067_種蒔きのたとえってなに?
【マタイの福音書13:3~23より抜粋】
13:3 イエスは彼らに、多くのことをたとえで語られた。「見よ。種を蒔く人が種蒔きに出かけた。
13:4 蒔いていると、種がいくつか道端に落ちた。すると鳥が来て食べてしまった。
13:5 また、別の種は土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったので、すぐに芽を出した。
13:6 しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。
13:7 また、別の種は茨の間に落ちたが、茨が伸びてふさいでしまった。
13:8 また、別の種は良い地に落ちて実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍になった。
13:9 耳のある者は聞きなさい。」
~中略~
13:11 イエスは答えられた。「あなたがたには天の御国の奥義を知ることが許されていますが、あの人たちには許されていません。
13:12 持っている人は与えられてもっと豊かになり、持っていない人は持っているものまで取り上げられるのです。
13:13 わたしが彼らにたとえで話すのは、彼らが見てはいるが見ず、聞いてはいるが聞かず、悟ることもしないからです。
~中略~
13:18 ですから、種を蒔く人のたとえを聞きなさい。
13:19 だれでも御国のことばを聞いて悟らないと、悪い者が来て、その人の心に蒔かれたものを奪います。道端に蒔かれたものとは、このような人のことです。
13:20 また岩地に蒔かれたものとは、みことばを聞くと、すぐに喜んで受け入れる人のことです。
13:21 しかし自分の中に根がなく、しばらく続くだけで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。
13:22 茨の中に蒔かれたものとは、みことばを聞くが、この世の思い煩いと富の誘惑がみことばをふさぐため、実を結ばない人のことです。
13:23 良い地に蒔かれたものとは、みことばを聞いて悟る人のことです。本当に実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びます。」
今日から、キリストが人々に語った多くのたとえを紐解きます。なぜキリストがたとえを使って話すのか、そしてその内容が何なのかについては、キリストが弟子たちに、こう語っています。
たとえを用いて明かされること
【マタイの福音書13:11】
あなたがたには天の御国の奥義を知ることが許されていますが、あの人たちには許されていません。
すなわち、これから話すことは、今まで明かされていなかった「天の御国」、言い換えれば「神の国」に関する事なので、キリストを救い主と信じる人には、それを知ることが許されているが、信じない人たちには、知ること自体、許されていないのだ、というのです。なぜなら、
【マタイの福音書13:13】
わたしが彼らにたとえで話すのは、彼らが見てはいるが見ず、聞いてはいるが聞かず、悟ることもしないからです。
というのです。すなわち、この時に集まっていた群集の多くは、実は元々信じる気がなく、心の中で悟ろうともしないので、はじめからそのような心構えなら、語る意味がない、というわけです。
こうまで言い切る背景には、当時のユダヤ人たちが公にイエス・キリストを拒絶した出来事がありました。その結果、彼らが願っていた神の国の実現が棚上げとなり、キリストがもたらした福音も、ユダヤ人の間ではなく、異邦人たちの間に広がることになったのです。こうなることは、当時既にあった旧約聖書では、予告されていませんでした。
従って、これからはじまる一連のたとえは、実は全て、現代の私たちに関すること、すなわち、キリストが天に上げられてから今に至るまで、主に私たち異邦人の間に広がった、キリスト教世界がどんなものかが、預言的に語られたものなのです。
それをキリストは、今まで明かされることのなかった「天の御国の奥義」と呼んで、当時の人々にとって未来のことを、たとえを使って明かしていくのです。この点を踏まえて、まずは「種蒔きのたとえ」と呼ばれるたとえを紐解きます。聖書箇所は、
種蒔きのたとえ
【マタイの福音書13:3~9】
13:3 イエスは彼らに、多くのことをたとえで語られた。「見よ。種を蒔く人が種蒔きに出かけた。蒔いていると、種がいくつか道端に落ちた。すると鳥が来て食べてしまった。また、別の種は土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったので、すぐに芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。また、別の種は茨の間に落ちたが、茨が伸びてふさいでしまった。また、別の種は良い地に落ちて実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍になった。耳のある者は聞きなさい。」
種が落ちた土壌によって結果が違うという、あたりまえのような話ですね。なので、群集はそこに込められた本当の意味がわからず、それが何だ、と思ったわけです。
そこでキリストは、キリストを救い主と信じて従って来た人たちにだけ、このたとえの真意を明かします。まずは「道端に落ちた種」についてです。このたとえは、
道端に落ちた種
【マタイの福音書13:3~9】
13:3 「見よ。種を蒔く人が種蒔きに出かけた。 蒔いていると、種がいくつか道端に落ちた。すると鳥が来て食べてしまった。
というものでした。これについて、キリストがこう解き明かします。
【マタイの福音書13:18~23】
13:18 ですから、種を蒔く人のたとえを聞きなさい。だれでも御国のことばを聞いて悟らないと、悪い者が来て、その人の心に蒔かれたものを奪います。道端に蒔かれたものとは、このような人のことです。
