【キリストの足跡をたどる】052_天に宝を蓄えるとは?

天に宝を蓄えるとは?

【聖書】マタイの福音書6:19~24 
●天に宝を蓄えるとは? 
●神と富とに仕えることはできない 
●神と人のために宝を活かす 

【マタイの福音書6:19~24】

6:19 自分のために、地上に宝を蓄えるのはやめなさい。そこでは虫やさびで傷物になり、盗人が壁に穴を開けて盗みます。

6:20 自分のために、天に宝を蓄えなさい。そこでは虫やさびで傷物になることはなく、盗人が壁に穴を開けて盗むこともありません。

6:21 あなたの宝のあるところ、そこにあなたの心もあるのです。

6:22 からだの明かりは目です。ですから、あなたの目が健やかなら全身が明るくなりますが、

6:23 目が悪ければ全身が暗くなります。ですから、もしあなたのうちにある光が闇なら、その闇はどれほどでしょうか。

6:24 だれも二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛することになるか、一方を重んじて他方を軽んじることになります。あなたがたは神と富とに仕えることはできません。

今私たちは、「山上の説教」と呼ばれる、キリストが語った一連のメッセージを紐解いています。キリストはこの「山上の説教」で、キリストを救い主と信じた当時の人たちが、日々をどのように歩めば良いのか、具体例を示していかれます。では早速、今日の聖書箇所を見ていきましょう。

天に宝を蓄えるとは?

【マタイの福音書6:19~24

6:19 自分のために、地上に宝を蓄えるのはやめなさい。そこでは虫やさびで傷物になり、盗人が壁に穴を開けて盗みます。自分のために、天に宝を蓄えなさい。そこでは虫やさびで傷物になることはなく、盗人が壁に穴を開けて盗むこともありません。あなたの宝のあるところ、そこにあなたの心もあるのです。

「天に宝を蓄えなさい」という、有名な言葉が出てきました。なんとなく、わかったような気になってしまう言葉ですね。では、具体的には、何をどうやって蓄えたらいいんでしょう。そこで先ず、キリストが言う「宝」とはなんなのか、考えてみたいと思います。

「宝」というと、「お金」や「貴金属」「高級品」のような金品を連想しがちですが、経済的に価値のあるものだけが「宝」とは限りません。「宝」は、その人にとって大切な「モノ」や「家族」「能力」「仕事」「地位」「名誉」「健康」など、人によって異なりますね。これら、人が価値を感じ、それに依存したり、関心を持っているもの、それを持つことで満足や安心を得ているものが、その人にとっての「宝」だと言えます。

そうした「宝」についてキリストは、「自分のために、地上に宝を蓄えるのはやめなさい。そこでは虫やさびで傷物になり、盗人が壁に穴を開けて盗みます。」と言うのです。ここで先ず明確にしておきたいのは、キリストは、私たちが「宝」を持つこと自体を否定しているのではない、ということです。なぜなら、私たちが「宝」と感じているものの多くは、私たちが生きる上で必要だからです。

なので、キリストが言わんとしているポイントは、そうした「宝」「地上に蓄えるのはやめなさい」ということです。「地上に蓄える」と、「虫やさびで傷物に」なったり、「盗人が壁に穴を開けて」盗んだりするからだ、というわけです。

確かに当時は、地べたに穴を掘って「宝」を隠そうにも、虫が食ったり、湿気で錆び付いたりしたのでしょう。当然、価値あるものほど泥棒に狙われますから、洞窟や部屋の奥にしまいこんでも、壁を破られて盗まれたりしていたのでしょうね。であれば今だって、「宝」の中身は違えども、人がそれを失ったり、価値が下がることを心配しているのに変わりはありません。

そこでキリストは、「宝」を蓄えるなら、人が住むこの「地上」にではなく、神が住む「天」に蓄えなさい、というのです。そうすれば、虫やさびがついて傷物になることはなく、盗人が壁に穴を開けて盗むこともない、というわけです。

そして、極めつけが、「あなたの宝のあるところ、そこにあなたの心もあるのです。」という言葉です。すなわち、私たちが「地上に宝を蓄える」ことに執着するなら、私たちは見えるこの世のことに心を奪われていて、見えない天の神に心が向いていないのですよ、というわけです。そのことをキリストは、人の体に例えてこう説明します。

【マタイの福音書6:19~24

6:22 からだの明かりは目です。ですから、あなたの目が健やかなら全身が明るくなりますが、目が悪ければ全身が暗くなります。ですから、もしあなたのうちにある光が闇なら、その闇はどれほどでしょうか。

このくだりは、当時ならではの表現で、わかりやすく言い換えれば、地上の「宝」に目が眩み、曇った目で闇の中をさまようのではなく、天の神に目を向けて、澄んだ目を持つよう促しているわけです。これについては、キリストのこんな言葉を補助線にするとよくわかります。

