【キリストの足跡をたどる】101_キリストに従うとは?

101_キリストに従うとは?

【マタイの福音書16:24~27】
16:24 それからイエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。
16:25 自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者はそれを見出すのです。
16:26 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら何の益があるでしょうか。そのいのちを買い戻すのに、人は何を差し出せばよいのでしょうか。
16:27 人の子は、やがて父の栄光を帯びて御使いたちとともに来ます。そしてそのときには、それぞれその行いに応じて報います。

【聖書】マタイの福音書16:24~27 
●弟子に必要な心構え 
●「自分を捨て」 
●「自分の十字架を負って」 
●「わたしに従って来なさい」 
●「いのちを失う者はそれを見出す」 
●未来の予告 
●まとめ

前回は、イエス・キリストが弟子たちに、ご自分がエルサレムに行って、苦しみを受け、殺され、三日目によみがえらなければならないことを告げていました。そしてこれを聞いた弟子のペテロが、「とんでもない」といさめたら、キリストが、「下がれ、サタン」と一喝したのですね。なぜなら、ペテロの言葉は、天の父なる神が、キリストを通して人間を救おうとしていた計画を、妨害するものだったからでした。そこでこのことを受けて、今日はキリストから、弟子になる上での心構えが語られます。

弟子に必要な心構え

【マタイの福音書16:24~27】
16:24 それからイエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。

はじめにお断りしておきますが、この教えは、私たちが救われるための条件を教えたものではありません。聖書によれば、人はあくまで、イエス・キリストを救い主と信じる信仰と恵みによって救われるのです。言い換えれば、ペテロがしばらく前に告白していたとおり、「イエスこそ生ける神の子キリスト(すなわち救い主)です」と信じることこそ、唯一の救いの条件です。なので、人は、善い行いや努力をすれば救われるのでは決してありません。これが、他の宗教とキリスト教との、明確な違いです。

ただし、私たちがキリストを信じて救われても、それまでと変わらず、自分本位な生活を続けるなら、私たちのその後の成長は期待できません。言い換えれば、キリストを信じて救われたばかりの私たちは、神の目からは赤ん坊のようなものです。なので、イエス・キリストに倣って成長してほしいというのが、聖書から読み取れる、神の思いです。

そこで、私たちがキリストを信じた上で、どのように生きていけばよいのか、とりわけ弟子たちのように、自分もキリストの役に立ちたいと志す人々に対して、どんな心構えで歩めばよいかを教えているのが、このくだりです。

というのも、先ほど触れたように、この手前の場面で、良かれと思ってキリストをいさめたペテロの言葉が、実は神の計画を妨げるものだったことが明らかとなりました。なのでそれを受けて、自分の思いに優る、神の意志に従うよう促したのが、「自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい」という一言です。

「自分を捨て」

ただ、「自分を捨て」なんて言われると、まるで自己否定を迫られた気分になりますね。でもキリストは、弟子たちの人間性を否定したり、世捨て人になれと言ったりしているわけではありません。そうではなくて、これからは今までのような自分中心の判断をするのではなく、一見困難でも、神が望んでおられる道を選びなさい、というわけです。

実はこのことは、私たちがイエス・キリストを救い主と信じる上で、まず自分に罪があるのを認めて、「悔い改める」ことと同じです。なぜなら、「悔い改め」と訳される、聖書に書かれたギリシャ語の「ハマルティア」という言葉には、「考えを改める」とか「方向を転換する」という意味があるからです。

なので、私たちが「悔い改め」てキリストを信じることは、罪に陥りやすい自己中心的な生き方を改め、キリストの贖いのゆえに私たちの罪を赦してくださった、天の父なる神の意志に適うよう、向きを変える、方向を転換することにほかなりません。というわけで、「自分を捨て」よというのは、神に背中を向けていた過去の自分の在り方を捨てて、これからは神のほうを向いて歩むよう、方向転換をすすめているのです。

「自分の十字架を負って」

そして次に、「自分の十字架を負って」とあります。この言葉、自分に課された責任や苦難を引き受けるといった意味で使われますね。ただし、これをキリストが語ったとなると、後の弟子たちにとっては、より厳粛かつ重い意味を持ったと考えられます。

なぜなら、「十字架」とは、受刑者を公衆の前でさらし者にした挙句、その人を釘で張り付けにして、時間をかけて苦しめて殺すという、極めて残忍な死刑の執行法にほかなりません。そしてキリスト自身が、後にこの十字架刑によって死んでいくのです。

勿論、当時の弟子たちは、キリストが十字架に架かるなど、この時点では想像もつきません。なので、「自分の十字架を負え」と言われても、まだ事の重大さがわからなくて当然です。そんな彼らが、いずれその真意を悟ることができるよう、キリストがあらかじめ、弟子として持つべき覚悟を教えていたわけです。

実際、その後の歴史を紐解けば、キリスト教の宣教には、激しい弾圧と迫害が伴ったことがわかります。そして当時の伝承では、弟子たちの多くが、キリストと同じような十字架刑や逆さ張り付け、そして暗殺の憂き目にあったと言われています。