実はこの「種」は、「御国のことば」すなわち、「みことば」とも呼ばれる「神の言葉」のことだったのですね。言い換えれば、聖書や、そこに書かれたキリストの「福音」と呼ばれる「良い知らせ」のことです。それが「道端に落ちた」とは、踏み固められた硬い地面に落ちたわけです。これが実は、「みことば」を聞いた人の、心の状態だというのです。なのでこのケースは「みことばを聞いても悟らない人」を指しているとわかります。
ゆえに、「みことば」が蒔かれてもそのままだと、悪者が来て奪い去るのです。それを「鳥が来て食べてしまった」と表現しています。このように、「みことばを聞いても信じない人」、言い換えれば「キリストの福音を拒絶する人」を、「道端」にたとえているのです。では次は、「岩地に落ちた種」です。
岩地に落ちた種
【マタイの福音書13:3~9】
13:5 また、別の種は土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったので、すぐに芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。
今度は、表面が土でも、すぐ下が硬い「岩地」に落ちました。なので、種から芽が出ても、土壌が浅くて枯れてしまうのです。それについて、こう解き明かします。
【マタイの福音書13:18~23】
13:20 また岩地に蒔かれたものとは、みことばを聞くと、すぐに喜んで受け入れる人のことです。しかし自分の中に根がなく、しばらく続くだけで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。
一般的に、愛に溢れた聖書の言葉を快く受け入れる人は多いのですが、世間は、そんなに肯定的な人たちばかりではありません。ゆえに、周りの反対や迫害があると、信じることをあきらめたり、気持ちが冷めてしまったりするのです。
このように、「みことばを受け入れても続かない人」、言い換えれば「キリストの福音が根付かない人」のことを、「岩地に落ちた種」にたとえているのです。では次に、「茨の間に落ちた種」です。
茨の間に落ちた種
【マタイの福音書13:3~9】
13:7 また、別の種は茨の間に落ちたが、茨が伸びてふさいでしまった。
今度は、地の上を茨が覆っていますね。そんな状態を、こう説明します。
【マタイの福音書13:18~23】
13:22 茨の中に蒔かれたものとは、みことばを聞くが、この世の思い煩いと富の誘惑がみことばをふさぐため、実を結ばない人のことです。
この人は、今でいえば、教会に行ったり、聖書の言葉を聞いてはいるけれども、一歩社会に出ると、身の回りのことで頭がいっぱいになったり、世間の誘惑に負けてしまう人、と言えるでしょうか。
となると、信じてもその信仰がなかなか成長しないので、結果として、周りに良い感化を与えることはあまり期待できません。このように「みことばを聞いても成長しない人」、言い換えれば、「キリストの福音より、ほかの事を優先してしまう人」のことを、「茨の間に落ちた種」にたとえているのです。
それに対して、四番目の種は、「良い地に落ちた種」です。
良い地に落ちた種
【マタイの福音書13:3~9】
13:8 また、別の種は良い地に落ちて実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍になった。耳のある者は聞きなさい。」
この種は、良い土壌に落ちて成長し、大きな収穫をもたらしたというのです。それについてキリストはこう説明します。
【マタイの福音書13:18~23】
13:23 良い地に蒔かれたものとは、みことばを聞いて悟る人のことです。本当に実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びます。」
もう解説をはさむ必要もありません。この人は、「みことばを聞いて悟る人」すなわち、聖書の言葉を素直に受け入れ、「キリストを救い主と信じてその教えに素直に従った人」のことです。そのような人は、本当に大きな実を結ぶというのです。
事実、新約聖書の「使徒の働き」、共同訳では「使徒言行録」という書物に、キリストが天に上げられた後、キリストの福音が世界中に広がる様が記録されています。それはまさに、30倍、60倍、100倍の実を結んだ、良い地に蒔かれた種の記録にほかなりません。そしてその先にあるのが今のキリスト教世界です。これが「種蒔きのたとえ」の全容です。
私たちへの教訓
なお、これらのたとえは、私たち人間の移ろいやすい心のうちを、よく表わしてるようにも見えますね。すなわち、人は普段、神に心を閉ざしているかと思えば、ふとすがりたくなったり、その一方で世間に心奪われたりと、折々で揺らいでいるのが実際です。その有様を土壌にたとえた上で、信じて従う人に対しては、たとえ時が良くても悪くても、忍耐強く福音の種を蒔き続けるよう、聖書は励ますのです。こうあります。
【テモテへの手紙第二4:2】
みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。忍耐の限りを尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。
そして福音の種が落ちた時、それを受け止めた私たちはどうしたらよいか、聖書はこう勧めています。
【旧約聖書・詩篇95:7~8】
今日、もし御声を聞くなら、あなたがたの心を頑なにしてはならない。
この言葉こそ、神が私たちに求めている心のあり方です。ゆえに願わくは、あなたが、キリストのもたらした良い知らせ、福音に触れた時、その心のうちが、硬い道端のようではなく、やわらかく整えられた良い地でありますよう、お祈りします。解いていきましょう。
(2024.12.24)