【キリストの足跡をたどる】026_人は神の前で恐れを抱く?

人は神の前で恐れを抱く?

【聖書】ルカの福音書5:1~11  
●ガリラヤ湖での出来事 
●シモン・ペテロの二つの言葉 
●人は神の前で恐れを抱く 

●私たちの救い 
神の側から近付いてくださったキリスト 

【ルカの福音書5:1~11

5:1 さて、群衆が神のことばを聞こうとしてイエスに押し迫って来たとき、イエスはゲネサレ湖の岸辺に立って、

5:2 岸辺に小舟が二艘あるのをご覧になった。漁師たちは舟から降りて網を洗っていた。

5:3 イエスはそのうちの一つ、シモンの舟に乗り、陸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった。そして腰を下ろし、舟から群衆を教え始められた。

5:4 話が終わるとシモンに言われた。「深みに漕ぎ出し、網を下ろして魚を捕りなさい。」

5:5 すると、シモンが答えた。「先生。私たちは夜通し働きましたが、何一つ捕れませんでした。でも、おことばですので、網を下ろしてみましょう。」

5:6 そして、そのとおりにすると、おびただしい数の魚が入り、網が破れそうになった。

5:7 そこで別の舟にいた仲間の者たちに、助けに来てくれるよう合図した。彼らがやって来て、魚を二艘の舟いっぱいに引き上げたところ、両方とも沈みそうになった。

5:8 これを見たシモン・ペテロは、イエスの足もとにひれ伏して言った。「主よ、私から離れてください。私は罪深い人間ですから。」

5:9 彼も、一緒にいた者たちもみな、自分たちが捕った魚のことで驚いたのであった。

5:10 シモンの仲間の、ゼベダイの子ヤコブやヨハネも同じであった。イエスはシモンに言われた。「恐れることはない。今から後、あなたは人間を捕るようになるのです。」

5:11 彼らは舟を陸に着けると、すべてを捨ててイエスに従った。

私たちは今、ガリラヤでのキリストの足跡を辿っていますが、その教えや奇跡の噂はあっという間に広まったようです。そんな折、ガリラヤ湖で起きたことを見ていきます。

ガリラヤ湖での出来事

【ルカの福音書5:1~11

5:1 さて、群衆が神のことばを聞こうとしてイエスに押し迫って来たとき、イエスはゲネサレ湖の岸辺に立って、岸辺に小舟が二艘あるのをご覧になった。漁師たちは舟から降りて網を洗っていた。イエスはそのうちの一つ、シモンの舟に乗り、陸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった。そして腰を下ろし、舟から群衆を教え始められた。

この場面、カリラヤ湖の北の、カペナウム付近での話ですが、そこから南下したあたりが、ゲネサレいう地だったので、ガリラヤ湖はゲネサレ湖とも呼ばれていました。そして猟師たちが、夜通し漁をした後、明け方戻って来て、網の手入れをしていました。

そこに群集が、キリストの教えを聞こうと集まってきたので、キリストは混乱を避けるため、前回登場したシモン・ペテロに舟を出してもらって、岸辺から離れた舟の上から、群集に向かって教えを説かれたのです。

【ルカの福音書5:1~11

5:4 話が終わるとシモンに言われた。「深みに漕ぎ出し、網を下ろして魚を捕りなさい。」すると、シモンが答えた。「先生。私たちは夜通し働きましたが、何一つ捕れませんでした。でも、おことばですので、網を下ろしてみましょう。」

人々に語り終えたキリストが、再び漁に出るよう促したので、シモンはびっくりです。なぜなら、彼は地元の漁師で、一晩中漁をやったのに、その日は一匹も獲れなかったからでした。そこに素人のキリストが、真っ昼間に沖で網を下ろせ、というのですから、プロの彼には、なにをかいわんやという気持ちもあったでしょうね。

でもシモンの偉かったのは、「先生、それは無茶ですよ」とか「あなたに何がわかるんですか」とは言わなかったことです。彼が言った、「でも、おことばですので」とは、半信半疑ながらも、先生が仰るなら従いましょうという、従順な姿勢が窺える言葉です。

