す、確かな証拠です。それをバプテスマのヨハネに伝え、「だれでも、わたしにつまずかない者は幸いです」と促したのです。
さあそこで、私たちはどうでしょう。聖書は一見、信じがたいことが堂々と書かれている、不思議な書物です。そう思うのは、私たちが、目に見える世界しか見えない、人間の目線で見ているからです。
でも、この世界を無から創造し、人に命を与えた神の目線は、私たちとは全く異なります。ゆえに私たちが、聖書の神を信じるなら、世界は全く違ったものに見えてきます。それを伝えるために神が人となって来られたのが、イエス・キリストです。
そこで今日、私たちも、このイエス・キリストこそ救い主であると認めて、聖書の言葉に真摯に耳を傾けようではありませんか。そうすれば、自ずと私たちのものの見方、価値観、世界観が変わり、生き方も変わります。それを神が喜ばれ、私たちは神と共に、永遠に生き続けるのです。これを裏付ける先程の言葉を、もう一度読んで終わりにします。
【ヨハネの福音書11:25~26】
「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。あなたは、このことを信じますか。」
(2024.9.15)