【ヨハネの福音書12:35~36

「もうしばらく、光はあなたがたの間にあります。闇があなたがたを襲うことがないように、あなたがたは光があるうちに歩きなさい。闇の中を歩く者は、自分がどこに行くのかわかりません。自分に光があるうちに、光の子どもとなれるように、光を信じなさい。」

ここで出て来る「光」とは、神であるキリストのことです。キリストはこのとき、ご自分が天に上げられる日が近いことを前提に、今のうちに人々が神に立ち返り、神と共に歩むよう促しました。なのでキリストが、「もしあなたのうちにある光が闇なら、その闇はどれほどでしょうか」と言ったのは、人が神から目をそらし、地上のことに目を奪われているとしたら、それがどれほど心許ないことかを示されたのです。そして、この光と闇の対比を、今度は二人の主人になぞらえて、こう締めくくります。

神と富とに仕えることはできない

【マタイの福音書6:19~24

6:24 だれも二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛することになるか、一方を重んじて他方を軽んじることになります。あなたがたは神と富とに仕えることはできません。

決定的な一言が出てきました。「あなたがたは神と富とに仕えることはできません。」すなわち、文脈に従えば、私たちが神に従おうとするなら、地上の「宝」の集積とも言える「富」に、私たちが支配されてはならない、というわけです。

なぜなら、私たちが殊更に「富」を重んじたり愛したりするなら、結果として、天におられる神を軽んじたり、憎んだりするようになるからだというわけです。実は、聖書の神にとっては、「富」に執着することなど、偶像崇拝に等しいのです。

ゆえにキリストは、この世の「富」という偶像に支配されるのではなく、持ち得た「宝」を、神が支配する天に蓄えるよう促しておられるのです。

では、具体的に「自分のために」見えない「天に宝を蓄える」には、どうしたらいいのでしょう。そのヒントが、「聖書のマスターキー」と呼ばれるこの言葉にあります。ご紹介します。

神と人のために宝を活かす

【マタイの福音書22:37~39

イエスは彼に言われた。「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』これが、重要な第一の戒めです。『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』という第二の戒めも、それと同じように重要です。」

この言葉は、神が当時の人々に授けた「律法」の本質をまとめた戒めです。すなわち、神が一貫して私たちに教えているのは「愛」であり、神を愛し、自分を愛するように隣人を愛すること、これに尽きるのです。

なので、私たちが「自分のために」、天に「宝」を蓄えようとするなら、この戒めにある「愛」を、「宝」に置き換えるとよくわかります。すると、「神のために宝を用い、自分に用いるように、隣人のために宝を用いる」こと、それが結果として、自分の「宝」を天に蓄えることだとわかります。

このことが腹落ちすると、私たちは自ずと、様々な「宝」の用い方があることに気付かないでしょうか。私たちは何も、「お金」や「モノ」だけでなく、「仕事」や「能力」をはじめ、私たちに与えられているこの「時間」に至るまで、持ち得た多くのものを、神や人のために活かすことが出来ますね。

従って、私たちが日々の生き方を通して、自分のためにするように、神や人のために、与えられた「宝」を活かしていくこと、これが「天に宝を蓄える」ことに繋がるのです。

そして勘所は、それを虚栄心からでなく、真心からすることです。しばらく前にキリストは、「善い行い」をするときのあり方について、こう語っていました。

【マタイの福音書6:1

人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から報いを受けられません。

ここでキリストが言わんとしていたのは、「善い行い」とは、人から称賛を得たり、尊敬されるためにするものではない、ということでした。なので、例えば人に「施し」をする時には、こうせよと言っていました。

【マタイの福音書6:3~4

あなたが施しをするときは、右の手がしていることを左の手に知られないようにしなさい。あなたの施しが、隠れたところにあるようにするためです。そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。

このくだりから学ぶことは、「施し」をはじめとする「善い行い」は、人に見せるためにするものではない、ということです。従って、人が見ていようといまいと、神は私たちが持ち得た「宝」をどう活かすのか、引いては、私たちがどう生きるのかに、高い関心をお持ちなのです。

なので私たちが、「宝」や人生そのものを、真心から、神や人のために活かすなら、神はその事実を天に蓄え、私たちに必ず報いてくださるというのが、聖書の約束です。これが、「自分のために、天に宝を蓄える」ということです。

そこで最後に、目に見えない「天に宝を蓄える」上での、拠り所となる一節をご紹介して終わります。聖書にはこんな言葉があります。

【コリント人への手紙第二4:18

私たちは見えるものにではなく、見えないものに目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くからです。

このように、この地上の見える「宝」は、一時的なものに過ぎませんが、天に蓄える「宝」は、永遠に保全されます。そこであなたも、私たちの「宝」を天で守ってくださる、聖書の神に信頼し、神と人のために、真心から「宝」を用いようではありませんか。

(2024.5.15)

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