085_キリストから目を離すな?
【マタイの福音書14:22~33】
14:22 それからすぐに、イエスは弟子たちを舟に乗り込ませて、自分より先に向こう岸に向かわせ、その間に群衆を解散させられた。
14:23 群衆を解散させてから、イエスは祈るために一人で山に登られた。夕方になっても一人でそこにおられた。
14:24 舟はすでに陸から何スタディオンも離れていて、向かい風だったので波に悩まされていた。
14:25 夜明けが近づいたころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに来られた。
14:26 イエスが湖の上を歩いておられるのを見た弟子たちは「あれは幽霊だ」と言っておびえ、恐ろしさのあまり叫んだ。
14:27 イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。
14:28 するとペテロが答えて、「主よ。あなたでしたら、私に命じて、水の上を歩いてあなたのところに行かせてください」と言った。
14:29 イエスは「来なさい」と言われた。そこでペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスの方に行った。
14:30 ところが強風を見て怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。
14:31 イエスはすぐに手を伸ばし、彼をつかんで言われた。「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか。」
14:32 そして二人が舟に乗り込むと、風はやんだ。
14:33 舟の中にいた弟子たちは「まことに、あなたは神の子です」と言って、イエスを礼拝した。
前回は、イエス・キリストが、5つのパンと2匹の魚をもとに、大群衆を満腹させたという奇跡を紐解きました。今日は、その晩弟子たちが遭遇した、嵐の場面を追いかけます。
群衆の期待とキリストの思い
【マタイの福音書14:22~33】
14:22 それからすぐに、イエスは弟子たちを舟に乗り込ませて、自分より先に向こう岸に向かわせ、その間に群衆を解散させられた。
キリストが、群衆に食事を分け与えた後、弟子たちだけを舟に乗せて、対岸に向かわせました。この場面、マルコは、
【マルコの福音書6:45】
弟子たちを無理やり舟に乗り込ませ
と書いています。「無理やり」乗せたという点に、キリストの強い意思が感じられますね。恐らく弟子たちは、もう少しこの場に留まるか、そうでなくとも、キリストと一緒にいたかったのではないでしょうか。
というのも、彼らは人里離れたところで休みを得るため、今日、この地に来たばかりでした。ところが、人々が大勢押し寄せて来たので、彼らに食事を用意するため、キリストが奇跡を起こしたのでした。結果、キリストと彼らは大人気になったのです。
ただし、キリストはこの結果に幾ばくかの懸念を抱いていました。それが、ヨハネの残したこの記録から窺えます。
【ヨハネの福音書6:14~15】
人々はイエスがなさったしるしを見て、「まことにこの方こそ、世に来られるはずの預言者だ」と言った。イエスは、人々がやって来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、再びただ一人で山に退かれた。
このとおり、群衆はイエス・キリストの働きを見て、この人こそ「世に来られるはずの預言者だ」と直感しました。この「世に来られるはずの預言者」とは、旧約聖書で、いずれこの世界にやってくると予告されていた、救い主のことを意味しています。その点では、彼らの直感は当たってはいたのです。
けれども、彼らが抱いていた救い主とは、自分たちを生活苦や圧政から解放してくれる、政治的リーダーのような存在でした。だから彼らは、おなか一杯食べ物をくれたイエス・キリストを、自分たちの王様として担ぎ上げようとしたのでした。
でも、キリストは決して政治家になるために来たのではありません。それに、そんな期待を真に受けたら、弟子たちだって政治的な野心を持つかもしれません。そこで群集を解散させ、気持ちが高ぶった弟子たちを冷やすため、強いて舟に押し込んだのでした。
波に悩まされる弟子たち
【マタイの福音書14:22~33】
14:23 群衆を解散させてから、イエスは祈るために一人で山に登られた。夕方になっても一人でそこにおられた。舟はすでに陸から何スタディオンも離れていて、向かい風だったので波に悩まされていた。
キリストは「祈るために一人で山に登られた」のですね。祈りとは、天の父なる神との、心の交流を意味します。なのでキリストは、一人静まって、父なる神と向き合う時をもったわけです。一方弟子たちは、新たな試練に見舞われていました。普段は静かなガリラヤ湖が波立って、舟が進めなくなっていたのですね。さあ、どうなるんでしょう。
【マタイの福音書14:22~33】
14:25 夜明けが近づいたころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに来られた。イエスが湖の上を歩いておられるのを見た弟子たちは「あれは幽霊だ」と言っておびえ、恐ろしさのあまり叫んだ。
舟は一晩中、波間を漂っていたんですね。そこにキリストが、「湖の上を歩いて」来たので、彼らはびっくりして「幽霊だ」と騒ぎ出しました。
【マタイの福音書14:22~33】
14:27 イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。
声を聞いて、水の上にいたのがキリストだとわかると、弟子の一人がこう切り出しました。
水の上を歩くペテロ
【マタイの福音書14:22~33】
