078_神の裁きが現実に?
【マタイの福音書10:5~15】
10:5 イエスはこの十二人を遣わす際、彼らにこう命じられた。「異邦人の道に行ってはいけません。また、サマリア人の町に入ってはいけません。
10:6 むしろ、イスラエルの家の失われた羊たちのところに行きなさい。
10:7 行って、『天の御国が近づいた』と宣べ伝えなさい。
10:8 病人を癒やし、死人を生き返らせ、ツァラアトに冒された者をきよめ、悪霊どもを追い出しなさい。あなたがたはただで受けたのですから、ただで与えなさい。
10:9 胴巻に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはいけません。
10:10 袋も二枚目の下着も履き物も杖も持たずに、旅に出なさい。働く者が食べ物を得るのは当然だからです。
10:11 どの町や村に入っても、そこでだれがふさわしい人かをよく調べ、そこを立ち去るまで、その人のところにとどまりなさい。
10:12 その家に入るときには、平安を祈るあいさつをしなさい。
10:13 その家がそれにふさわしければ、あなたがたの祈る平安がその家に来るようにし、ふさわしくなければ、その平安があなたがたのところに返って来るようにしなさい。
10:14 だれかがあなたがたを受け入れず、あなたがたのことばに耳を傾けないなら、その家や町を出て行くときに足のちりを払い落としなさい。
10:15 まことに、あなたがたに言います。さばきの日には、ソドムとゴモラの地のほうが、その町よりもさばきに耐えやすいのです。
これからイエス・キリストは、弟子たちの中から選んだ12人を、キリストの権威を帯びた「使徒」として、宣教に派遣します。そこで今から、彼らがなにをどうしたらよいか、具体的な指示と注意が語られます。ただそれらは、あくまでも当時の事情に即したもので、現代の私たちにそのままあてはまるわけではありません。なので、私たちはこれらが語られた背景に注目して、キリストが意図した本質に迫りたいと思います。
だれに?
【マタイの福音書10:5~15】
10:5 イエスはこの十二人を遣わす際、彼らにこう命じられた。「異邦人の道に行ってはいけません。また、サマリア人の町に入ってはいけません。むしろ、イスラエルの家の失われた羊たちのところに行きなさい。
はじめにキリストは、使徒たちがどこの誰に宣教したらよいかを示されました。それによると、今回は「イスラエルの家の失われた羊たち」すなわち、同胞であるユダヤ人たちのところに行けというのです。なぜなら、ユダヤ人たちは、イエス・キリストが救い主としてこの世に来たにもかかわらず、宗教指導者たちがキリストを受け入れようとしなかったので、どうしていいのかわからなくなっていたからです。そんな彼らをキリストが見たときの様子を、聖書はこう記録しています。
【マタイの福音書9:36~37】
また、群衆を見て深くあわれまれた。彼らが羊飼いのいない羊の群れのように、弱り果てて倒れていたからである。
この通り、当時のユダヤ人たちは、「羊飼いのいない羊の群れのように」弱り果て、神の目からは「失われた羊たち」と化していたのです。そこで、彼らを導くために選ばれたのが、12人の弟子たち、十二使徒です。では、使徒たちはなにを宣べ伝えるのでしょう。
なにを?
【マタイの福音書10:5~15】
10:7 行って、『天の御国が近づいた』と宣べ伝えなさい。病人を癒やし、死人を生き返らせ、ツァラアトに冒された者をきよめ、悪霊どもを追い出しなさい。あなたがたはただで受けたのですから、ただで与えなさい。
伝える内容は、「天の御国が近づいた」です。これは、イエス・キリストがはじめから語ってきたことと同じです。聖書にこうあります。
【マタイの福音書4:17】
この時からイエスは宣教を開始し、「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と言われた。
すなわち、イエス・キリストがこの世界に来たことによって、神が私たちと共にいる状態を意味する「天の御国」すなわち「神の国」が実現しようとしているのだから、あなたがたは真(まこと)の神に立ち返りなさい、そして、宗教指導者たちに惑わされず、聖書の言葉にのみ信頼するよう、考えを改めなさい、というわけです。そうすれば、聖書の予告どおりに現れたイエス・キリストが救い主であることは、自ずと明らかだからです。
そして更に、「病人を癒やし、死人を生き返らせ、ツァラアトに冒された者をきよめ、悪霊どもを追い出しなさい」とあります。これらは、彼ら十二使徒が、間違いなくイエス・キリストの名代だと人々がわかるよう、キリストが与えた特別な権威によるものでした。前回読んだ聖書箇所に、こうありました。
【マタイの福音書10:1】
イエスは十二弟子を呼んで、汚れた霊どもを制する権威をお授けになった。霊どもを追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいを癒やすためであった。
こうした奇跡は、これまでイエス・キリストが行ってきたものでしたが、キリストがもたらした恵みを「あなたがたはただで受けたのですから」、今度はあなたがたが人々に、「ただで与えなさい」というのです。これには使徒たちも驚いたでしょうね。
なにしろ、彼らはキリストの教えこそ聞いていたものの、今まで人を癒やしたり、悪霊を追い出すなど、試したことさえありません。そんな彼らに、それをする権威が与えられたわけです。なので、今回の派遣は、彼らを訓練する機会でもあったと窺えます。それがわかると、次のくだりもその意図が見えてきます。
事態の緊急性
【マタイの福音書10:5~15】
