【キリストの足跡をたどる】071_天の御国の奥義とは?

071_天の御国の奥義とは?

【聖書】マタイの福音書13:47~52 
●網のたとえ 
●一家の主人のたとえ 
● 天の御国の奥義のたとえのまとめ 

【マタイの福音書13:47~52】
13:47 また、天の御国は、海に投げ入れてあらゆる種類の魚を集める網のようなものです。
13:48 網がいっぱいになると、人々はそれを岸に引き上げ、座って、良いものは入れ物に入れ、悪いものは外に投げ捨てます。
13:49 この世の終わりにもそのようになります。御使いたちが来て、正しい者たちの中から悪い者どもをより分け、
13:50 火の燃える炉に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。
13:51 あなたがたは、これらのことがみな分かりましたか。」彼らは「はい」と言った。
13:52 そこでイエスは言われた。「こういうわけで、天の御国の弟子となった学者はみな、自分の倉から新しい物と古い物を取り出す、一家の主人のようです。」

長らく紐解いてきたキリストによるたとえ話も、今回で一区切りを迎えます。これら一連のたとえは、現代の私たちに関すること、すなわち、キリストが天に上げられてから広がったキリスト教世界の有様を、預言的に教えたものです。それをキリストは、「天の御国の奥義」と呼んで、当時の人々にとって未来のことを、たとえを使って明かしたのでした。そこで今回は、最後の二つのたとえを概観した後、全体のおさらいをしたいと思います。まずは、私たちにとっても未来のことが語られる「網のたとえ」です。

網のたとえ

【マタイの福音書13:47~52】
13:47 また、天の御国は、海に投げ入れてあらゆる種類の魚を集める網のようなものです。網がいっぱいになると、人々はそれを岸に引き上げ、座って、良いものは入れ物に入れ、悪いものは外に投げ捨てます。

漁師が海で魚を獲っていますね。ただしこの話は、イスラエル北部のガリラヤと呼ばれる地域で話されたものです。そこには、ガリラヤ湖と呼ばれる湖があって、地元の人々はそれを海と呼んでいました。なので、これを聞いていた人々は、ガリラヤ湖での漁が目に浮かんだと思われます。

そして網を陸に引き上げると、種々雑多な魚が獲れるのですね。なので、食べられるものと食べられないもの、すなわち、「良いものは入れ物に入れ、悪いものは外に投げ捨て」るというわけです。これについて、キリストはこう説明します。

【マタイの福音書13:47~52】
13:49 この世の終わりにもそのようになります。御使いたちが来て、正しい者たちの中から悪い者どもをより分け、火の燃える炉に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。

実はかなり恐ろしいたとえだったんですね。まず、この漁で「網がいっぱいになる」とは、「この世の終わり」を意味していたとわかります。そして、「良いもの」とか「悪いもの」とは、私たちのことで、この世が終わる時に、「悪い者どもをより分け、火の燃える炉に投げ込」むというわけです。簡単に言えば、世界の終わりに神の裁きがあるのです。

となると、しばらく前にキリストが語っていた「毒麦のたとえ」と似ていないでしょうか。「毒麦のたとえ」とは、良い麦と共に育った毒麦を、収穫の時により分けるというものでした。その内実を、キリストはこう解説していました。

【マタイの福音書13:37~42】
良い種を蒔く人は人の子です。畑は世界で、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らです。毒麦を蒔いた敵は悪魔であり、収穫は世の終わり、刈る者は御使いたちです。ですから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりにもそのようになります。人の子は御使いたちを遣わします。彼らは、すべてのつまずきと、不法を行う者たちを御国から取り集めて、火の燃える炉の中に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。

今日のたとえとよく似ていますね。ただ違いは、「世界」を表わしていた「畑」が、今回は「海」で、収穫されるのが「あらゆる種類の魚」だということです。となると、前回ご紹介した、「畑に隠された宝のたとえ」「高価な真珠のたとえ」で得られた知見が生きてくることにお気付きでしょうか。

そこでおさらいですが、それらのたとえでは、「畑に隠された宝」がユダヤ人で、「高価な真珠」は異邦人を表わしていました。その根拠は、聖書の中で「宝」という言葉が象徴的に使われたら、それはユダヤ人を指していた一方、真珠が育つ「海」は、ユダヤ人から見れば、異邦人の住む世界を象徴していたからです。

そして、これは予備的なことですが、ユダヤ人は民族的に、ユダヤ人ならユダヤ教に属するものだという自己認識があるので、彼らにとって、ユダヤ教が救い主と認めていない、イエス・キリストを信じるなど、実は今でもありえないことなのです。

なので、そうした事情を鑑みれば、前回触れた「畑に隠された宝」とは、世界中に離散していたり、イスラエルというユダヤ教国家に身を置きながら、隠れてイエス・キリストを救い主と信じているユダヤ人だとわかります。繰り返します。「畑に隠された宝」とは、彼らが置かれた社会の中で、隠れてイエス・キリストを救い主と信じているユダヤ人です。

そして、このたとえと対になっていた「高価な真珠」とは、彼らから見た異邦人世界の中で、同じくイエス・キリストを救い主と信じた異邦人、すなわち私たちのことだというわけです。「高価な真珠」は、イエス・キリストを救い主と信じた私たち異邦人です。

