079_苦難の先まで神が導く?
【マタイの福音書10:16~22】
10:16 いいですか。わたしは狼の中に羊を送り出すようにして、あなたがたを遣わします。ですから、蛇のように賢く、鳩のように素直でありなさい。
10:17 人々には用心しなさい。彼らはあなたがたを地方法院に引き渡し、会堂でむち打ちます。
10:18 また、あなたがたは、わたしのために総督たちや王たちの前に連れて行かれ、彼らと異邦人に証しをすることになります。
10:19 人々があなたがたを引き渡したとき、何をどう話そうかと心配しなくてもよいのです。話すことは、そのとき与えられるからです。
10:20 話すのはあなたがたではなく、あなたがたのうちにあって話される、あなたがたの父の御霊です。
10:21 兄弟は兄弟を、父は子を死に渡し、子どもたちは両親に逆らって立ち、死に至らせます。
10:22 また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれます。しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われます。
今キリストは、弟子たちの中から12人を、「使徒」として宣教に遣わそうとしています。そこで前回から、彼らの派遣に先だち、具体的な指示と注意を与えはじめました。そしてこれから、その宣教が決して平坦ではなく、時に、非常な困難を伴うことが明かされます。なので、今日はその内容を概観しつつ、キリストが意図した本質に迫ってまいります。
宣教が広がる予告
【マタイの福音書10:16~22】
10:16 いいですか。わたしは狼の中に羊を送り出すようにして、あなたがたを遣わします。ですから、蛇のように賢く、鳩のように素直でありなさい。
さあ、キリストが使徒たちに「わたしは狼の中に羊を送り出すように」あなたがたを遣わすと言っていますね。ということは、羊にたとえられた使徒たちは、獰猛な狼にかみ殺されるかもしれません。なので、狼を前に「蛇のように賢く」、神を前に「鳩のように素直でありなさい」と言うのです。そしてこれから、狼が何をしてくるかが予告されます。
【マタイの福音書10:16~22】
10:17 人々には用心しなさい。彼らはあなたがたを地方法院に引き渡し、会堂でむち打ちます。また、あなたがたは、わたしのために総督たちや王たちの前に連れて行かれ、彼らと異邦人に証しをすることになります。
さあ、具体的な警告が出てきました。彼らは今後、人々によって、為政者の前に引き出されたり、むち打たれたりするのですね。実はこれらのことは、キリストが天に上げられ、使徒たちが本格的に宣教をはじめてから起こります。そして彼らは、実際にむち打たれ、投獄され、殺されたりするのです。
ただしそんな中で、使徒たちが「彼らと異邦人に証しをする」ようになると言っていますね。すなわち、キリストのもたらした福音が、異邦人にも宣べ伝えられるようになる、という点に注目です。
というのは、今回の使徒たちの派遣は、あくまでも、同胞であるユダヤ人への宣教が目的です。でもキリストは、彼らがいずれ、ユダヤ人だけではなく、異邦人にまで宣教するようになると予告しているわけです。異邦人とは、ユダヤ人以外の外国人、すなわち、私たちのことです。なので私たちに、今、こうしてキリストの福音が伝わっているのですね。でも、当時の彼らにとっては大変な役割です。そこで、こう付け加えます。
【マタイの福音書10:16~22】
10:19 人々があなたがたを引き渡したとき、何をどう話そうかと心配しなくてもよいのです。話すことは、そのとき与えられるからです。話すのはあなたがたではなく、あなたがたのうちにあって話される、あなたがたの父の御霊です。
これは、使徒たちに勇気を与えますね。何しろ彼らは、今まで宣教などしたことがありません。なので、突然話せといわれても、おぼつかないのは当然です。そこでキリストは、「話すことは、そのとき与えられる」なぜなら、「話すのはあなたがたではなく、あなたがたのうちにあって話される、あなたがたの父の御霊」なのだから、と励ましたのです。
そしてその通り、彼らは将来、「御霊」と呼ばれている、聖霊なる神の力を得て、人々の前で雄弁に福音を宣べ伝えるようになります。そのあたりのことは、新約聖書の「使徒の働き(使徒言行録)」に書かれているので、興味のある方はご覧ください。
とはいえ、宣教に困難が伴うことに変わりはありません。なので、彼らが語れば語るほど、人々との軋轢や、迫害が起こることを予告したのが、次のくだりです。
迫害の予告
【マタイの福音書10:16~22】
10:21 兄弟は兄弟を、父は子を死に渡し、子どもたちは両親に逆らって立ち、死に至らせます。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれます。しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われます。
辛い予告です。キリストの福音を宣べ伝えると、家族の間に亀裂がおよび、最悪の場合は死に至るというのです。なぜこうなるんでしょう。そこには深い訳がありますが、ごく簡単に纏めれば、ユダヤ人たちの中に育まれたアイデンティティが影響していると言えます。
すなわち、昔も今も、多くのユダヤ人たちにとっては、ユダヤ人として生まれた者は当然ユダヤ教徒であり、その指導者達がイエス・キリストを否定した以上、ユダヤ人がキリスト教徒になるなどありえないというのが、彼らの民族としてのアイデンティティです。
なので今でも、ユダヤ人たちの中からキリスト教徒が出ようものなら、その人は、親子や兄弟の縁を絶ち切られ、もはや死んだ者として、家族が葬式を出すことさえあるのが現実です。こうしてユダヤ社会から追い出されることは、その人にとって、死を意味するに等しいのです。
