080_魂を滅ぼす方を恐れよ?
【マタイの福音書10:23~31】
10:23 一つの町で人々があなたがたを迫害するなら、別の町へ逃げなさい。まことに、あなたがたに言います。人の子が来るときまでに、あなたがたがイスラエルの町々を巡り終えることは、決してありません。
10:24 弟子は師以上の者ではなく、しもべも主人以上の者ではありません。
10:25 弟子は師のように、しもべは主人のようになれば十分です。家の主人がベルゼブルと呼ばれるくらいなら、ましてその家の者たちは、どれほどひどい呼び方をされるでしょうか。
10:26 ですから彼らを恐れてはいけません。おおわれているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずにすむものはないからです。
10:27 わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。あなたがたが耳もとで聞いたことを、屋上で言い広めなさい。
10:28 からだを殺しても、たましいを殺せない者たちを恐れてはいけません。むしろ、たましいもからだもゲヘナで滅ぼすことができる方を恐れなさい。
10:29 二羽の雀は一アサリオンで売られているではありませんか。そんな雀の一羽でさえ、あなたがたの父の許しなしに地に落ちることはありません。
10:30 あなたがたの髪の毛さえも、すべて数えられています。
10:31 ですから恐れてはいけません。あなたがたは多くの雀よりも価値があるのです。
キリストは今、弟子たちのうちの12人を「使徒」として、宣教に遣わそうとしています。そこで、彼らが何をどうしたらよいか、そして、これからどんなことが彼らに降りかかるかを語っています。なぜなら、彼らの歩む道が、決して平坦ではないからです。では、今日の聖書箇所を読んでみましょう。
迫害と中傷の予告
【マタイの福音書10:23~31】
10:23 一つの町で人々があなたがたを迫害するなら、別の町へ逃げなさい。まことに、あなたがたに言います。人の子が来るときまでに、あなたがたがイスラエルの町々を巡り終えることは、決してありません。
使徒たちが迫害を受けたら、すぐ別の町に逃げよとありますね。なぜなら、ことイスラエルの人々に関しては、この機会は、彼らが救われるか滅ぼされるかが決まる、最後通牒に等しいからです。ゆえに、反発する人たちに、時間をかけている余裕はありません。なので、「人の子が来るときまでに、あなたがたがイスラエルの町々を巡り終えることは、決してありません」というのです。
ここで出て来る「人の子」とは、キリストのことです。すなわち、使徒たちがイスラエルの町全てを巡りきらないうちに、キリストが来るというのですね。ということは、文脈から見れば、イエス・キリストが十字架に架かるエルサレムに行くまで、使徒たちがイスラエルを回りきれるほどの、時間的な余裕は残されていない、というわけです。そしてこう続けます。
【マタイの福音書10:23~31】
10:24 弟子は師以上の者ではなく、しもべも主人以上の者ではありません。弟子は師のように、しもべは主人のようになれば十分です。家の主人がベルゼブルと呼ばれるくらいなら、ましてその家の者たちは、どれほどひどい呼び方をされるでしょうか。
「弟子は師以上の者ではなく、しもべも主人以上の者ではありません」ときました。これらはいずれも、使徒とキリストの関係をたとえたものです。なので、使徒たちがイエス・キリストを超えることはないけれども、宣教に赴く上では、キリストに準じた役割を果たしてくれれば十分だというわけです。
そのために、キリストは今回の派遣に際して、使徒たちに、悪霊を追い出したり、人々の病気を癒やすことが出来る、特別な権威を与えていました。以前の聖書箇所に、こうありました。
【マタイの福音書10:1】
イエスは十二弟子を呼んで、汚れた霊どもを制する権威をお授けになった。霊どもを追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいを癒やすためであった。
これは、彼らが間違いなく、イエス・キリストから遣わされた使徒だとわかるよう、彼らに特別に与えられた権威でした。なので、使徒たちの働きを通して、彼らを遣わしたイエス・キリストこそ、本当に救い主だと人々が信じるよう、期待されていたのですね。
でも、この時既に、イスラエルの宗教指導者たちは、イエス・キリストを救い主とは認めない裁定を下していました。それどころか、キリストのことを、悪魔を意味する「ベルゼブル」だと言っていたのです。なのでキリストは、「家の主人がベルゼブルと呼ばれるくらいなら、ましてその家の者たちは、どれほどひどい呼び方をされるでしょうか」と言って、使徒たちが罵詈雑言を浴びることを懸念したのです。
そこでこれから、そんな人々を恐れぬよう、使徒たちに励ましの言葉が語られます。その中で三回、「恐れるな」という言葉が出てきます。では、一つ目の「恐れるな」です。
三つの「恐れるな」
【マタイの福音書10:23~31】
10:26 ですから彼らを恐れてはいけません。おおわれているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずにすむものはないからです。わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。あなたがたが耳もとで聞いたことを、屋上で言い広めなさい。
ここで「彼ら」と出て来るのは、使徒たちを拒絶したり迫害する人のことです。そのような人々を恐れるなとキリストが励まします。なぜなら、「おおわれているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずにすむものはないから」だというのですね。
