【キリストの足跡をたどる】065_神のみこころを行なうとは?

065_神のみこころを行なうとは?

【聖書】マタイの福音書12:46~50  
●イエス・キリストの誕生とその家族  
●イエスの家族の訪問  
●神のみこころを行う人  
●イエス・キリストの役割  
●私たちの役割    

【マタイの福音書12:46~50

12:46 イエスがまだ群衆に話しておられるとき、見よ、イエスの母と兄弟たちがイエスに話をしようとして、外に立っていた。

12:47 ある人がイエスに「ご覧ください。母上と兄弟方が、お話ししようと外に立っておられます」と言った。

12:48 イエスはそう言っている人に答えて、「わたしの母とはだれでしょうか。わたしの兄弟たちとはだれでしょうか」と言われた。

12:49 それから、イエスは弟子たちの方に手を伸ばして言われた。「見なさい。わたしの母、わたしの兄弟たちです。

12:50 だれでも天におられるわたしの父のみこころを行うなら、その人こそわたしの兄弟、姉妹、母なのです。」

今日は、イエス・キリストのもとに、母マリアや兄弟たちがきたシーンを取り上げます。そもそも、イエス・キリストに兄弟がいたことをご存知でしたでしょうか。そこで、本文に先立ち、キリストの誕生とその家族について、簡単に触れておきたいと思います。

イエス・キリストの誕生とその家族

聖書は、当時まだ処女であったマリアという女性に、聖霊と呼ばれる神の力が働いて、キリストが産まれたと説明しています。なので、イエス・キリストの母親はマリアですが、肉体的な意味での、人間の父親は存在しません。これが、科学では説明がつかない、マリアの「処女懐胎」と呼ばれる出来事です。

でも、救い主が処女から産まれるということは、はるか昔から予告されていて、キリストが産まれる前に書かれた旧約聖書には、こうありました。

【旧約聖書・イザヤ書7:14】
それゆえ、主は自ら、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。

すなわち、救い主がこの世に登場する時は、主と呼ばれる聖書の神が、処女を身ごもらせると約束していたのです。それがこの時代のマリアという女性の身に起こったので、福音書を書いたマタイは、その顛末をこう説明しています。

【マタイの福音書1:22~23】
このすべての出来事は、主が預言者を通して語られたことが成就するためであった。「見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」それは、訳すと「神が私たちと共におられる」という意味である。

というわけでマタイは、マリアの「処女懐胎」によって産まれたイエスこそ、旧約聖書が予告していた救い主だと説明しているのです。

そしてこのことから、イエス・キリストは、マリアから産まれた、完全なる人であると共に、聖霊と呼ばれる神の働きによって産まれた、完全なる神だと説明することが出来ます。もう一度言います。キリストは、人から産まれた完全なる人であり、聖霊によって産まれた完全なる神だというのが、聖書全体から読み取れる結論です。

なので、イエス・キリストは、天の父なる神が、子なる神をこの世に送ると計画したことを、聖霊なる神が完成させるという、三位一体と呼ばれる属性を持つ、神の総力によって誕生したのです。それが、人知を超えた、マリアの「処女懐胎」の本質です。ゆえにこのことは、決して軽んじられたり、卑しめられてはなりません。

一方、イエスを産んだ母マリアは、その後、ヨセフという男性と結婚し、ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダといった男の子や、何人かの女の子をもうけたことが聖書からわかります。従って、母マリアの血縁から見れば、イエスには複数の弟や妹がいたわけです。今日は、この人たちが登場します。では、本文を読んでいきましょう。

イエスの家族の訪問

【マタイの福音書12:46~50】
12:46 イエスがまだ群衆に話しておられるとき、見よ、イエスの母と兄弟たちがイエスに話をしようとして、外に立っていた。ある人がイエスに「ご覧ください。母上と兄弟方が、お話ししようと外に立っておられます」と言った。

キリストが群衆を相手にしている時に、マリアと兄弟たちがやって来ました。実はこの背景について、福音書の記者の一人であるマルコは、こう記録しています。

【マルコの福音書3:21】
イエスの身内の者たちはイエスを連れ戻しに出かけた。人々が「イエスはおかしくなった」と言っていたからである。

どうやら、マリアと兄弟たちは、イエスがおかしくなったと思っていたんですね。でも、それは無理もないことで、実は当時の宗教指導者たちが、イエスは救い主ではないと断定して以降、イエスは、信じない人には理解できない、たとえ話ばかり話すようになっていたのです。それで世間が「イエスはおかしくなった」と騒ぎ出したので、心配した家族が連れ戻しに来たのですね。では続きです。

【マタイの福音書12:46~50】
12:48 イエスはそう言っている人に答えて、「わたしの母とはだれでしょうか。わたしの兄弟たちとはだれでしょうか」と言われた。