こうした現実は、なにもユダヤ社会だけの傾向ではありません。歴史を紐解けば、日本でもキリシタンの弾圧や戦時下など、キリスト教徒というだけで迫害された事例は沢山ありますね。それを鑑みれば、時に及んで、「わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれます」というキリストの言葉は、決して誇張ではありません。
そして、「最後まで耐え忍ぶ人は救われます」とあります。ただこの言葉、迫害に耐えれば救われ、耐えられないなら救われないかのように読めてしまいますね。でも、聖書全体を通してみれば、この言葉は決して、迫害に耐えられない人は救われない、と教えているのではありません。
なぜなら、聖書は、あくまでもイエス・キリストを救い主と信じる信仰によって救われると言っていて、人は行いによって救われるのではないからです。ゆえにこの言葉は、既に信仰によって救われた人が、それによって被る迫害にも耐えるなら、信仰が確信へと強められ、神の恵みが増し加わることを教えているのです。もう一度言います。迫害に耐えるなら、信仰と恵みが増し加わるのです。事実、使徒たちのこんなエピソードがあります。
【使徒の働き5:39~42】
議員たちは彼の意見に従い、使徒たちを呼び入れて、むちで打ち、イエスの名によって語ってはならないと命じたうえで、釈放した。使徒たちは、御名のために辱められるに値する者とされたことを喜びながら、最高法院から出て行った。そして毎日、宮や家々でイエスがキリストであると教え、宣べ伝えることをやめなかった。
この通り、使徒たちはキリストのゆえにむち打たれ、脅迫されたことで、キリストが「わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれます。しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われます」と語っていたことが、今まさに、自分の身に及んだことを喜んだのでした。これが、彼らの信仰と恵みが増し加えられた瞬間です。では今日の結論です。
苦難の先まで神が導く
今日は、使徒たちが宣教をはじめると、非常な困難が伴うことが明かされました。そうした困難は、程度の差こそあれ、現代の私たちの上にも、しばしば訪れるかもしれません。
すなわち、時代や地域は変われども、今もキリストの福音を宣べ伝えれば、異なる考えの人から、陰に陽にと、反発を受けることは避けられません。それを思うと、私たちは救いの恵みを語らずに、世間で波風を立てないようにしようと考えがちです。そしてそれでも、救いを失うわけではありません。
でも、今日のキリストの言葉は、私たちに新たなチャレンジを与えています。すなわち、イエス・キリストを救い主と信じて救われた人が、その救いの恵みを人々に伝えるなら、苦難があっても、それにまさる信仰と恵みが益々増し加わるというのです。もう一度言います。信仰によって救われた人が、福音を宣べ伝えるなら、苦難の上に、更に信仰と恵みが増し加わるのです。
このことについて、聖書はどうしてそうなるのか、こう証言しています。長い記事ですが、通して読んでみます。
【ローマ人への手紙5:1~5】
こうして、私たちは信仰によって義と認められたので、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。このキリストによって私たちは、信仰によって、今立っているこの恵みに導き入れられました。そして、神の栄光にあずかる恵みを喜んでいます。それだけではなく、苦難さえも喜んでいます。それは、苦難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと、私たちは知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。
これを書いたのは、後に使徒として活躍するパウロという人物です。彼はまず、自分たちが「信仰によって義と認められた」すなわち、信仰によって救われたので、既に「神との平和」を得ているのだと言っています。この、「神との平和」を得ているということが、極めて大事なポイントです。
なぜなら、私たちが、見えない神を信じないなら、神を知ることも出来ず、神との良好な関係も成り立ちません。なので、「神との平和を持っています」と言えるのは、信仰によって、神との信頼関係があるから断言できることで、それ自体、すごいことにほかなりません。
そして、この神との信頼関係があるなら、たとえ苦難が及んでも、恐れるに足りません。なぜなら、見えない神が、私たちには見えない苦難の先をも見渡して、導いてくださると確信できるからです。もう一度言います。神は、私たちが見渡すことの出来ない、苦難の先を見渡して、私たちを導かれるのです。だから、「苦難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出す」と言い切れるのです。
この確信のゆえに、「希望は失望に終わることがありません」と言います。この結論は、信仰によって「神との平和」を得ているから言えることにほかなりません。そしてそれが、「神の愛が私たちの心に注がれている」ことを実感させるのです。
そこで今日、あなたも是非、見えない「神との平和」を築こうではありませんか。その第一歩が、天の父なる神が遣わしたイエス・キリストが、私たちを救うために、十字架に架かって死んで葬られ、よみがえられたと信じることです。それが、「神との平和」の礎となります。そうすれば、たとえ困難が及んでも、「希望は失望に終わることがありません。」そして共に「神の愛が私たちの心に注がれている」ことを実感しようではありませんか。
繰り返します。「神との平和」の礎は、イエス・キリストを救い主と、今信じることです。
(2025.6.30)
