【キリストの足跡をたどる】054_裁かずに赦し合う?

裁かずに赦し合う?

【聖書】マタイの福音書7:1~6 
●裁いてはいけない 
●自分の梁を取り除け 
●豚に真珠を投げてやるな 
●赦されたゆえに、赦し合う 

【マタイの福音書7:1~6

7:1 さばいてはいけません。自分がさばかれないためです。

7:2 あなたがたは、自分がさばく、そのさばきでさばかれ、自分が量るその秤で量り与えられるのです。

7:3 あなたは、兄弟の目にあるちりは見えるのに、自分の目にある梁には、なぜ気がつかないのですか。

7:4 兄弟に向かって、『あなたの目からちりを取り除かせてください』と、どうして言うのですか。見なさい。自分の目には梁があるではありませんか。

7:5 偽善者よ、まず自分の目から梁を取り除きなさい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取り除くことができます。

7:6 聖なるものを犬に与えてはいけません。また、真珠を豚の前に投げてはいけません。犬や豚はそれらを足で踏みつけ、向き直って、あなたがたをかみ裂くことになります。

私たちは今、「山上の説教」と呼ばれる、キリストが語った一連のメッセージを紐解いています。この「山上の説教」は、キリストを救い主だと信じた人たちに対して、キリストが、「律法」と呼ばれる旧約聖書の戒めを解き明かし、彼らがどう生きればよいかを教えたものです。では、今日の聖書箇所を読んでいきましょう。

裁いてはいけない

【マタイの福音書7:1~6

7:1 さばいてはいけません。自分がさばかれないためです。あなたがたは、自分がさばく、そのさばきでさばかれ、自分が量るその秤で量り与えられるのです。

「さばいてはいけません」ときました。もし私たちが裁くなら、その裁きと同じ基準で、私たちも裁き返されるというわけです。言い換えれば、自分のことを棚にあげて裁く資格が、私たちにあるのか、ということです。この部分、同じエピソードをルカも残しているので、ルカの記録もご紹介しましょう。こうあります。

【ルカの福音書6:37

さばいてはいけません。そうすれば、あなたがたもさばかれません。人を不義に定めてはいけません。そうすれば、あなたがたも不義に定められません。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦されます。

ルカの記録では、裁いて裁き返されるより、裁かなければ裁かれずに済むことに力点が置かれています。そしてむしろ、赦すことを勧めていますね。そうすれば、その人も赦されるというわけです。すなわち、裁くなら裁かれ、赦すなら赦される、これが、「自分が量るその秤で量り与えられる」ということです。

それに私たちは、とかく自分の判断基準で裁きますが、概して自分には甘く、人には厳しいものさしを使いがちですよね。でも、そんな私たちも、実は、神の目からは五十歩百歩で、神の基準で量られたら、誰もが罪を持ち、裁かれても仕方がないお互いであることをご存知でしょうか。なぜなら、人は罪を犯すから罪人なのではなく、人は誰もが、罪人だから罪を犯すというのが、神の見立てだからです。

この前提に立って、私たちが自分の姿を見返せば、実は、自分に甘く、他人に厳しいものさしを使うことさえも、それは厳然とした罪で、なるほど私たちは罪人だとわからないでしょうか。ゆえにキリストは、裁くのではなく、「赦しなさい」と諭すのです。実は、裁かずに赦すことを、身をもって示された方こそ、他ならぬキリストです。キリスト自身、こんな言葉を残しています。

【ヨハネの福音書8:15

あなたがたは肉によってさばきますが、わたしはだれもさばきません。

この中の、「あなたがたは肉によってさばきます」とば、「あなたがた人間は、神の基準によらず、人間的な判断基準によって裁いている」という意味です。それに対してキリストは、「わたしはだれもさばきません」と言います。なぜなら、

【ヨハネの福音書12:47

わたしが来たのは世をさばくためではなく、世を救うためだからです。

と語るのです。すなわち、キリストは罪人である私たちを裁くのではなく、罪の裁きから救い出すために来たと言うのです。

実際、キリストはこの後、世を裁くどころか、十字架に架かって裁かれるという、壮絶な生涯を遂げるのです。でもそれは、私たち人間を罪の裁きから救うために、どうしても必要だったことが、聖書を読むとわかります。すなわち、罪のないキリストが、罪のある私たちの代わりに裁かれることで、それが私のためだったと信じた者の、罪を赦そうというのが、神の計画だったのです。それを成し遂げるために、この世界に遣わされたのが、イエス・キリストです。

なので、このイエス・キリストを救い主と信じれば、あなたの罪は赦され、もう裁かれないのだから、あなたも裁くことはせず、赦す者となりなさい、というのが、今日の話の肝です。

加えて、キリストが殊更に「裁くな」と戒めたのは、当時、人間の誤った判断基準で、公然と裁く人たちがいたからです。それが読み取れるのが、続きの部分です。

自分の梁を取り除け

【マタイの福音書7:1~6

7:3 あなたは、兄弟の目にあるちりは見えるのに、自分の目にある梁には、なぜ気がつかないのですか。兄弟に向かって、『あなたの目からちりを取り除かせてください』と、どうして言うのですか。見なさい。自分の目には梁があるではありませんか。

細かいことですが、冒頭に「あなたは」とありますね。先程までは、「あなたがたは」と、キリストは群集に対して語っていました。なので、ここにきてキリストが、誰か特定の個人に語り始めたことが窺えます。その人に、人の目の中の小さなちりには気が付く一方で、自分の目の中に、大木のような梁が入っていることに、どうして気が付かないんだと問うのです。面白いですね。こうしたデフォルメでイメージを膨らませ、こう続けます。

