063_人が神を拒絶したら?
【マタイの福音書12:22~37】
12:22 そのとき、悪霊につかれて目が見えず、口もきけない人が連れて来られた。イエスが癒やされたので、その人はものを言い、目も見えるようになった。
12:23 群衆はみな驚いて言った。「もしかすると、この人がダビデの子なのではないだろうか。」
12:24 これを聞いたパリサイ人たちは言った。「この人が悪霊どもを追い出しているのは、ただ悪霊どものかしらベルゼブルによることだ。」
12:25 イエスは彼らの思いを知って言われた。「どんな国でも分裂して争えば荒れすたれ、どんな町でも家でも分裂して争えば立ち行きません。
12:26 もし、サタンがサタンを追い出しているのなら、仲間割れしたことになります。それなら、どのようにしてその国は立ち行くのですか。
12:27 また、もしわたしが、ベルゼブルによって悪霊どもを追い出しているとしたら、あなたがたの子らが追い出しているのは、だれによってなのですか。そういうわけで、あなたがたの子らが、あなたがたをさばく者となります。
12:28 しかし、わたしが神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです。
12:29 まず強い者を縛り上げるのでなければ、強い者の家に入って家財を奪い取ることが、どうしてできるでしょうか。縛り上げれば、その家を略奪できます。
12:30 わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしとともに集めない者は散らしているのです。
12:31 ですから、わたしはあなたがたに言います。人はどんな罪も冒涜も赦していただけますが、御霊に対する冒涜は赦されません。
12:32 また、人の子に逆らうことばを口にする者でも赦されます。しかし、聖霊に逆らうことを言う者は、この世でも次に来る世でも赦されません。
12:33 木を良いとし、その実も良いとするか、木を悪いとし、その実も悪いとするか、どちらかです。木の良し悪しはその実によって分かります。
12:34 まむしの子孫たち、おまえたち悪い者に、どうして良いことが言えますか。心に満ちていることを口が話すのです。
12:35 良い人は良い倉から良い物を取り出し、悪い者は悪い倉から悪い物を取り出します。
12:36 わたしはあなたがたに言います。人は、口にするあらゆる無益なことばについて、さばきの日に申し開きをしなければなりません。
12:37 あなたは自分のことばによって義とされ、また、自分のことばによって不義に定められるのです。」
今日は、イエス・キリストが当時の社会から公に拒絶され、それが時代の転換点となった、「ベルゼブル論争」と呼ばれる事件を取り上げます。
ベルゼブル論争
【マタイの福音書12:22~37】
12:22 そのとき、悪霊につかれて目が見えず、口もきけない人が連れて来られた。イエスが癒やされたので、その人はものを言い、目も見えるようになった。群衆はみな驚いて言った。「もしかすると、この人がダビデの子なのではないだろうか。」
キリストの前に、「悪霊につかれて目が見えず、口もきけない人」が連れて来られました。実は当時、「目が見えず、口もきけない人」を癒やすのは、救い主でなければ出来ないと考えられていました。すると、キリストがそれをやってのけたので、群集が驚いて、「この人がダビデの子なのではないだろうか」と騒ぎ始めたのです。
この「ダビデの子」とは、救い主を意味する慣用句です。なので、人々はこの癒やしを見て、このイエスこそ救い主かも知れないと思ったのですね。ところが、です。
【マタイの福音書12:22~37】
12:24 これを聞いたパリサイ人たちは言った。「この人が悪霊どもを追い出しているのは、ただ悪霊どものかしらベルゼブルによることだ。」
さあ、残念な言葉が飛び出しました。彼らはイエス・キリストを救い主と認めるどころか、この奇跡を「悪霊どものかしらベルゼブルによることだ」と断定したのです。これは、とんでもない侮辱です。このことは、マタイのほかにマルコも記録していて、マルコは、
【マルコの福音書3:22】
エルサレムから下って来た律法学者たちも、「彼はベルゼブルにつかれている」とか、「悪霊どものかしらによって、悪霊どもを追い出している」と言っていた。
