061_神があなたを休ませる?
【マタイの福音書11:20~30】
11:20 それからイエスは、ご自分が力あるわざを数多く行った町々を責め始められた。彼らが悔い改めなかったからである。
11:21 「ああ、コラジン。ああ、ベツサイダ。おまえたちの間で行われた力あるわざが、ツロとシドンで行われていたら、彼らはとうの昔に粗布をまとい、灰をかぶって悔い改めていたことだろう。
11:22 おまえたちに言う。さばきの日には、ツロとシドンのほうが、おまえたちよりもさばきに耐えやすいのだ。
11:23 カペナウム、おまえが天に上げられることがあるだろうか。よみにまで落とされるのだ。おまえのうちで行われた力あるわざがソドムで行われていたら、ソドムは今日まで残っていたことだろう。
11:24 おまえたちに言う。さばきの日には、ソドムの地のほうが、おまえよりもさばきに耐えやすいのだ。」
11:25 そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主であられる父よ、あなたをほめたたえます。あなたはこれらのことを、知恵ある者や賢い者には隠して、幼子たちに現してくださいました。
11:26 そうです、父よ、これはみこころにかなったことでした。
11:27 すべてのことが、わたしの父からわたしに渡されています。父のほかに子を知っている者はなく、子と、子が父を現そうと心に定めた者のほかに、父を知っている者はだれもいません。
11:28 すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
11:29 わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。
11:30 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」
今日は、イエス・キリストの有名な言葉が出てきますが、その前の、キリストが人々を叱責したシーンから読んでいきます。
悔い改めない人々への叱責
【マタイの福音書11:20~30】
11:20 それからイエスは、ご自分が力あるわざを数多く行った町々を責め始められた。彼らが悔い改めなかったからである。
キリストは今まで、イスラエルのガリラヤという地域で、沢山の奇跡を行って来ました。それを通して、ご自身が旧約聖書で予告されていた救い主であることを示し、天の御国が近づいているので、悔い改めて、聖書の言葉に立ち返るよう、人々に促していたわけです。けれども、多くの人はそれを聞いても、他人事のように、心を改めようとしませんでした。私たちはどうでしょう。そこでキリストはこう言います。
【マタイの福音書11:20~30】
11:21 「ああ、コラジン。ああ、ベツサイダ。おまえたちの間で行われた力あるわざが、ツロとシドンで行われていたら、彼らはとうの昔に粗布をまとい、灰をかぶって悔い改めていたことだろう。おまえたちに言う。さばきの日には、ツロとシドンのほうが、おまえたちよりもさばきに耐えやすいのだ。
冒頭の、コラジンやベツサイダとは、イスラエルのガリラヤ地方にあった町の名前です。それに対して、ツロやシドンは、現在のレバノンに位置する、ユダヤ人から見れば、異邦人が住む町のことです。そして、「粗布をまとい、灰をかぶって」とは、当時の人々が、嘆き悲しんだときにしていた行為です。なので、キリストが行った多くの奇跡を、もし異邦人見ていたら、彼らはとっくに悔い改めていただろう、というわけです。
更に、「さばきの日には、ツロとシドンのほうが、おまえたちよりもさばきに耐えやすい」と言います。すなわち、神が裁く時には、キリストを知らない異邦人のほうが、見ても信じなかったユダヤ人より、罪が軽いというのです。そしてこう続けます。
【マタイの福音書11:20~30】
11:23 カペナウム、おまえが天に上げられることがあるだろうか。よみにまで落とされるのだ。おまえのうちで行われた力あるわざがソドムで行われていたら、ソドムは今日まで残っていたことだろう。おまえたちに言う。さばきの日には、ソドムの地のほうが、おまえよりもさばきに耐えやすいのだ。」
今度はカペナウムが出てきました。カペナウムは、キリストが長く滞在していた所です。そこの人々に、「おまえが天に上げられることがあるだろうか。よみにまで落とされるのだ」と言っています。なので、キリストが共にいて、多くの奇跡を見ても、信じないなら、天の御国には入れないよ、と警告しているのです。そして引き合いに挙げられた町が、ソドムです。
このソドムとは、旧約聖書に出て来る、堕落の果てに滅んでしまった町のことです。でも、そのソドムの人たちでさえ、もしキリストの働きを見てたなら、悔い改めて、町は滅びずに済んだだろう、というのです。となれば、神の前では、カペナウムの人々より、ソドムの人々のほうが罪が軽い、というわけです。
こうしてキリストは、イスラエルに住むユダヤ人たちの不信仰を指摘しました。でも、すべての人が不信仰だったわけではありません。事実、ここまで従ってきた人たちは、キリストを救い主と信じた、弟子と呼ばれる人たちです。そこに多くの群集が、野次馬のようについてきていたのです。なので、この群集に信仰があったかは疑問です。そこでキリストはこう続けます。
神は幼子たちの前に現れる?