【マタイの福音書7:1~6

7:5 偽善者よ、まず自分の目から梁を取り除きなさい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取り除くことができます。

「まず自分の目から梁を取り除きなさい」。なかなかキツイ言葉です。人の粗探しをする前に、先ず自分を正せと言うのです。そしてその人を、「偽善者」と呼んでいることに注目しましょう。

本来、この「山上の説教」は、キリストを救い主と信じて集まってきた人たちに語られているものですね。でもここでは、特定の誰かに「偽善者よ」と言っています。ということは、この中に、「偽善者」と呼ばれても仕方がない人が紛れていたと推察されます。では、この「偽善者」とは誰でしょう。

それは、「律法学者」「パリサイ人」と呼ばれる、当時の宗教指導者である蓋然性が高いです。実は、キリストは、彼らのことを一貫して「偽善者」と呼んでいるのです。例えば、こんな感じです。

【マタイの福音書23:13

わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは人々の前で天の御国を閉ざしている。おまえたち自身も入らず、入ろうとしている人々も入らせない。

ちょっとショックな言葉ですよね。「律法学者」「パリサイ人」と呼ばれる宗教指導者たちは、人を神のもとに導く立場にありながら、彼ら自身が、「天の御国」すなわち神の国に入らないばかりか、入ろうとしている人たちも入らせないよう、道を閉ざしているというわけです。なぜでしょう。キリストによれば、こういうことです。

【マルコの福音書7:6~8

「イザヤは、あなたがた偽善者について見事に預言し、こう書いています。『この民は口先でわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。彼らがわたしを礼拝しても、むなしい。人間の命令を、教えとして教えるのだから。』あなたがたは神の戒めを捨てて、人間の言い伝えを堅く守っているのです。」

キリストは、旧約聖書に出て来る、イザヤという預言者の言葉を引用して、彼ら宗教指導者たちが、口先ばかりで、心ここにあらず、「神の戒めを捨てて」しまったと言うのです。なぜなら、彼らは「神の戒め」である「律法」ではなく、「人間の言い伝え」ばかり守れと教えていたからです。それが後にユダヤ教の教典となります。でも、それは神の教えとは違うというのが、キリストの指摘です。

なので、「人間の言い伝え」を振りかざし、「あれをするな、これをするな、それは律法違反だ」と、人の粗探しをする彼ら自身が、神の「律法」に違反しているではないか、だから先ず、その考えを改めよと迫ったのが、「まず自分の目から梁を取り除きなさい」というくだりです。そうすれば、「神の戒め」の意図が「はっきり見えるようになって」、同胞である「兄弟の目からちりを取り除く」ことが出来る、というわけです。

なので、これを現代の私たちに適用するなら、私たちも、とかく偏りがちな自分のものさしで裁かず、まず、誰もが神の前では罪あるお互いだと認め、神が授けた聖書の教えに立とうではありませんか。そして、聖書の言うとおりに、キリストが私の罪の代わりに裁かれたと信じるなら、あなたの罪は赦され、聖書を授けた神の意図が「はっきり見えるように」なるのです。では、最後の部分です。

豚に真珠を投げてやるな

【マタイの福音書7:1~6

7:6 聖なるものを犬に与えてはいけません。また、真珠を豚の前に投げてはいけません。犬や豚はそれらを足で踏みつけ、向き直って、あなたがたをかみ裂くことになります。

「豚に真珠」という言葉がありますが、それはこのキリストの言葉から出ています。「聖なるもの」「真珠」を、犬や豚に与えても、その価値がわからなければ、軽んじたり、逆に反発して攻撃してくるというのです。

ここで再び、聞き手が「あなたがた」に戻っていますね。ということは、キリストが、宗教指導者と思しき人から目を転じ、再びキリストを救い主と信じる人々に語り始めたと読み取れます。となれば、この文脈から、「聖なるもの」「真珠」とは、宗教指導者たちが捨てた「神の戒め」や、彼らが入ろうとしない「天の御国」がそれにあたると考えられます。言い換えれば、現代の私たちにとっては、聖書の言葉や、キリストがなされたことが、「聖なるもの」「真珠」です。

であれば、キリストの言う「犬や豚」が誰かは、もう明らかですね。それは、「律法学者」「パリサイ人」のように、神の教えより人の教えを重んじる人たちのことです。彼らは、「神の戒め」を捨てて、人々が「天の御国」に入るのを妨害していました。更には、「足で踏みつけ」るかのように、キリストを殺そうと画策し、「向き直って」「かみ裂く」ように、信じた人たちを弾圧するようになるのです。

こうした事は、なにも当時に限ったことではありません。今でも、聖書やキリストを軽んじ、その教えに反発する人は少なくありません。なぜなら、聖書やキリストなど、神を認めない人にはどうでもよくて、価値を見出すどころか、邪魔だとさえ感じられるからです。

赦されたゆえに、赦し合う

でも、そんな人たちが、神を前に、自分には罪があると気付いたら、キリストのされたことがどれだけ素晴らしいかを悟る時が来ます。なぜならキリストは、私たちが、自分の罪に気付く前に、この世界に来て、私たちが裁かれる前に、代わりに裁かれてくださったからです。だから私たちは、このキリストが裁かれた事が、自分のためだったと信じるだけで、罪が赦され、来たるべき裁きを免れるのです。これが、キリストがもたらした「福音」です。

であれば、もう人の目の中の些細なちりなど、裁くに及ばず、お互いに赦し合えるではありませんか。それを後押しする聖書の言葉を紹介して終わります。

【エペソ人への手紙4:32

互いに親切にし、優しい心で赦し合いなさい。神も、キリストにおいてあなたがたを赦してくださったのです。

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