と残しています。「エルサレムから下って来た律法学者たち」も言っていたということは、この判断が、当時の宗教指導者たちの公式な見解だったことを意味します。実際、ユダヤ教では、後に編纂された「タルムード」という経典に、「イエスは魔術を使って奇跡を行い、人々を惑わせた」とあるそうです。でもこれこそ、イエス・キリストが本当に存在して、奇跡を行っていた証拠だと言えますね。
というわけで、残念ながら、イスラエルに住むユダヤ人たちは、この時点で、民族的にも国家的にも、イエス・キリストを救い主とは認めないという、極めて重い判断を下してしまいました。この判断は今も変わっていません。そこで、キリストがこう指摘します。
【マタイの福音書12:22~37】
12:25 イエスは彼らの思いを知って言われた。「どんな国でも分裂して争えば荒れすたれ、どんな町でも家でも分裂して争えば立ち行きません。もし、サタンがサタンを追い出しているのなら、仲間割れしたことになります。それなら、どのようにしてその国は立ち行くのですか。また、もしわたしが、ベルゼブルによって悪霊どもを追い出しているとしたら、あなたがたの子らが追い出しているのは、だれによってなのですか。そういうわけで、あなたがたの子らが、あなたがたをさばく者となります。
ここで出て来る「サタン」とか「ベルゼブル」「悪霊ども」とは、全部「悪魔」の類を指す言葉です。そして当時は、ユダヤ人の中にも悪霊の追い出しをやる人がいたようですね。なので、悪魔が悪魔を追い出すなら、それは内輪もめで、もし私が悪魔なら、同じ追い出しをするあなたがたの同胞や、その内輪のあなたがたも悪魔になるではないか、というわけです。そしてこう言います。
【マタイの福音書12:22~37】
12:28 しかし、わたしが神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです。
キリストがもし、悪霊ではなく、神の霊によって悪魔を追い出しているとしたら、それはもう、あなたがたが待ち望んでいた「神の国」が来ていることなのですよ、わからないのですか、というわけです。それを説明するために、こんなたとえを語ります。
【マタイの福音書12:22~37】
12:29 まず強い者を縛り上げるのでなければ、強い者の家に入って家財を奪い取ることが、どうしてできるでしょうか。縛り上げれば、その家を略奪できます。わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしとともに集めない者は散らしているのです。
なんか物騒な話がはじまりましたが、それは先程の「ベルゼブル」という言葉が、「家の主人」という意味を持っているからです。なので、もし「家の主人」が悪霊のかしらなら、それを退治しないと、そこは「神の国」にはならないでしょう?それなのに、「神の国」をもたらすために来た私に敵対するなら、あなたがたこそ悪魔の味方ではないか、というわけです。そして彼らにこう宣言します。
【マタイの福音書12:22~37】
12:31 ですから、わたしはあなたがたに言います。人はどんな罪も冒涜も赦していただけますが、御霊に対する冒涜は赦されません。また、人の子に逆らうことばを口にする者でも赦されます。しかし、聖霊に逆らうことを言う者は、この世でも次に来る世でも赦されません。木を良いとし、その実も良いとするか、木を悪いとし、その実も悪いとするか、どちらかです。木の良し悪しはその実によって分かります。まむしの子孫たち、おまえたち悪い者に、どうして良いことが言えますか。心に満ちていることを口が話すのです。良い人は良い倉から良い物を取り出し、悪い者は悪い倉から悪い物を取り出します。わたしはあなたがたに言います。人は、口にするあらゆる無益なことばについて、さばきの日に申し開きをしなければなりません。あなたは自分のことばによって義とされ、また、自分のことばによって不義に定められるのです。」
さあ、大変な宣告が下されました。長いので、最後の、「あなたは自分のことばによって義とされ、また、自分のことばによって不義に定められるのです。」という一文に注目しましょう。キリストは、このことを言うために、丁寧な説明をしていますね。
すなわち、人間の口からは、心に満ちているものが出てくるので、良い思いがあれば良い言葉が出てくるし、悪い思いがあれば悪い言葉が出て来るというわけです。それが今回は、キリストを悪魔呼ばわりする、極めて悪い言葉だったのです。
そこでキリストは、「人はどんな罪も冒涜も赦していただけますが、御霊に対する冒涜は赦されません。また、人の子に逆らうことばを口にする者でも赦されます。しかし、聖霊に逆らうことを言う者は、この世でも次に来る世でも赦されません。」と警告します。
