【キリストの足跡をたどる】097_私たちが「神を見る」には?

097_私たちが「神を見る」には?

【聖書】マルコの福音書8:22~26 
●目の見えない人の癒やし 
●イエス・キリストは救い主 
●私たちも「目が見えない」 

この「キリストの足跡をたどる」というシリーズでは、今から約2000年前にこの世界に現れたイエス・キリストの生涯を時間順に並べて、その足跡を追いかけています。今日はその中盤、キリストとその弟子たちが、ユダヤ人たちの住むイスラエルの北のほうの、ベツサイダという村に来たシーンから紐解きます。

目の見えない人の癒やし

【マルコの福音書8:22~26】
8:22 彼らはベツサイダに着いた。すると人々が目の見えない人を連れて来て、彼にさわってくださいとイエスに懇願した。

イエス・キリストと弟子たちがベツサイダと呼ばれる村に着いたら、地元の人たちが目の見えない人を連れて来て、「彼にさわってください」と頼んだのですね。わかりやすく言えば、この人の目を見えるようにしてやってくれ、というわけです。

これまでイエス・キリストは、身体の不自由な人や病に苦しむ人たちを癒やしたり、様々な奇跡を起こしたりして、ご自分が旧約聖書で予告されていた救い主であることを示してきました。そして事実、そうした出来事は、救い主が来たら何が起こるかを予告した、旧約聖書の記事と一致するものでした。ところが、当時のユダヤ教の宗教指導者たちは、そんなイエス・キリストを悪魔呼ばわりして、救い主と認めようとはしませんでした。

なので民衆の間では、イエス・キリストが本当に自分たちを救ってくれる救い主なのか、あるいは、宗教指導者たちが言っている悪魔の類なのか、評価が分かれていたのでした。

【マルコの福音書8:22~26】
8:23 イエスは、その人の手を取って村の外に連れて行かれた。

キリストがその人を村の外に連れ出しました。ということは、村人たちから彼を引き離して、個人的に向き合おうとしたのですね。ここ、ポイントです。

というのは、宗教指導者たちがキリストを拒絶して以来、キリストはもう、信じる気のない人たちに、奇跡の現場を見せなくなっていたのでした。なので、この時集まってきた人たちも、キリストがなにをするのか、興味本位で来ただけだったのかもしれません。

【マルコの福音書8:22~26】
8:23 …そして彼の両目に唾をつけ、その上に両手を当てて、「何か見えますか」と聞かれた。すると、彼は見えるようになって、「人が見えます。木のようですが、歩いているのが見えます」と言った。

キリストが彼の両目に手を当てたら、目が見えるようになったのですね。ただ、「人が見えます。木のようですが、歩いているのが見えます」と言ってますから、まだぼんやりとしか見えていなかったようです。

【マルコの福音書8:22~26】
8:25 それから、イエスは再び両手を彼の両目に当てられた。彼がじっと見ていると、目がすっかり治り、すべてのものがはっきりと見えるようになった。そこでイエスは、彼を家に帰らせ、「村には入って行かないように」と言われた。

ぼんやりだった彼の目に、キリストが再び手を差し伸べました。すると今度は「目がすっかり治り、すべてのものがはっきりと見えるように」なりました。嬉しかったでしょうね。

ただしキリストは、そんな彼を見た村人たちが騒ぎ出すのを案じたのでしょうか。彼に「村には入って行かないように」と釘を刺しました。これがこのエピソードの顛末です。そこで今日は、この話から二つの教訓を得たいと思います。

イエス・キリストは救い主

一つ目は、目の見えない人が見えるようになったというこの癒やしは、紛れもなく、イエス・キリストが、私たちの救い主であることを証明している、ということです。

その根拠として、先ほども触れたとおり、「旧約聖書」には、私たち人間を罪の滅びから救い出す「救い主」が登場したなら、どんなことが起こるかという予告が、実に300以上も書かれていました。そしてそれらがすべて的中したのが、イエス・キリストの登場でした。だから、このイエスこそキリストすなわち「救い主」だと信じているのがキリスト教です。例えば、「救い主」が来て神の国が実現する時にどんなことが起こるのか、「旧約聖書」には、こんな予告がありました。

【旧約聖書・イザヤ書35:5】
そのとき、目の見えないものの目は開かれ、耳の聞こえない者の耳は開けられる。

これは、キリストが現れるはるか昔から予告されていた言葉の一つです。そしてこの通りのことが、今回再び実現したのですね。ゆえにイエス・キリストは、「旧約聖書」で予告されていた「救い主」であることを、このエピソードも証明しているわけです。

