077_収穫は多い?
【マタイの福音書9:35~10:4】
9:35 それからイエスは、すべての町や村を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいを癒やされた。
9:36 また、群衆を見て深くあわれまれた。彼らが羊飼いのいない羊の群れのように、弱り果てて倒れていたからである。
9:37 そこでイエスは弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。
9:38 だから、収穫の主に、ご自分の収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。」
10:1 イエスは十二弟子を呼んで、汚れた霊どもを制する権威をお授けになった。霊どもを追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいを癒やすためであった。
10:2 十二使徒の名は次のとおりである。まず、ペテロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、
10:3 ピリポとバルトロマイ、トマスと取税人マタイ、アルパヨの子ヤコブとタダイ、
10:4 熱心党のシモンと、イエスを裏切ったイスカリオテのユダである。
これまで長きに亘って、イエス・キリストはひとりで権威ある言葉を語り、様々な奇跡を起こして、ご自分が旧約聖書で予告されていた救い主であることを示してこられました。そして弟子たちはそれを目撃し、キリストから直接その教えを学んできました。
そこでいよいよ、キリストは彼らを、宣教のために派遣しようと企図します。今日はそれに至る場面を紐解きます。
教育・宣教・医療
【マタイの福音書9:35~10:4】
9:35 それからイエスは、すべての町や村を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいを癒やされた。
冒頭で、イエス・キリストは「すべての町や村を巡っ」たとあります。この「すべての町や村」とは、文脈に従えば、イスラエル北部のガリラヤ地方一帯のことです。そこで、「教え」「宣べ伝え」「癒やされた」のですね。実はこれらのことこそ、その後のキリスト教が注力してきた柱です。すなわち、教育・宣教・医療の三つです。
事実、日本でも、教会のみならず、キリスト教精神に基く学校や病院が沢山ありますね。その原点こそ、「イエスは、すべての町や村を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいを癒やされた」とある、この聖書箇所です。
羊飼いのいない羊の群れ
【マタイの福音書9:35~10:4】
9:36 また、群衆を見て深くあわれまれた。彼らが羊飼いのいない羊の群れのように、弱り果てて倒れていたからである。
キリストが「群衆を見て深くあわれまれた」のですね。この「深くあわれまれた」という言葉は、ギリシャ語では、「はらわたがよじれる」とでもいうほどに、キリストの激しい心の痛みを示す、特別な用語です。なぜなら、「彼らが羊飼いのいない羊の群れのように、弱り果てて倒れていたから」だというのです。
「羊飼い」や「羊」もよく聖書に出て来ます。これは、元々ユダヤ人たちが羊飼いで、羊が彼らの生活に欠かせない動物だったからです。そこで聖書では、羊が素直でおとなしい一方、愚かで弱く、迷いやすい動物として描かれるのです。なので、そんな羊を守るには、羊飼いが欠かせません。それが当時の状況と重なりました。
具体的には、当時のユダヤ人たちは、ローマ帝国の支配下にあって、自分たちのよき羊飼いとなる、聖書で予告されていた救い主が来ることを待ち望んでいました。そしてその予告どおり登場したのが、イエス・キリストでした。けれども、時の宗教指導者たちは、残念ながら、イエス・キリストを救い主とは認めませんでした。それどころか、キリストを悪魔呼ばわりしたのです。それが、今日の聖書箇所の直前にある、宗教指導者たちのこの言葉です。
【マタイの福音書9:34】
「彼は悪霊どものかしらによって悪霊どもを追い出しているのだ。」
「悪霊どものかしら」とはひどい侮辱ですね。一方で彼らは、聖書にない、細かな規則を次々と作り出し、民衆にそれを守るよう強いていました。でもそれがかえって、人々を聖書に書かれた救いから遠ざけていたのです。なのでキリストは、彼らをこう糾弾しています。
【マタイの福音書23:13】
わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。お前たちは人々の前で天の御国を閉ざしている。おまえたち自身も入らず、入ろうとしている人も入らせない。
このとおり、本来であれば人々を「天の御国」、すなわち、神が私たちと共にいる「神の国」へと導くべき宗教指導者たちが、その道を閉ざして人々を入らせないどころか、自分たちも入らなかったというのですね。言い換えれば、彼らは余計な規則や儀式ばかり重んじて、信仰が形骸化していたのです。
となると、彼らから教わっていた民衆は、とんだ災難です。人々が「神の国」に入りたい、「救い主」を仰ぎたいと思っていても、宗教指導者たちがその道を閉ざしていたので、人々はどうしていいかわかりませんでした。それがまるで、「羊飼いのいない羊の群れのように、弱り果てて倒れていた」かのようだったわけです。
なので、イエス・キリストが彼らに一貫して伝えていたのは、「御国の福音」すなわち、