ここで出て来る「人の子」とはキリストのことです。従って、人がどんな罪を犯しても、また、ことキリストについて、当時の人々が何を言おうが、それは赦されるというのです。なぜなら、キリストのこんな言葉があります。
【ヨハネの福音書12:47】
だれか、わたしの言葉を聞いてそれを守らない者がいても、わたしはその人をさばきません。わたしが来たのは世をさばくためではなく、世を救うためだからです。
ありがたいですね。キリストは、世の罪人を救うために来たのだから、「わたしはその人をさばきません」というのです。でも一方で、「御霊に対する冒涜は赦されません」とか、「聖霊に逆らうことを言う者は、この世でも次に来る世でも赦されません」と言っていましたね。これは恐ろしい宣言です。なぜ赦されないんでしょう。
「三位一体」の神の働き
それは、ここで出て来る「御霊」とか「聖霊」が、父と子と聖霊という「三位一体」と呼ばれる神のうちの「聖霊なる神」を指していて、この「聖霊なる神」が、人間を救いに導く、最後の大事な役割を果たしているからです。
噛み砕いて言えば、聖書の神は唯一でありながら、その本質において、父と子と聖霊という三つの属性を持っていて、天におられる「父なる神」が計画したことを、この世に遣わされた「子なる神」であるキリストが実行し、見えない「聖霊なる神」がその計画を完成させているからです。
もう一度言います。聖書の神は唯一でありながら、父と子と聖霊という三つの属性を持っていて、父なる神が計画したことを、子なる神が実行し、聖霊なる神が完成させるのです。これが、人知を超えた、「三位一体」の神の働きです。
人々の拒絶と聖書の預言
このことがわかると、キリストがなぜ「聖霊に逆らったら赦されない」と言っているかがクリアになりますね。すなわち、キリストが行った奇跡は、人々を救いに導く、聖霊なる神の働きによったにもかかわらず、宗教指導者たちは、それを悪魔の働きだと決めつけたのです。ということは、彼らの救いを完成させる、聖霊なる神を、全否定したことにほかなりません。
これでは、せっかく父なる神が救いを計画し、子なる神が実行しても、救いようがありません。簡単に言えば、この時代のイスラエルの人々は、自ら救われることを拒否してしまったわけで、それは彼らが、公に神そのものを拒絶したに等しいのです。
そこでキリストは、この時代の人々に、「聖霊に逆らうことを言う者は、この世でも次に来る世でも赦されません」と宣告しました。その結果、彼らが待ち望んでいた「神の国」すなわち「次に来る世」の実現が、棚上げとなったのがこの瞬間です。もう一度言います。彼らが神を公に拒んだ結果、天の父なる神が計画していた「神の国」が延期されたのです。これがこの出来事の結末です。
なので、これ以降、キリストは、信じない人に奇跡を見せることはやめ、信じる人にだけ、ご自分が何者であるかを示していかれます。その果てに、当時の人々はキリストを十字架につけて殺した挙句、「この世でも」赦されないとキリストが宣告したとおり、紀元70年にイスラエルは国が滅び、世界中にユダヤ人たちが離散していったのです。
でもその結果、キリストの福音が世界中に伝えられ、今私たちにそれが伝えられています。そして驚くことに、1948年には再びイスラエルが建国されました。実は、これらもすべて聖書が予告していたことで、一度は拒否したユダヤ人たちも、やがてイエス・キリストこそ救い主だったと認める日が来ると聖書は予告しているのです。こうあります。
【旧約聖書・ゼカリヤ書12:10】
彼らは、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見て、ひとり子を失って嘆くかのように、その者のために嘆き、長子を失って激しく泣くかのように、その者のために激しく泣く。
ここで出て来る「自分たちが突き刺した者」こそ、十字架刑で突き刺されたイエス・キリストです。すなわち、今も民族的にイエス・キリストを拒絶し続けているユダヤ人たちも、いずれ、自分たちが殺したイエス・キリストが救い主だったと知って、泣いて悔い改める日が来るというわけです。これが聖書の預言です。
従って、私たちは聖書を通して、今も神が生きて働き、歴史が聖書の言葉どおりに実現しつつあるのを目の当たりにしているのです。それを垣間見たのが、「ベルゼブル論争」に端を発した、今日の聖書箇所です。ゆえに、「わたしが来たのは世をさばくためではなく、世を救うためだからです」という言葉を重く受け止め、キリストを信じ仰ごうではありませんか。
(2024.10.30)