【ルカの福音書5:1~11

5:6 そして、そのとおりにすると、おびただしい数の魚が入り、網が破れそうになった。そこで別の舟にいた仲間の者たちに、助けに来てくれるよう合図した。彼らがやって来て、魚を二艘の舟いっぱいに引き上げたところ、両方とも沈みそうになった。

さあ、ありえないことが起こりました。キリストに従ったら、期待をはるかに超える収穫があったので、シモンは慌てて援軍を呼んで、舟が沈むほどの大漁を目の当たりにしたのでした。

【ルカの福音書5:1~11

5:8 これを見たシモン・ペテロは、イエスの足もとにひれ伏して言った。「主よ、私から離れてください。私は罪深い人間ですから。」

この一言は深いですね。「主よ、私から離れてください。私は罪深い人間ですから。」この言葉には、シモンが抱いた、強烈な畏怖の念が感じられます。そして呼び方も、「先生」から「主よ」に変化しました。彼は、自分の生業の領域で、素人にしか見えなかったキリストが、実は自分をはるかに超えた存在であることを実感させられたのでした。そしてそれは、シモンだけではなかったようです。

【ルカの福音書5:1~11

5:9 彼も、一緒にいた者たちもみな、自分たちが捕った魚のことで驚いたのであった。シモンの仲間の、ゼベダイの子ヤコブやヨハネも同じであった。

ルカの記述にはありませんが、他の福音書から、この場には、ゼベダイの子ヤコブとヨハネのほかに、シモンの弟アンデレもいたようです。彼らは一様に大漁の水揚げに携わり、キリストを通して、神の栄光を見たのでした。

【ルカの福音書5:1~11

5:10 イエスはシモンに言われた。「恐れることはない。今から後、あなたは人間を捕るようになるのです。」彼らは舟を陸に着けると、すべてを捨ててイエスに従った。

キリストは、恐れをなしてひれ伏す彼に、「恐れることはない」と語り、「あなたは人間を捕るようになる」と告げました。それは、今まで魚を捕っていたシモンが、これからは、人々を福音に導くようになることを意味しています。なので、シモンとその仲間たちは、このとき正式に、キリストから弟子として召し出されたのです。

とはいえ、彼らは今までも、キリストに従ってきた人たちでした。けれども、このときを境に、彼らは、フルタイムで働く弟子となったのです。そして彼らが、「十二使徒」と呼ばれる、最初の人々となりました。また、シモンは後にペテロと呼ばれるようになるので、ルカも8節で、シモン・ペテロと呼び始めています。

シモン・ペテロの二つの言葉

さあ、このエピソードで注目したいのは、シモン・ペテロの口から出た、「でも、おことばですので」と、それに続く言葉です。

シモン・ペテロは、自分の専門分野で、キリストに指図されたのですから、もし、彼のプライドが邪魔をしていたら、この言葉は出てこなかったでしょう。でも、見方を変えれば、なんの収穫もなかった彼にとって、残された一条の光こそ、キリストだった、とも言える舞台設定です。なので、様々な思いが交錯した中での一言だったと思われます。

そして、大漁を目の当たりにした彼から出た、次の言葉が、「主よ、私から離れてください。私は罪深い人間ですから。」でした。

普通、魚が大漁というだけなら、まずこんな表現にはなりません。この言葉、イエス・キリストが、大自然を支配しておられる神であるとシモン・ペテロが悟ったからこそ、口をついて出てきたのでした。でも、なんでこんなことを言っているのか、私たち日本人には、ちょっと理解が難しいかもしれません。この点を少し掘り下げてみます。

人は神の前で恐れを抱く

実は、シモン・ペテロに限らず、聖書では、神がおられることを間近で体験した人は皆、恐れを抱いているのです。例えば、イザヤという人は、幻を通して神を見た時に、こう言っています。

【旧約聖書・イザヤ書6:5

「ああ、私は滅んでしまう。この私は唇の汚れた者で、唇の汚れた民の間に住んでいる。しかも、万軍の主である王をこの目で見たのだから。」

イザヤは、神を見たとき、自分は滅んでしまうと感じました。なぜなら、神が途方もない権威に満ちた、あまりにもきよい、聖なる存在だったので、イザヤは自分に罪があることを自覚し、これでは神に顔向けできない、裁かれておしまいだ、と感じたのでした。

