【キリストの足跡をたどる】081_人前でキリストを認めるなら?

081_人前でキリストを認めるなら?

【聖書】マタイの福音書10:32~33 
●人前でキリストを認めるなら 
●キリストを「知らない」と言うなら 
●信じた人が「知らない」と言うなら?  
●ペテロの場合 
●神との関係は回復できる 

【マタイの福音書10:32~33】
10:32 ですから、だれでも人々の前でわたしを認めるなら、わたしも、天におられるわたしの父の前でその人を認めます。
10:33 しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも、天におられるわたしの父の前で、その人を知らないと言います。

私たちは今、イエス・キリストが、「使徒」と呼ばれる12人に対して、これからどのように宣教を進めたらよいのか、そして、彼らにどんなことが降りかかるかを教えたシーンを紐解いています。

「使徒」というのは、イエス・キリストがもたらす福音を宣べ伝えるために、弟子たちの中でも特別な権威が付与された人たちです。とはいえこの時点では、彼らはまだ未熟で、キリストのもたらす福音の全貌も、当然知り得ませんでした。そこで、彼らのその後の成長を見越して、キリストが注意と励ましを与えているのがこのくだりです。その点に留意して、今日の聖書箇所を読んでいきましょう。

人前でキリストを認めるなら

【マタイの福音書10:32~33】
10:32 ですから、だれでも人々の前でわたしを認めるなら、わたしも、天におられるわたしの父の前でその人を認めます。

「だれでも人々の前でわたしを認めるなら」ときました。すなわち、人々の前で、「イエス・キリストこそ私の救い主だ」と認めるなら、キリストも、天の父なる神の前で、その人が私を信じている人だと認めよう、というのですね。

これは、「イエス・キリストこそ私の救い主だ」と表明することによって、その人が信仰によって救われていることを裏付ける、極めて心強い約束にほかなりません。

なので、「私は心の中では信じているけど、それだと本当に救われているのか確信が持てない」と感じている人は、是非、人前で「イエス・キリストこそ私の救い主だ」と表明してみることをお勧めします。そうすれば、あなたが信仰によって救われていることを認識できるのです。その拠り所が、「だれでも人々の前でわたしを認めるなら、わたしも、天におられるわたしの父の前でその人を認めます。」という言葉です。是非やってみましょう。では続きです。

キリストを「知らない」と言うなら

【マタイの福音書10:32~33】
10:33 しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも、天におられるわたしの父の前で、その人を知らないと言います。

さあ、今日の聖書はここまでですが、恐ろしい一言が飛んできました。「人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも、天におられるわたしの父の前で、その人を知らないと言います。」すなわち、人前で「キリストなんて私は知らない」とか「キリストなんか信じていない」と言うなら、キリストもまた、天の父なる神の前で「私はこの人を知らない」と言わざるを得ない、というわけです。

この言葉、本当にイエス・キリストを知らない人や、信じていない人にとっては、どれほど恐ろしいことを意味しているかピンと来ないかもしれません。そこでこの言葉を言い換えれば、あなたが裁判の法廷で被告人になった時、弁護人から、「あなたのことを弁護出来ない」と言われたに等しいのです。

そうなると、あなたが犯して来たあらゆる罪が白日の下にさらされて、それについて一人で申し開きをしなければなりません。なぜなら、

【マタイの福音書10:26】
おおわれているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずにすむものはない

とキリストが宣言しているからです。そして前回、こんなことも言っていました。

【マタイの福音書10:28】
からだを殺しても、たましいを殺せない者たちを恐れてはいけません。むしろ、たましいもからだもゲヘナで滅ぼすことができる方を恐れなさい。

「ゲヘナ」とは、簡単に言えば地獄のことです。そして「たましいもからだも」「滅ぼすことができる方」こそ、天の父なる神です。ゆえにキリストは、「人を恐れるのではなく、私たちの身も心も滅ぼすことができる、神を恐れよ」と警告しているわけです。

というわけで、多くの人が軽々にキリストを否定したり、聖書の神に無関心でいることは、実はとても恐ろしいことです。そこで、私たちに関しては、聖書の言葉を拒絶するのではなく、素直に受け入れ、自分のものとしていこうではありませんか。

信じた人が「知らない」と言うなら?