こうしたたとえを援用すると、キリストが今回、網を「海に投げ入れてあらゆる種類の魚を集める」と言っている、「海」とは、キリスト教が広がった異邦人世界のことで、「あらゆる種類の魚」とは、そこに住んでいる、私たち異邦人のことだとわかります。

ゆえに、この「網のたとえ」は、世界中のあらゆる人々の中から、イエス・キリストを救い主と信じて従う人々と、そうでない人々とがより分けられ、信じなかった人々が火の燃える炉に投げ込まれると教えているのです。こうした神の裁きが、今の世界が終わる時に起こることを、キリストがたとえを使って知らせたのです。

そこで私たちは、この世界には終わりがあり、終わりのときに私たちを裁く、神が存在していることを、まず認めようではありませんか。その上で、その神が語った聖書の言葉に、素直に耳を傾けることが第一歩です。この点を押さえた上で、続きです。

一家の主人のたとえ

【マタイの福音書13:47~52】
13:51 あなたがたは、これらのことがみな分かりましたか。」彼らは「はい」と言った。そこでイエスは言われた。「こういうわけで、天の御国の弟子となった学者はみな、自分の倉から新しい物と古い物を取り出す、一家の主人のようです。」

キリストは、この話を聞いていた、イエス・キリストを救い主と信じる人たちに対して、「これらのことがみな分かりましたか」と尋ねました。それに対して、彼らは「はい」と答えましたが、まあどこまで理解できていたかは疑問です。それは致し方ありませんが、キリストはそれも全てお見通しの上で、「天の御国の弟子となった学者はみな、自分の倉から新しい物と古い物を取り出す、一家の主人のようです」と彼らを励ましたのです。

すなわち、キリストが天に上げられた後の世界で、イエス・キリストを救い主と信じて学んだ人たちは、既にある旧約聖書の教えと共に、後に新約聖書に収められることになる、キリストの福音を土台に据えた、家の主人のようになるというわけです。これが、新約聖書と旧約聖書を正典とした、正しいキリスト教を信じる「一家の主人のたとえ」です。

なのでキリストは、今は理解できなくとも、いずれこれらを悟る日が来ることを見越して、当時の人々の記憶に残るよう、たとえで未来のことを語られたのでした。それがこれら、「天の御国の奥義」と呼ばれる、一連のたとえです。

天の御国の奥義のたとえのまとめ

では最後に、これまでに挙げられたたとえを、簡単におさらいしておきましょう。

まず前提として、「天の御国の奥義」とは、キリストが天に上げられてから広がるキリスト教世界のことで、その有様を預言的に教えたのが、これら一連のたとえでした。

そして一つ目は、「種蒔きのたとえ」で、キリストがもたらした福音が人々に伝わると、それを拒絶したり、聞いても根付かない人がいる一方、素直に信じて従った人の信仰は成長し、多くの実を結ぶというものでした。そしてそれは、人の努力ではなく、聖霊なる神の働きによることを教えていたのが、マルコの残した「種のたとえ」でした。

ただし、この世界では、キリストがもたらした福音とは異なる教えを説く人々も登場し、それらの教えが、正しい教えと共に広がることを警告したのが、「毒麦のたとえ」です。そしてそれらが、キリスト教世界の一角を占めたり、キリスト教会自体も、多かれ少なかれ、誤りや偽善をはらみつつ成長していく様を描いたのが、「からし種のたとえ」や、「パン種のたとえ」でした。

実は、このようなキリスト教世界は、異邦人の間に広がった一方、ユダヤ人たちは、国が滅び、キリストを認めないユダヤ教のアイデンティティを持ったまま、世界中に離散してしまいます。でも、そうした中から、隠れてキリストを信じるユダヤ人たちが起こされ、異邦人と同様に救われることを描いたのが、先程触れた、「畑に隠された宝のたとえ」「高価な真珠のたとえ」です。そしてそんな人々のために、キリストは喜んで自分の命を差し出すと明かしたのでした。

そして、この世界がやがて終わりを迎える様子を描いたのが、今日の「網のたとえ」です。その日は、イエス・キリストを救い主と信じる人と、そうでない人とがより分けられて裁かれる、厳かな裁きの日となるのです。

こうしたたとえを裏付けるように広がったのが、現代のキリスト教世界です。ゆえに、当時既に成文化されていた旧約聖書の知見と共に、後に新約聖書に収められる福音の全貌を悟った人を、キリストが「学者」と呼んで励ましたのが、「一家の主人のたとえ」です。

以上が、イエス・キリストの明かした、世界の終わりに至るまでの、キリスト教世界の有様です。聖書はそれを、こう表現しています。

【マタイの福音書13:35】
「私は口を開いて、たとえ話を、世界の基が据えられたときから隠されていることを語ろう。」

この「世界の基が据えられたときから隠されて」いたことこそ、当時の人々にとって未知のことだった、現代のキリスト教世界です。それをキリストはたとえを用いて、預言的に教えたのでした。これが「天の御国の奥義」の全貌です。

でもこの世界は、所詮罪ある不完全な人間が織り成しているので、残念ながら、誤りや偽善も内包しています。だからこそ、私たちにはなおさら、罪の赦しと神の救いが必要です。このことを謙虚に受け止め、そんな私たちを救い出すために、この世界に来て、命を差し出したイエス・キリストを、あなたも是非、救い主と信じ仰ごうではありませんか。

(2025.2.28)

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