「わたしに従って来なさい」

そうした現実が待ち受けていることを踏まえ、キリストは、「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい」と促したのでした。そしてその呼びかけに、弟子たちのみならず、信じて救われたその後の多くの人々が答えた結果、今こうして私たちにも、キリストの福音が届けられているのです。このことを重く受け止めようではありませんか。加えてこの呼びかけは、私たちにも向けられていることを心に留めましょう。それを踏まえて、続きです。

「いのちを失う者はそれを見出す」

【マタイの福音書16:24~27】
16:25 自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者はそれを見出すのです。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら何の益があるでしょうか。そのいのちを買い戻すのに、人は何を差し出せばよいのでしょうか。

ここで出てくる、「自分のいのちを救おうと思う者」とは、自分本位に生きようとして、神に背中を向けている人、より広く言えば、イエス・キリストを信じていない、世界中の人たちのことです。そのような人たちにキリストは、「たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら何の益があるでしょうか。そのいのちを買い戻すのに、人は何を差し出せばよいのでしょうか」と諭しているのです。

この言葉、歴史を振り返れば、キリストが登場する300年ほど前に、ヨーロッパからアジア、アフリカを征服して、32歳でこの世を去った、アレクサンドロス大王が思い浮かぶところです。そうした「英雄」と呼ばれる人でも、命を失ってしまえば、それを買い戻すために差し出せるものは何もないではないか、というわけです。

けれども、イエス・キリストを救い主と信じた人はそうではありません。なぜなら、その人の命は、キリストが十字架で死なれた時に、すでに買い戻されているからです。

すなわち、私たちは誰もが、罪があるなら死んで裁かれなければならないお互いです。でも、そんな私たちを、罪の裁きから救うために、代わりに死んで裁きに甘んじたのが、イエス・キリストです。言い換えれば、私たちの命の代わりに、キリストの命が、罪の代償として支払われたことで、それを信じる私たちの命が買い戻されたのです。

ゆえに、私たちがこのことを信じるなら、罪が赦され、永遠の命が与えられるわけです。これが、当時イエス・キリストがエルサレムに行って殺されることで、成し遂げようとしていた、私たちの罪の贖い、救いの本質です。

なので、信じて救われた人が、仮に「自分を捨て、自分の十字架を負って」命を失ったとしても、その人の命は既に買い戻されているゆえに、滅ぶことなく、永遠に神と共に生き続ける、というわけです。それを表したのが、「わたしのためにいのちを失う者はそれを見出すのです」という言葉です。そして最後に、そんな人々を励ます言葉が語られます。

未来の予告

【マタイの福音書16:24~27】
16:27 人の子は、やがて父の栄光を帯びて御使いたちとともに来ます。そしてそのときには、それぞれその行いに応じて報います。

すごい一言が飛び出しました。なお、この世界には、始めと終わりが定められていて、今ある世界の枠組みは、いずれ終わりを迎えることが、聖書を読むとわかります。その時、「人の子」と表現されているイエス・キリストが、天の父なる神の栄光を帯びて、「御使い」と呼ばれる天使たちとともに、再びやってくるというのです。

すると、キリストを救い主と信じて既にこの世を去った人々が、キリストのよみがえりと同じようによみがえり、それまでの行いに応じて報いを受けるというのが、聖書全体と、この部分から読み取れるストーリーです。これが、ここでキリストが明かしている、私たちへの将来の約束です。

こうした予告は、この後もキリストによって、より詳しく語られていきます。ただそれらはいずれも、今の私たちからは現実離れしていて、信じがたいことに思えるかもしれません。でも聖書は、こうした予告の数々が、これまですべて的中してきた、神の啓示の書であることを忘れてはなりません。それを心に留めて、これからも素直な気持ちで、聖書の言葉に耳を傾けようではありませんか。では今日のまとめです。

まとめ

今日は、イエス・キリストに従っていく上での心構えと、信じて従った者が受ける、将来の報いの約束が語られました。ただ、これを聞いた弟子たちは、この時点ではまだ、ほとんどその意味が理解できなかったと思われます。

でも、キリストが十字架に架かって死んだ後、よみがえって天に上げられ、弟子たちに聖霊と呼ばれる神の力が臨んで以降、彼らはいずれも、名実ともに「自分を捨て、自分の十字架を負って」、キリストに従う者となりました。

このことは、イエス・キリストが文字通り、「生ける神の子キリスト(すなわち救い主)」で、その言葉が真実だったことを証明しています。事実、先には神の計画を妨害していた弟子のペテロが、後に、こんな言葉を残しています。

【ペテロの手紙第一5:6~7】
あなたがたは神の力強い御手の下(もと)にへりくだりなさい。神は、ちょうど良い時に、あなたがたを高く上げてくださいます。あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。

この通り、ペテロは私たちが「神の力強い御手の下にへりくだり」「思い煩いを、いっさい神にゆだね」て従うことの素晴らしさを伝えています。そこで私たちも、天の父なる神が、私たちを救うために遣わされたこのイエス・キリストを、救い主と信じた上で、「自分を捨て、自分の十字架を負って」従っていこうではありませんか。

(2026.6.15)

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