「わたしの母」「兄弟たちとはだれでしょうか」ときました。もしこれを家族に言っていたなら、ものすごく冷たい言葉です。でもこれは、外の家族にではなく、それを知らせてくれた、部屋の中の人に語った言葉です。なので、イエス・キリストは決して家族を門前払いしたのではありません。そうではなくて、目に見える家族が来たのきっかけに、目に見えない霊的な意味での「神の家族」というものを、人々に教えていかれるのです。それが、次のくだりです。

神のみこころを行う人

【マタイの福音書12:46~50】
3:34 そして、ご自分の周りに座っている人たちを見回して言われた。「ご覧なさい。わたしの母、わたしの兄弟です。だれでも神のみこころを行う人、その人がわたしの兄弟、姉妹、母なのです。」

さあ、キリストは「ご自分の周りに座っている人たちを見回して」、この人たちこそ「わたしの母、わたしの兄弟」すなわち、私の家族だと言いました。この「ご自分の周りに座っている人たち」とは、イエス・キリストを救い主と信じて従って来た人たちです。彼らこそ、私の家族だというわけです。

そして、「だれでも神のみこころを行う人」が私の家族だと結論付けました。「神のみこころ」とは、神の思いや計画のことですね。となると、「神のみこころを行う人」とは、この文脈からは、イエス・キリストを救い主と信じて従う人だと読み取れますね。ちなみに、「神のみこころ」については、キリストがこんなことを言っています。

【ヨハネの福音書6:38~40】
わたしが天から下って来たのは、自分の思いを行うためではなく、わたしを遣わされた方のみこころを行うためです。わたしを遣わされた方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしが一人も失うことなく、終わりの日によみがえらせることです。わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持ち、わたしがその人を終わりの日によみがえらせることなのです。

まず、キリストが「天から下って来たのは」、キリストを「遣わされた方のみこころを行うため」だと言っていますね。すなわち、マリアに「処女懐胎」までさせてキリストが来たのは、天の父なる神の計画を実行するためだというわけです。

そして、その計画とは、「子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持ち、わたしがその人を終わりの日によみがえらせること」だと言っています。すなわち、子なる神であるイエス・キリストを救い主だと信じる人たちに、永遠の命を持たせて、この世の終わりにその人たちをよみがえらせ、永遠に生きる者とするのが、天の父なる神の計画だというのです。

なんか、すごい話になっていますね。そこで、この「神のみこころ」が実現する上での、キリストと私たちの役割を整理しておきましょう。

イエス・キリストの役割

まず、イエス・キリストの役割は、キリストを救い主だと信じる人たちに、永遠の命を持たせて、終わりの日によみがえらせることですね。でもそのためには、それを妨げている問題が解決されねばなりません。それは、人間が持っている「罪」が清算されることだと、聖書は言うのです。なぜなら、聖書は

【ローマ人への手紙3:23】
すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、

更に、

【ローマ人への手紙6:23】
罪の報酬は死です。

と断言しているからです。この前提に立てば、人は誰もが罪人として死なねばならないので、キリストが言う「永遠のいのち」など、誰も持つことは出来ません。そこで天の父なる神は、私たちの罪を清算することを計画されました。その計画とは、罪のない救い主が、私たちの罪を肩代わりして死ぬことで、それを信じる私たちを赦し、「永遠のいのち」を与えるというものだったのです。

ただし、これを実現するには、救い主が、罪のない神であると同時に、死ぬことが出来る人でなくてはなりません。なぜなら、罪がある人間では、誰も罪を肩代わりできない一方、罪のない神は永遠に存在するゆえに、神のままでは死ねないからです。ゆえに、救い主はどうしても、死ぬ人であると同時に、罪のない神でなくてはなりません。

そこで、このジレンマを解決するために、聖霊の働きによる「処女懐胎」を通して生まれたのが、完全なる人であり、完全なる神であるイエス・キリストです。その誕生をお祝いするのがクリスマスで、このキリストが、人類の罪を背負って死なれたゆえに、それを信じる者は罪が赦され、「永遠のいのち」を持つというのが、聖書の約束です。こうあります。

【ヨハネの福音書3:16】
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

ゆえに、「神のみこころ」を行う上での、イエス・キリストの役割とは、私たちの全ての罪を贖うために、十字架に架かって死ぬことだったのです。

私たちの役割

では、この事実を踏まえた私たちの役割はなんでしょう。それは、「子を見て信じる者」と言われているとおり、私たちの罪を贖うために、本当に十字架に架かって死なれたイエス・キリストを、救い主と信じることです。それが、私たちが「神のみこころを行う」ということで、そんな私たちを、家族として迎えようというのが、今日のキリストの招きです。そこで私たちも、共にキリストを信じて、神の家族に加えていただこうではありませんか。

(2024.11.30)

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