なお、既にイエス・キリストを信じて、救いの確信を得ている人にとっては、

【マタイの福音書10:32~33】
10:33 人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも、天におられるわたしの父の前で、その人を知らないと言います。

という言葉は、当然と感じるかもしれません。でも、私たちは弱いお互いなので、どんな状況でも意志を貫けるとは限りません。特に、まだキリストを信じて間もない人や、人目を気にしている人はどうでしょう。

例えば、家族や友人が他の宗教に属していたり、キリスト教が嫌いだったりしたら、信仰を表明するのをためらうかもしれません。或いは、もし私たちが、信教の自由のない国にいたら、危険が及ぶかもしれません。それは、当時の使徒たちもそうでした。

彼らの場合、この時点ではまだ、民衆には受け入れられていたものの、宗教指導者たちは既に、イエス・キリストを拒絶する裁定を下していました。そして最後は、民衆もこぞってキリストを「十字架につけよ」と叫びだすのです。

そんな中、使徒たちの中でも一番弟子だったペテロという人が、キリストのことを三度も「知らない」と言ってしまうときが訪れます。少し先の話ですが、その場面の一部をご紹介します。聖書にこうあります。

ペテロの場合

【マタイの福音書26:74~75】
しばらくすると、立っていた人たちがペテロに近寄って来て言った。「確かに、あなたもあの人たちの仲間だ。ことばのなまりで分かる。」するとペテロは、嘘ならのろわれてもよいと誓い始め、「そんな人は知らない」と言った。すると、すぐに鶏が鳴いた。ペテロは、「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言います」と言われたイエスのことばを思い出した。そして、外に出て行って激しく泣いた。

身につまされるシーンです。これは、イエス・キリストが捕らえられて、連行されたところを窺っていたペテロに、突然降りかかった試練でした。なのでペテロは、とっさに三度も「キリストを知らない」と言ってしまったのですね。

実は、こうなることを、神であるキリストはわかっていて、事前にペテロに、

【マタイの福音書26:34】
「あなたは今夜、鶏が鳴く前に三度わたしを知らないと言います。」

と告げていたのです。それに対してペテロは、

【マタイの福音書26:35】
「たとえ、あなたと一緒に死ななければならないとしても、あなたを知らないなどとは決して申しません。」

と豪語していました。その直後に起こったのがこの出来事です。さあ、このペテロ、どうなったのでしょう。

結論を言えば、ペテロはキリストから見放されることはありませんでした。それどころか、キリストが十字架に架かって死んで葬られ、三日目によみがえった後、ペテロはキリストの前で、改めてありのままの自分をさらけ出す機会を与えられました。それによって、ペテロが抱いていた自責の念が解消されたのです。

神との関係は回復できる

このことをまとめると、まずペテロは、人々の前で三度も、キリストを「知らない」と言いました。それによって彼は、天の父なる神の前で、キリストにそっぽを向かれても仕方がない立場に陥りました。けれども、ペテロがキリストの前で、自分の弱さを素直に認めた結果、後ろめたさを感じていたキリストとの関係は回復されました。

これは、たとえ人が、神の前で失敗したり、挫折することがあっても、その人に信仰があるなら、神との関係は損なわれず、いつでも回復できる、確たる証拠にほかなりません。この点が、信仰がない人や、信じていない人との大きな違いです。こんな言葉があります。

【ヨハネの手紙第一 1:9】
もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。

これは、信じていない人に対してではなく、既にキリストを信じている人に語られた言葉です。すなわち、私たちは弱いお互いなので、たとえキリストを信じていても、場合によっては、キリストなど知らない素振りをしてみたり、罪を犯してしまうことがあるものです。そんな時、「これでは自分は救われない」とか、「神から見放されたのではないか」と思いがちです。

でも、そんな「私たちが自分の罪を告白するなら」、神は「その罪を赦し」「すべての不義からきよめ」るとある以上、神の側から私たちを見放すことは、断じてありません。なので、私たちが何かしら罪意識を感じたら、そのときこそ、そんな私たちのために死なれたキリストを信じて告白すれば、その罪が赦され、神とのわだかまりは解消します。これが「信仰によって救われる」ことの本質です。

そこで、「イエス・キリストこそ本当に私の救い主」だと、私たちがいつも認め続けるよう励ましたのが、今日のキリストの言葉です。繰り返します。イエス・キリストこそあなたの救い主です。それを認め、言い表そうではありませんか。もう一度、その励ましの言葉を読んで終わります。

【マタイの福音書10:32~33】
10:32 ですから、だれでも人々の前でわたしを認めるなら、わたしも、天におられるわたしの父の前でその人を認めます。

(2025.7.30)

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