10:9 胴巻に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはいけません。袋も二枚目の下着も履き物も杖も持たずに、旅に出なさい。働く者が食べ物を得るのは当然だからです。
この言葉も、彼らを訓練し、その信仰を成長させるための励ましにほかなりません。加えて、この指示が緊急性を帯びていたことも窺えます。すなわち、「羊飼いのいない羊の群れのように、弱り果て」た人々に、速やかに寄り添うべく、余計なものは持っていくな、必要なものはすべて神が備えてくださるから、私の言葉を信じて、今すぐ行動しなさい、と促しているわけです。そして、行った先でどうしたらよいかが示されます。
訪問先で
【マタイの福音書10:5~15】
10:11 どの町や村に入っても、そこでだれがふさわしい人かをよく調べ、そこを立ち去るまで、その人のところにとどまりなさい。その家に入るときには、平安を祈るあいさつをしなさい。その家がそれにふさわしければ、あなたがたの祈る平安がその家に来るようにし、ふさわしくなければ、その平安があなたがたのところに返って来るようにしなさい。だれかがあなたがたを受け入れず、あなたがたのことばに耳を傾けないなら、その家や町を出て行くときに足のちりを払い落としなさい。
使徒たちが現地に着いたら、彼らを理解し迎えてくれる人、すなわち、神への信仰がある人の家にとどまり、その家に平安があるよう祈りなさい、というのです。でももし、人々に信仰がないなら、神が与える平安は、あなたがたが受け取りなさい、というわけですね。更には、使徒たちを受け入れなかったり、その言葉に耳を傾けない家や町から出て行くときは、「足のちりを払い落としなさい」というのです。
「足のちりを払い落としなさい」とは、失礼に感じられますね。でも神の立場に立てば、失礼なのは、使徒たちを受け入れず、その言葉に耳を傾けない、家や町のほうです。なぜなら、彼らは皆ユダヤ人で、ユダヤ人には、神が一貫して恵みを注ぎ、聖書を与え、何度も預言者を遣わすなど、神は再三にわたって、その信仰を喚起し続けてきたからです。
そして、彼らへの最大かつ最後の預言者として登場したのが、三位一体の子なる神である、イエス・キリストでした。なので、神にとっては、キリストの名代となる使徒たちを受け入れないなら、それは、神そのものを拒絶したと同じなのです。だからキリストは、「足のちりを払い落としなさい」というのです。
参考までに、使徒たちが実際にこれを行った、後の記録をご紹介します。
【使徒の働き13:49~51】
こうして主のことばは、この地方全体に広まった。ところが、ユダヤ人たちは、神を敬う貴婦人たちや町のおもだった人たちを扇動して、パウロとバルナバを迫害させ、二人をその地方から追い出した。二人は彼らに対して足のちりを払い落として、イコニオンに行った。弟子たちは喜びと聖霊に満たされていた。
ユダヤ人たちの拒絶と迫害に対して、使徒たちが「足のちりを払い落として」いますね。でも最後に「弟子たちは喜びと聖霊に満たされていた」とあります。迫害されているのに喜んでいるなんて、不可解ですよね。でもこれが、その土地の人々が平安を得るのに「ふさわしくなければ、その平安があなたがたのところに返って来る」ということの実例です。これは、キリストを信じていなければ実感できない恵みにほかなりません。では、今日の最後の言葉です。
さばきの現実
【マタイの福音書10:5~15】
10:15 まことに、あなたがたに言います。さばきの日には、ソドムとゴモラの地のほうが、その町よりもさばきに耐えやすいのです。
厳かな言葉が発せられました。ここで出て来る「ソドムとゴモラの地」とは、そこに住んでいた人たちが堕落していたために、神によって滅ぼされた町のことです。なので、使徒たちを受け入れない町や家は、いずれ訪れる「さばきの日」に、かつての「ソドムとゴモラの地」よりも厳しい裁きがくだる、というわけです。
そしてこの予告は、残念ながらキリストが天に上げられた後に、現実のものとなりました。それが、当時のイスラエルの滅亡と、その後1900年間にわたる、ユダヤ人たちの離散という悲劇です。この事実から、私たちは何を学ぶでしょうか。そこで、今日のまとめです。
まとめ
今日は、十二使徒が、同胞のユダヤ人たちのもとに、緊急性をもって派遣されるシーンを紐解きました。なぜ緊急だったのか。それは、ユダヤ人たちが、イエス・キリストを救い主と認めるかどうかによって、「神の国」が現実となるか、或いは、彼らの国そのものが滅んでしまうかが、かかっていたからです。
その結果、残念ながらユダヤ人たちは、国家的にはイエス・キリストを受け入れず、十字架につけて殺してしまいました。ゆえに、その後のイスラエルの滅亡とユダヤ人の離散は、紛れもなく、彼らの決断が引き起こした、神の裁きだったとわかります。この事実を、私たちは重く受け止め、教訓としようではありませんか。
なぜなら、この世界は神によって造られたと同時に、聖書によれば、今のこの世界が終わることもまた、神が定めているからです。そしてその時が「さばきの日」となるのです。
でも、私たち人間を創造された神は、決して、私たちが滅ぶことを望んでいるのではありません。そうではなくて、私たちが罪の滅びから救われ、来るべき「神の国」で、神と共に住むことこそ、神が願っておられることなのです。ゆえに、そんな私たちが救われるよう、私たちの罪を背負って死なれた方こそ、イエス・キリストです。
そこで私たちは、天の父なる神が遣わされたこのイエス・キリストこそ、私の救い主だと信じて、共に救いの恵みに与ろうではありませんか。
(2025.6.15)