14:28 するとペテロが答えて、「主よ。あなたでしたら、私に命じて、水の上を歩いてあなたのところに行かせてください」と言った。
まあ、とんでもないことを言いますね。「水の上を歩いてあなたのところに行かせてください」とは、人には出来ないことを自分もしたい、というわけです。でも裏返せば、ペテロは、イエス・キリストが不可能を可能にされる神だと、素直に信じていたわけです。そこでキリストが応じます。
【マタイの福音書14:22~33】
14:29 イエスは「来なさい」と言われた。そこでペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスの方に行った。
さあ、すごいことになりました。キリストが「来なさい」と招いたら、本当にペテロは、水の上を歩くことが出来ました。これは、ペテロの努力で歩けたのではなく、ペテロの信仰に神が応えた奇跡にほかなりません。
でも、こんな話、信じられるでしょうか。人が水の上を歩くなんてありえないですよね。ただし、この記事を書き残したマタイとヨハネは目撃者で、マルコは、実際に水の上を歩いたペテロ本人から聞いて書いたと思われます。となれば、この記事はまさしく、複数の目撃証言によって立証された事実だと、認めない理由はありません。
そしてこのペテロのように、その人の信仰に、神が応えて実現した奇跡は、過去にも沢山あったことをご記憶でしょうか。例えば、かつてキリストが目の見えない人を癒やした時、キリストはこう言っていました。
【マタイの福音書9:29】
イエスは彼らの目にさわって、「あなたがたの信仰のとおりになれ」と言われた。すると、彼らの目が開いた。
この前例のとおり、キリストは、人が何かを願い出た時、その人に信仰があるなら、願いが適うよう取り計らってきました。なので、ペテロが水の上を歩けたのも、彼の信仰に神が応えたゆえでした。ところがです。
【マタイの福音書14:22~33】
14:30 ところが強風を見て怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。
水の上を歩き出したペテロが、「強風を見て怖くなり、沈みかけ」たのですね。キリストを見ているうちは歩けていたのに、目を離して、風が吹く厳しい現実に恐れを抱いた途端、彼は溺れかかったのです。さあ、どうなるんでしょう。今日のクライマックスです。
キリストから目を離すな
【マタイの福音書14:22~33】
14:31 イエスはすぐに手を伸ばし、彼をつかんで言われた。「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか。」そして二人が舟に乗り込むと、風はやんだ。舟の中にいた弟子たちは「まことに、あなたは神の子です」と言って、イエスを礼拝した。
キリストがペテロを掴んで「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言いました。これは、一度はゆだねて水の上を歩きながらも、目を離した途端に溺れかかったペテロへの励ましにほかなりません。そしてキリストが舟に乗った途端、風がやみました。それを見た弟子たちが、「まことに、あなたは神の子です」とうなったのです。この続きをヨハネは、
【ヨハネの福音書6:21】
すると、舟はすぐに目的地に着いた。
と書き残しています。一晩中波に翻弄されていたのに、キリストが乗り込んだら、舟はすぐに目的地に着いたのですね。この時の弟子たちの心境を、マルコがこう綴っています。
【マルコの福音書6:51~52】
弟子たちは心の中で非常に驚いた。彼らはパンのことを理解せず、その心が頑なになっていたからである。
弟子たちは「パンのことを理解せず」「心が頑なになっていた」とあります。思い起こせば前回、弟子たちは群衆に食べ物を用意しようにも、今あるものを差し出して、キリストにゆだねる以外、為す術がありませんでした。でもキリストは、彼らが持ってきた5つのパンと2匹の魚をもって、群衆を満腹させる奇跡を起こされました。
この奇跡を通して、キリストは弟子たちに何を教えたかったのでしょう。それは、ご自分が不可能を可能にする神であることを弟子たちが悟って、信じゆだねることだったのではないでしょうか。聖書にこんな言葉があります。
【旧約聖書・詩篇37:5】
あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。
「主にゆだねよ。主に信頼せよ」というのですね。「主」とは神のことです。けれども彼らは、奇跡を見て信じても、ゆだねきるには至っていませんでした。そこでキリストは、水の上を歩くという、人には出来ないことを通して、ご自分が何者なのかをもう一度示し、彼らの信仰が強められるよう願ったのでした。
ということは、キリストを信じて本当にゆだねようとした弟子こそ、他ならぬ、水の上を歩こうとしたペテロでした。事実、彼はキリストに身をゆだねて、一度は水の上を歩き、目を離して沈みかけても、引き上げられて舟に戻ることが出来ました。
こうしたことは、私たちがイエス・キリストを信じた後もしばしば起こります。私たちは弱いですから、たとえ一度は信じても、厳しい現実に直面すれば、つい信仰が揺らいだりするものです。そんな時、キリストから目を離さないよう教えているのが、この奇跡です。それを心に留め、先ずはこのイエス・キリストを救い主だと信じようではありませんか。
そして信じたら、このキリストから目を離さないことです。そうすれば、神は全てを最善へと導かれるのです。それを後押しする言葉をご紹介して終わります。
【ヘブル人への手紙12:2】
信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。
(2025.9.30)
