【キリストの足跡をたどる】072_誰が天地を造ったか?

072_誰が天地を造ったか?

【聖書】マルコの福音書4:35~41 
●ガリラヤ湖での遭難 
●イエス・キリストは何者か? 
●大自然を造られた神 

【マルコの福音書4:35~41】
4:35 さてその日、夕方になって、イエスは弟子たちに「向こう岸へ渡ろう」と言われた。
4:36 そこで弟子たちは群衆を後に残して、イエスを舟に乗せたままお連れした。ほかの舟も一緒に行った。
4:37 すると、激しい突風が起こって波が舟の中にまで入り、舟は水でいっぱいになった。
4:38 ところがイエスは、船尾で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、「先生。私たちが死んでも、かまわないのですか」と言った。
4:39 イエスは起き上がって風を叱りつけ、湖に「黙れ、静まれ」と言われた。すると風はやみ、すっかり凪になった。
4:40 イエスは彼らに言われた。「どうして怖がるのですか。まだ信仰がないのですか。」
4:41 彼らは非常に恐れて、互いに言った。「風や湖までが言うことを聞くとは、いったいこの方はどなたなのだろうか。」

前回まで、イエス・キリストが語ったたとえ話を紐解いてきました。それが終わり、今日はキリストの乗った舟が遭難するシーンを取り上げます。

ガリラヤ湖での遭難

【マルコの福音書4:35~41】
4:35 さてその日、夕方になって、イエスは弟子たちに「向こう岸へ渡ろう」と言われた。 そこで弟子たちは群衆を後に残して、イエスを舟に乗せたままお連れした。ほかの舟も一緒に行った。

キリストとその弟子たちが、舟で移動を始めました。場所はイスラエル北部のガリラヤ湖という湖です。この湖、凪のときは本当に穏やかですが、切り立った山から風が吹き降ろすと、大荒れになることがあります。それが起こったのが、次の一節です。

【マルコの福音書4:35~41】
4:37 すると、激しい突風が起こって波が舟の中にまで入り、舟は水でいっぱいになった。

恐れていた事態になりました。それも日が暮れる間際の夕方です。舟も恐らく、弟子たちが漁に使っていたものだったのでしょう。そこに突風が吹き付け、大波が打ち寄せました。そして「舟は水でいっぱいになった」ので、放っておけば沈みかねない状態です。

【マルコの福音書4:35~41】
4:38 ところがイエスは、船尾で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、「先生。私たちが死んでも、かまわないのですか」と言った。

舟の中央に水が溜まる一方で、キリストは高くなった船尾で眠っていたのですね。そこで弟子たちがキリストを起こして、「先生。私たちが死んでも、かまわないのですか」と訴えました。

【マルコの福音書4:35~41】
4:39 イエスは起き上がって風を叱りつけ、湖に「黙れ、静まれ」と言われた。すると風はやみ、すっかり凪になった。

キリストが大波に向かって、「黙れ、静まれ」と叱ったのですね。「すると風はやみ、すっかり凪になった」というわけです。

この描写、皆さんはどう受け取るでしょう。イエス・キリストがただの人で、神ではないという前提に立つなら、偶然だとか、ちょうど風が収まるタイミングだったのだと片付けるでしょうか。でも、それは現場にいなかったから言えることで、弟子たちの受け止めはそうではありません。続きです。

【マルコの福音書4:35~41】
4:40 イエスは彼らに言われた。「どうして怖がるのですか。まだ信仰がないのですか。」彼らは非常に恐れて、互いに言った。「風や湖までが言うことを聞くとは、いったいこの方はどなたなのだろうか。」

弟子たちの反応が鮮烈ですね。彼らは、大荒れのガリラヤ湖が、キリストの一言でピタッと凪になったのを見て、「いったいこの方はどなたなのだろうか」と、非常に恐れたとあります。これは、この現象が決して偶然ではなく、大自然がキリストの言葉によって制されたことを物語る、貴重な目撃証言です。

そしてキリストも、「どうして怖がるのですか。まだ信仰がないのですか」と言っていますね。これには、イエス・キリストが、旧約聖書で予告されていた救い主であることを、今まで多くの言葉や奇跡を通して示してきたことが背景にあります。なので、それをずっと目の当たりにしてきた弟子たちに対して、「どうして怖がるのか」「まだ信仰がないのか」と迫ったのです。

従って聖書は、このエピソードを通して、イエス・キリストが、まぎれもなく、大自然を制する神であることを伝えているのです。それが、「いったいこの方はどなたなのだろうか」と、弟子たちが畏怖の念を抱いたことに対する、聖書の回答です。もう一度言います。イエス・キリストは、大自然を制することが出来る、神です。

そこでこの機会に、改めて、イエス・キリストが何者なのか、なぜ神といえるのか、具体的に明言した、聖書の言葉をご紹介します。

イエス・キリストは何者か?