これは、文脈から判断すれば、使徒たちを拒絶したり迫害する人たちについて、人の目からは「おおわれているもの」や「隠されているもの」が、やがて白日の下にさらされることだとわかります。
ということは、彼らだけでなく、私たちについても、同じことが言えないでしょか。すなわち、私たちのすべての行ない、とりわけ、人の目からは「おおわれているもの」「隠されているもの」が、いずれ全部、神によって白日の下にさらされるというわけです。
そして更に、「わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。あなたがたが耳もとで聞いたことを、屋上で言い広めなさい」ときました。これは、キリストが使徒たちに教えたことを、包み隠さず、すべての人々に知らせなさい、言い換えれば、キリストの福音を世界中に宣べ伝えなさい、というわけです。
そのために擁立されたのが使徒たちで、彼らが包み隠さず宣べ伝えた福音をまとめたのが「新約聖書」です。
従ってここでは、キリストの福音と、それを受け入れる人々、そして受け入れない人々についてのあらゆることが、いずれ神によって、全て明らかになると示されているのです。それが、私たちの裁きの時となるのです。これは、「恐れるな」どころか、恐るべきことではないでしょうか。
そして、二つ目の「恐れるな」が語られます。
【マタイの福音書10:23~31】
10:28 からだを殺しても、たましいを殺せない者たちを恐れてはいけません。むしろ、たましいもからだもゲヘナで滅ぼすことができる方を恐れなさい。
一つ目の「恐れるな」を通して、キリストは使徒たちに、すべてのことが暴露される時が来ることを示されました。ゆえに「からだを殺しても、たましいを殺せない者たちを恐れてはいけません」と語ります。
これもまた恐るべき言葉です。私たち人間は、総じて自分が殺されるのは怖いですよね。でも、神であるキリストから見れば、目に見える私たちの身体が殺されるなど、恐れるに足らないというのです。そんなことが出来ても、人は魂までは殺せないからだというわけですね。これは、私たちの人生観や死生観が問われる一言です。
そして「むしろ、たましいもからだもゲヘナで滅ぼすことができる方を恐れなさい」と宣言します。ここで出て来る「ゲヘナ」とは、人が神の裁きの果てに送られる、地獄のことです。従って、身体しか殺せない人間など恐れず、魂まで裁いて滅ぼすことが出来る方、すなわち、天の父なる神を恐れよというわけです。なぜなら、この神こそ、この世界を司り、私たち一人一人のことをすべて見抜いておられる方だからです。それを説明しているのが、これから出て来る、三つ目の「恐れるな」です。
【マタイの福音書10:23~31】
10:29 二羽の雀は一アサリオンで売られているではありませんか。そんな雀の一羽でさえ、あなたがたの父の許しなしに地に落ちることはありません。あなたがたの髪の毛さえも、すべて数えられています。ですから恐れてはいけません。あなたがたは多くの雀よりも価値があるのです。
ここで、市場で売られている雀の話になりました。「二羽の雀は一アサリオンで売られている」という「一アサリオン」とは、私たちにとって一円に相当する、当時の最も小さな通貨の単位です。なので当時は、雀一羽では殆ど価値がないので、二羽一円で売られていたのですね。そんな雀の生殺与奪をも、神が握っているというわけです。
それを引き合いに、天の父なる神は、私たち人間の髪の毛一本に至るまで、すべて把握していることが知らされます。なぜなら、神にとって人は、「多くの雀よりも価値がある」からだ、というわけです。聖書にこんな言葉があります。
【旧約聖書・イザヤ書43:4】
わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。
ゆえに、あなたがたはどんなに迫害されても、恐れる必要はない、むしろ、人を完全に裁くことが出来る、神を恐れなさい、というのが、三つの「恐れるな」が導いている結論です。
恐れるべき方を恐れよ
さあ、この厳粛な語りかけを前に、あなたは今日、どう応答されるでしょう。
私たちは総じて、目に見えることばかりに囚われてしまうお互いです。けれどもキリストによれば、そんなものは恐れるに足りない、むしろ、「おおわれているもの」「隠されているもの」まで見通して、厳粛な裁きを下す、見えない神を恐れよということでした。
このことが事実であれば、私たち、そしてあなたは、神の裁きに耐えられるでしょうか。もし神の前で、「おおわれているもの」「隠されているもの」がすべて明らかにされたら、私たちは誰もその裁きに耐えられないのではないでしょうか。
そこで、私たちがおおい続け、隠し続けて来た、誰にも見せられないあらゆる罪をすべて肩代わりし、私たちに代わって裁きを受けて死なれたのが、イエス・キリストです。言い換えれば、天の父なる神が、私たちを裁く代わりに、そのひとり子であるイエス・キリストを遣わして裁かれたのです。それは一にも二にも、私たちが救われるためにほかなりません。
なので聖書は、このイエス・キリストこそ救い主だと信じる信仰によって、私たちが罪の滅びを免れ、救われて永遠のいのちを得ると断言しています。繰り返します。私たちは、イエス・キリストを救い主と信じる信仰によって救われるのです。これこそ恐るべきことではないでしょうか。
そこで、この救いの良い知らせ、福音を受け入れ、あなたも今、イエス・キリストを信じようではありませんか。
(2025.7.15)