そして彼は、自分のことを「唇の汚れた者」だと言いました。この表現、日本人なら「口は災いの元」という言葉をイメージすると、わかりやすいと思います。例えば、私たちが誰かに悪意を抱いたとき、それは大概、唇を出口として、陰口や悪口、誹謗、中傷、或いは謀略となって発せられます。それがエスカレートして、争いや暴力、果ては戦争にまで発展するのが人間社会です。こうした人間の本当の姿に気付き、イザヤは自分を「唇の汚れた者」だと表現したのです。

このときのイザヤの心境と同じように、シモン・ペテロも、キリストが、あまりにもきよい、権威ある神だと知って、「私は罪深い人間です」と告白して、ひれ伏したのでした。

こうしたことから、神の権威ときよさを前にしたら、私たちもまた、「唇の汚れた者」「罪深い人間」だと悟ることになるのでしょう。なぜなら私たちは、生まれながらにして罪を持つお互いなので、全てを見通しておられる神の前では、自ずと自分の本当の姿に向き合わざるを得なくなるからです。

しかし神は、私たちの罪を裁くことを、決して望んではおられません。なので私たちは、神によって生かされている今のうちに、罪が赦され、救われる必要があるお互いなのです。

私たちの救い

ところで、先程のイザヤ、神を見て、「滅んでしまう」と嘆いていましたが、結果として、彼は滅びずに済みました。なぜならその後、天使が来て、イザヤの唇に、「燃えさかる炭」を触れさせたので、彼の罪が赦されたのだ、と聖書には書かれているのです。これはいったいどういうことでしょう?

実は、この「燃えさかる炭」、旧約の時代にあった、神殿の祭壇から取られたものでした。そこでは、人が神に罪を赦してもらうため、動物を犠牲として献げていた、即ち、動物を身代わりとして焼いていた、その炭が、この「燃えさかる炭」だったのです。

そしてこの動物の犠牲が、新約の時代、イエス・キリストの十字架による犠牲に取って代わりました。だから私たちは今、動物を犠牲にしなくても、キリストが私たちの代わりに犠牲となったことを信じれば救われる、という恵みに与っているのです。

従って、「燃えさかる炭」とは、私たちの救いの根拠である、イエス・キリストの十字架による犠牲を象徴していたのです。それがイザヤの唇に触れたので、彼の罪が贖われたのでした。この体験を経て、イザヤは、神の招きに応答して、預言者となったのです。

そして、今日のテキストで見た、シモン・ペテロの上にも、同じことが起こりました。彼は、キリストに恐れを抱いて、「私は罪深い人間です」と告白し、ひれ伏しました。キリストは、彼の素直な告白を聞いて、「恐れることはない。」と、キリストの側からペテロの心に触れ、「今から後、あなたは人間を捕るようになるのです。」と、弟子として招き入れたのです。これが、今日のエピソードの内実です。

神の側から近付いてくださったキリスト

シモン・ペテロやイザヤは、その後いずれも、聖書に名を残す人物となりました。けれども神は、誰にでも彼らのようになれと言っている訳ではありません。

今日のエピソードを通して、私たちが弁えておきたいこと、それは、聖書が示している神は、途方もない権威を持った、きよい聖なる方なので、私たちは本来、決して神の前に立つことのできないお互いだ、ということです。

そこで神は、そんな私たちを救うため、途方もないプレゼントを用意してくださいました。そのプレゼントこそ、「恐れることはない」と、神の側から、私たちの前に現れてくださった「イエス・キリスト」です。そしてこの方が、私の代わりに犠牲となってくださったのだ、と信じることが、プレゼントを受け取る、ということです。

具体的には、神が人となってこの世界に来られたイエス・キリストが、私たちの代わりに裁かれて、私たちの罪を清算するために、死んで、葬られ、よみがえられたことを、あなたが信じて救われること、これが、あなたが受け取るプレゼントの中身です。このことを厳粛に受け止め、私たちを滅びから本当に救いたいと願っておられる、権威ある神から、喜んでプレゼントを受け取ろうではありませんか。

(2023.3.30)

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!