【マタイの福音書4:17】
「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」
というものでした。この「悔い改めなさい」とは、「自分の罪を悔やんで反省する」という意味も勿論ありますが、本来は、「考えを改める」とか「方向を転換する」ことを意味します。
なのでキリストは、人がつくった規則ではなく、神が与えた聖書の言葉に素直に耳を傾けるよう、考えを改めなさい、そして、神に背中を向けるのではなく、聖書がいうとおりに来た私を信じるよう、方向を転換しなさい、なぜなら、神である私が人となって、あなたがたのもとに来たのだから、と促していたわけです。これが「御国の福音」の内実です。そしてこう言います。
働き手が少ない
【マタイの福音書9:35~10:4】
9:37 そこでイエスは弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、ご自分の収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。」
さあ、今日のテーマとなる言葉が出てきました。「収穫は多いが、働き手が少ない」です。まずはじめに、「働き手が少ない」という言葉に注目しましょう。
この「働き手」とは、文脈に従えば、「羊の群れ」にたとえられた当時の民衆を、「神の国」に導く、「羊飼い」の役割を果たす人にほかなりません。そこで弟子たちに、「働き手を送ってくださるように祈りなさい」と促す一方、キリストは彼らを「使徒」として遣わすべく、彼らに特別な権威を与えるのです。
十二使徒の派遣
【マタイの福音書9:35~10:4】
10:1 イエスは十二弟子を呼んで、汚れた霊どもを制する権威をお授けになった。霊どもを追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいを癒やすためであった。十二使徒の名は次のとおりである。まず、ペテロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、ピリポとバルトロマイ、トマスと取税人マタイ、アルパヨの子ヤコブとタダイ、熱心党のシモンと、イエスを裏切ったイスカリオテのユダである。
キリストから「使徒」に任命された12人が挙げられました。ここで改めて彼らの紹介はしませんが、この中で特に目を引くのは、最後に出て来る「イエスを裏切ったイスカリオテのユダ」です。彼は、イエス・キリストを銀貨30枚で売り渡し、十字架に架けて殺す手引きをした人物です。そんな彼も、この頃はキリストから「使徒」としての権威が与えられていたのです。
すなわち彼らには、イエス・キリストの名代であることが人々にもわかるよう、「霊どもを追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいを癒やす」特別な権威が与えられました。これが、初期の福音宣教の礎となるために与えられた、使徒たちの特徴です。
そしてこれから、彼らが宣教を担う上での方法論をキリストが語りますが、それは次回、紐解いてまいります。
収穫は多い
では最後に、「収穫は多いが、働き手が少ない。」とキリストが語った中の、「収穫は多い」という言葉に注目して終わりにします。
ここで期待されている「収穫」とは、具体的には、「羊飼いのいない羊の群れのように、弱り果てて倒れていた」「群衆」を指していますね。彼らは、時の宗教指導者たちが「天の御国」に至る道を閉ざしていたので、どうしていいかわからず、途方に暮れていた人たちです。すなわち、この時代の多くのユダヤ人たちが、「羊飼いのいない羊の群れ」のようだったというわけです。そこにキリストが現れて、
【マタイの福音書4:17】
「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」
と宣べ伝えていたのですね。ゆえに、キリストがこの時に期待した多くの「収穫」とは、第一義的には、当時のユダヤ人たちが悔い改めて、イエス・キリストを救い主と信じ受け入れることでした。
ただし、キリストはこの後、全人類の罪を贖うために、十字架に架かって死んでいきます。ということは、この贖いによって期待される「収穫」とは、ユダヤ人だけでなく、異邦人である私たちも含めた全人類が、イエス・キリストを救い主と信じることにほかなりません。なぜなら、神の目からは、私たちも「羊飼いのいない羊の群れ」だからです。そこでキリストは、こう語るのです。
【ヨハネの福音書10:10~11】
わたしが来たのは、羊たちがいのちを得るため、それも豊かに得るためです。わたしは良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。
ここで出て来る「わたし」とか「牧者」が、「羊飼い」であるキリスト、そして「羊」が私たちです。ゆえに、イエス・キリストがこの世に来たのは、私たちが永遠のいのちを得るためであり、キリストこそ、その私たちのためにいのちを捨てる、良い羊飼いにほかなりません。
そしてそれが現実となったのが、イエス・キリストが本当に私たちのためにいのちを捨てた、十字架です。ゆえに私たちは、このキリストの死が、私たちの罪を贖うためだったと信じる信仰によって救われ、永遠のいのちを得るのです。この信仰こそ、キリストが私たちに期待しておられる「収穫」です。その期待に応えて、今、イエス・キリストを救い主と信じ仰ごうではありませんか。
(2025.5.30)