私たちも「目が見えない」

そしてもう一つ、心に留めておきたいのは、目が見えなかった人が、段階を踏んで見えるようになったこの物語は、当時のキリストの弟子たちや、ひいては、私たちの物語でもある、ということです。

実は、この記事を書いたマルコは、この話の前後の流れの中で、イエス・キリストが一体何者なのか、弟子たちが段階を踏んで、徐々に理解が進んでいっていること、すなわち彼らの心の目、霊の目が徐々に見えるようになっていくのを描いているのです。それを辿ると、目が見えなかった人の目が開かれていく過程と、弟子たちの心の目、霊の目が開かれていく過程とが、見事に重なってくるのです。

具体的には、今日の主人公は、大きく3つの段階を踏んで癒やされました。まずは、目の見えない人が「キリストと出会った」のがはじめのステップ、「ぼんやり見えるようになった」のが次のステップ、そして「はっきり見えるようになった」のが最後のステップです。

このステップは、弟子たちがキリストと出会い、キリストの本質がぼんやりと見えはじめ、やがてはっきりと見えるようになっていく過程と実によくリンクしています。事実、この頃の弟子たちは、イエス・キリストが「神の子」「救い主」だと頭ではわかっていたつもりでしたが、目に見えないその本質や救いの全貌までは、ぼんやりとしか見えていなかったのが現実でした。

そんな彼らが、イエス・キリストが何者で、何のためにこの世界に来たのか、心の目、霊の目を通してはっきりと見極めたのは、キリストが十字架に架かって死んで葬られ、よみがえって、天に上げられた後のことでした。

すなわち弟子たちは、イエス・キリストが本当に、「父なる神」が計画したとおりに、私たち人間の罪をすべて贖うため、私たちの身代わりとなって死なれた「神の子」「救い主」だったことを、キリストが去ってから悟ったのでした。そしてそれもまた、神の采配だったことが、聖書を読むとわかるのです。以来、彼らはこの事実を雄弁に語りだし、それが「新約聖書」に収められたというわけです。

ということは、今の私たちも、彼らと同じように、心の目、霊の目が開かれていない、目の見えないお互いだと言えるのではないでしょうか。すなわち私たちが、神などいない、信じない、いても自分とは関係ないと思っているなら、キリストと出会う前の弟子たちと同様、神が見えず、「救い主」のなんたるかさえ見えていないのと同じなのです。

でも、私たちが聖書を通してキリストと出会い、「救い主」と信じるなら、見えなかった心の目、霊の目が徐々に開かれ、やがてはっきりと見るようになると、聖書は教えています。こうあります。

【コリント人への手紙第二3:16】
しかし、人が主に立ち返るなら、いつでもその覆いは除かれます。

ここで「人が主に立ち返る」とある「主」とは、聖書に出て来る神のことで、「主イエス・キリスト」とも呼ばれるとおり、キリストのことでもあります。ゆえに、私たちがイエス・キリストを「救い主」と信じるなら、その人の霊の目を覆っていた覆いが除かれるというのです。裏返せば、信じない人には覆いがかかっていて、見えるべきものが見えていないというわけです。だから、信じて取り除いてもらいなさいというのですね。そして、

【コリント人への手紙第二3:14】
それはキリストによって取り除かれるものだからです。

と約束されているのです。この言葉に信頼しようではありませんか。

とはいえ、私たちはこのイエス・キリストを信じたからといって、すぐにその全て、すなわち、三位一体と呼ばれる神の全てを知れるわけではありません。見えない神の本質が、聖書を通してぼんやりと見えはじめるのが、信じたばかりの私たちの姿です。でも聖書は、そんな私たちも、いずれはっきりと神を見て、神のすべてを知る時が来ると約束しています。こうあります。

【コリント人への手紙第一13:12】
今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、そのときには顔と顔を合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、そのときには、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。

この描写は、神が名実共に私たちと共にいる「神の国」が実現した時に起こることにほかなりません。その時には、私たちが顔と顔を合わせて神と向き合い、神を完全に知ることになる、というのです。そしてそのはじめのステップこそ、私たちがイエス・キリストと出会って、「救い主」と信じることです。聖書にこうあります。

【ヤコブの手紙4:8】
神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。

【ヤコブの手紙4:10】
主の御前でへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高く上げてくださいます。

ここで出てくる「主」とは、聖書が示す神のことで、「主イエス・キリスト」とも呼ばれるとおり、イエス・キリストと同義でしたね。ということは、私たちが聖書を通してキリストと出会うことは、神と出会うことにほかなりません。そこで、今日のエピソードを通して出会ったイエス・キリストを「救い主」と信じて、覆いが除かれ、いずれはっきりと神を見るお互いとさせていただこうではありませんか。

(2026.4.15)

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