【ヨハネの福音書1:1~3】
初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。

ものすごく壮大な、爆弾のような言葉ですね。実はこの中で、「ことば」とか「この方」とあるのが、続きを読むと、イエス・キリストのことだとわかるのです。なので、これらを機械的にイエス・キリストと読み替えると、実はこうなります。

初めにイエス・キリストがあった。
イエス・キリストは神とともにあった。
イエス・キリストは神であった。
イエス・キリストは、初めに神とともにおられた。
すべてのものは、イエス・キリストによって造られた。
造られたもので、イエス・キリストによらずにできたものは一つもなかった。

すごいことが沢山わかってきました。或いは、なんだこれはと、胡散臭く感じられた人もいるかもしれません。そこで、一言ずつ紐解いてみましょう。

まず冒頭で、「初めにあった」とあるので、イエス・キリストは、この世界が造られる前からおられた、全てのことのはじめのはじめ、第一原因である方だとわかります。ただし、「イエス」とか「キリスト」と呼ばれるのは、人として現れてからのことなので、聖書は、「ことば」とか「この方」と呼んでいるわけです。

次に、イエス・キリストが「神とともにあった」と同時に、ご自身も同じ「神であった」と言っています。これはどういうことでしょう。神でありながら、神とともにあったというわけですから、聖書の神は複数いる、ということでしょうか。

この点については、聖書全体を総合すると、神はあくまでも唯一でありながら、父と子と聖霊と呼ばれる三つの属性を併せ持つ、人知を超えた存在だとわかるのです。

もう一度言います。聖書の神は唯一でありながら、父と子と聖霊という三つの属性を持っている、というのです。これは、人間の理解を明らかに超えた概念です。ゆえに私たちは、神が人知を超えた存在だと、まず認める必要があるのです。

そして、この三つの属性を聖書から深堀りすると、どうやら、父なる神が計画したことを、子なる神が実行し、聖霊なる神が完成させている、という傾向が読み取れるのです。

なので、「イエス・キリストは何者か」という問いに戻ると、キリストとは、天の父なる神が計画したことを実行するために、人となってこの世界にやってきた、子なる神だとわかります。そして、子なる神キリストが実行したことを受けて、父なる神の計画を完成に導くのが、私たちには見えない、聖霊なる神の働きだというわけです。

そこで、この理解を元に、先程の言葉を補うと、こうなります。

イエス・キリストは父なる神とともにあった。
イエス・キリストは子なる神であった。
子なる神イエス・キリストは、初めに父なる神とともにおられた。

不思議に思えた言葉がストンと整理出来ました。こうした三つの属性を、唯一の神があわせ持っているという、人知を超えた概念を、「三位一体」と呼んでいるのです。こんなことは、神が教えてくれなければ、決してわかるものではありません。そしてこの続きは、

すべてのものは、子なる神イエス・キリストによって造られた。
子なる神イエス・キリストによらずにできたものは一つもなかった

となるわけです。ということは、この世界を造られた方こそ、子なる神イエス・キリストだったと聖書は言うのです。これは誰にとっても驚きですが、聖書の神が「三位一体」で、キリストが父なる神の計画を実行する、子なる神だという認識に立てば、けだしもっともだと言えるのではないでしょうか。

そこで、この世界が造られた顛末が書かれた、旧約聖書の「創世記」と呼ばれる記録を確認してみましょう。こうあります。

【旧約聖書・創世記1:1~3】
はじめに神が天と地を創造された。地は茫漠として何もなく、闇が大水の面の上にあり、神の霊がその水の面を動いていた。神は仰せられた。「光、あれ。」すると光があった。

これが有名な、天地創造のはじめのシーンです。ここで神が「光、あれ。」と言ったら、「光があった」とありますね。ということは、この世界は偶然出来上がったのではなく、あくまでも神の意思によって造られ、神がその意思を表明した「ことば」によって創造された、とわかります。神が「ことば」で世界を造ったなんて、これもまた、人知を遥かに超えていますよね。

でも、このいきさつを押さえると、キリストが何者かを教えた先程の言葉が、ストンと腹落ちします。こうありました。

【ヨハネの福音書1:1~3】
初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
・・・【中略】・・・すべてのものは、この方によって造られた。

ここで出て来る「ことば」こそ、イエス・キリストのことでした。そのキリストは、天の父なる神が計画したことを実行する、子なる神ですね。ゆえに、「すべてのものは、この方によって造られた」とあるとおり、この世界は、父なる神の計画に沿って、子なる神が造り、聖霊なる神が完成させた、「三位一体」の神の総力によって出来上がった、というのが、聖書が導く結論です。

大自然を造られた神

この事実がわかると、今日のエピソードの本質が見えてきます。すなわち、ガリラヤ湖が大荒れになったとき、キリストは「黙れ、静まれ」と、「ことば」だけで大自然を制していましたね。なぜそんなことが出来るのか。それはイエス・キリストが、この世界を造られた、三位一体の神だからです。それを知らしめたのが、この出来事です。

そこで私たちも、人としてこの世界に来られた、イエス・キリストに対する認識を、今日、改めようではありませんか。キリストこそ、今日のエピソードを通して、

【ヨハネの福音書1:3】
すべてのものは、この方によって造られた。

という聖書の言葉が裏付けられた、三位一体の子なる神です。

(2025.3.15)

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