【マタイの福音書11:20~30】
11:25 そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主であられる父よ、あなたをほめたたえます。あなたはこれらのことを、知恵ある者や賢い者には隠して、幼子たちに現してくださいました。そうです、父よ、これはみこころにかなったことでした。
キリストが、天の父なる神に向かって、なぜか感謝の祈りをはじめました。多くの人が悔い改めないのに、なんで「あなたをほめたたえます」なんて言うんでしょう。
その理由として、「これらのことを、知恵ある者や賢い者には隠して、幼子たちに現してくださいました」と言っていますね。ここで言う、「知恵ある者や賢い者」とは、一律に、頭のいい人たちを指しているのはありません。そうではなくて、文脈に従えば、律法学者やパリサイ人と呼ばれる、当時の宗教指導者たちを指した言葉です。
彼らは、聖書を教える立場にありながら、実際は聖書より、人が教えた「言い伝え」を重んじていました。これ、神の目からはアウトです。なぜなら、神の教えより、人の教えを重んじるなら、人が神の上に立つことになりますね。でもそれは思い上がりです。なので彼らは、聖書の予告どおりにキリストが来ても、救い主だと認めることが出来ませんでした。これが、「知恵ある者や賢い者には隠して」という言葉の意味するところです。
それに対して、「幼子たち」とは、イエス・キリストを素直に救い主と信じた人たちです。なので、「神より上に立とうとした人たちには、神はその姿を隠した一方、神の前にへりくだる人たちには、神はキリストを通してその姿を現された」というわけです。もう一度言います。神より上に立とうとする人には、神はその姿を隠す一方、神の前にへりくだる人には、神はキリストを通してその姿を現されるのです。これこそ、父なる神の「みこころにかなったこと」だと認め、こう続けます。
【マタイの福音書11:20~30】
11:27 すべてのことが、わたしの父からわたしに渡されています。父のほかに子を知っている者はなく、子と、子が父を現そうと心に定めた者のほかに、父を知っている者はだれもいません。
この言葉、爆弾発言です。まず、「すべてのことが、わたしの父からわたしに渡されています」と言っていますね。これは、イエス・キリストが、私たちに関わるすべてのことについて、天の父なる神から全権を委任されている、ということです。すなわち、キリストが父なる神と同じ権威を持つ、子なる神だと言っていることにほかなりません。
となると、キリストを、そのような救い主だと認めないのは、神を神と認めないのと同じです。であれば、多くの人は、キリストを救い主と認めない時点で、とんでもない間違いを犯していることになりますね。さあ、私たちはどうでしょう。
そして更に、「父のほかに子を知っている者はなく、子と、子が父を現そうと心に定めた者のほかに、父を知っている者はだれもいません」と言っています。これ、なにを言いたいかというと、「天の父なる神を知っているのはキリストだけなので、イエス・キリストが認めた人しか、神を知ることは出来ない」というのです。ということは、神を知ることが出来るのは、キリストが「幼子」と呼んでいる人だけだとわかります。
となれば、私たちが「知恵ある者や賢い者」のように、神より上の立場に立って、自分の考えをめぐらしているうちは、神を知ることはできません。一方で、私たちが「幼子」のように、聖書の言葉に素直に向き合うなら、神がキリストを通して、ご自分を示される、というのが結論です。もう一度言います。私たちが「幼子」のように、聖書の言葉に素直に向き合うなら、神がご自分を示されるのです。これを踏まえて、今日の最後の言葉です。
疲れた人、重荷を負っている人へ
【マタイの福音書11:20~30】
11:28 すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」
「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」ときました。この言葉、ほっとしますね。疲れたら、荷物が重かったら、私のもとに来なさい、私が休ませるから、とキリストが招いています。そして、「わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい」と言います。どういう意味でしょう。
ここで出て来る「くびき」とは、牛や馬が、荷物を運んだり、畑ですきを引いたりするときに、頸にかける横木のことです。それも、一頭ではなく、二頭立ての横木で、それを、キリストと私たちが並んで負うというイメージです。
その際、キリスト自身が「柔和でへりくだっているから」、私たちも柔和になり、へりくだるようすすめています。そして、人の教えではなく、神が教えた聖書の言葉に耳を傾け、その予告どおりに来たキリストから学びなさい、というわけです。言い換えれば、上から目線にならず、神の前にへりくだりなさい、というのですね。「そうすれば、たましいに安らぎを得ます」と約束しています。
そして最後に、「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです」とあります。さあそこで、私たちがキリストと共に、二頭立ての「くびき」を負ったとします。その際、私たちがキリストと共にへりくだって頸をたれれば、横木を通すのは簡単ですね。それにキリストと一緒なら、その分荷物も軽くなるでしょう。
でももし、私たちがへりくだらずに、頸を高く上げていたら、へりくだったキリストと同じ「くびき」を負えるでしょうか。負えません。そうなると、私たちは相変わらず、一人で重荷を負い続けるしかありません。実はそれが、今の私たちの姿です。なのでキリストは、そんな「知恵ある者や賢い者」のようにではなく、「幼子」のようになって、「わたしのもとに来なさい」と促しているのです。
さあ、そこで私たちも、今背負っている重荷をキリストの前に下ろして、休もうではありませんか。そうすれば、魂に安らぎを得るとキリストは約束しています。それにはまず、私たちが頸をたれて、神の前にへりくだることです。共にへりくだって、キリストから学びましょう。もう一度、キリストの招きの言葉を読んで終わります。
【マタイの福音書11:20~30】
11:28 すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
(2024.9.30)
