【キリストの足跡をたどる】075_見えないものが見えてくる?

075_見えないものが見えてくる?

【聖書】マタイの福音書9:27~34 
●目の見えない人の癒やし 
●口のきけない人の癒やし 
●旧約聖書の預言の成就 
●心の覆いが取り除かれる? 

【マタイの福音書9:27~34】
9:27 イエスがそこから進んで行くと、目の見えない二人の人が、「ダビデの子よ、私たちをあわれんでください」と叫びながらついて来た。
9:28 イエスが家に入られると、その人たちがみもとに来た。イエスが、「わたしにそれができると信じるのか」と言われると、彼らは「はい、主よ」と言った。
9:29 そこでイエスは彼らの目にさわって、「あなたがたの信仰のとおりになれ」と言われた。
9:30 すると、彼らの目が開いた。イエスは彼らに厳しく命じて、「だれにも知られないように気をつけなさい」と言われた。
9:31 しかし、彼らは出て行って、その地方全体にイエスのことを言い広めた。

9:32 その人たちが出て行くと、見よ、人々はイエスのもとに、悪霊につかれて口のきけない人を連れて来た。
9:33 悪霊が追い出されると、口のきけない人がものを言うようになった。群衆は驚いて、「こんなことはイスラエルで、いまだかつて起こったことがない」と言った。
9:34 しかし、パリサイ人たちは、「彼は悪霊どものかしらによって悪霊どもを追い出しているのだ」と言った。

前回に続き、今日の聖書箇所も、イエス・キリストによる奇跡が二つ出て来ます。これらのエピソードは、現代の私たちにとっては、信じがたいものかも知れません。でも聖書は、たとえ私たちがそう感じる情報でも、ありのままを描き出しています。なぜでしょう。今日は、そのあたりに着目したいと思います。

目の見えない人の癒やし

【マタイの福音書9:27~34】
9:27 イエスがそこから進んで行くと、目の見えない二人の人が、「ダビデの子よ、私たちをあわれんでください」と叫びながらついて来た。

まず、目の見えない二人の人が登場しました。彼らは、イエス・キリストに向かって、「ダビデの子よ」と叫んでいますね。実はこれ、すごいことを言っているのです。なぜなら、この「ダビデの子」とは、「救い主」を意味する慣用句だからです。

ダビデとは、かつて神が預言者を通して、時のイスラエルの王に任命した人物のことです。そして神は、この世界に救い主を遣わすときは、このダビデの子孫から誕生させると約束していました。そしてそのとおりに現れたのが、イエス・キリストです。このことを新約聖書は、先祖に至る系図を示して、こう宣言しています。

【マタイの福音書1:1】
アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図。

なので、目の見えない二人は、このイエスという方こそ、自分たちを救うことの出来る、救い主だと確信して、「ダビデの子よ」と叫んでいたわけです。すなわち、この言葉は、彼らの信仰告白なのです。

そして、「私たちをあわれんでください」と言っていますね。言い換えれば、目が見えるようにして欲しい、というわけです。そこでキリストは、場所を移して問いかけます。

【マタイの福音書9:27~34】
9:28 イエスが家に入られると、その人たちがみもとに来た。イエスが、「わたしにそれができると信じるのか」と言われると、彼らは「はい、主よ」と言った。

キリストが彼らに、「わたしにそれができると信じるのか」と尋ねました。彼らに本当に信仰があるかを問うたのですね。彼らは「はい、主よ」と答えました。

【マタイの福音書9:27~34】
9:29 そこでイエスは彼らの目にさわって、「あなたがたの信仰のとおりになれ」と言われた。すると、彼らの目が開いた。イエスは彼らに厳しく命じて、「だれにも知られないように気をつけなさい」と言われた。しかし、彼らは出て行って、その地方全体にイエスのことを言い広めた。

キリストが彼らの目に触って、信仰があるならその願いどおりになるよう告げたら、本当に願いどおり、目が開いたのですね。これには二人とも驚いたでしょう。嬉しかったことと思います。その気持ちは察して余りありますが、この後がいただけません。

彼らは、キリストが、「だれにも知られないように」と厳命したことを守りませんでした。恐らく嬉しさのあまり、誰かに言いたくて仕方がなかったのでしょう。キリストが奇跡を起こして、自分たちの目を開けたことを、そこいらじゅうに言いふらしたというわけです。これが、目の見えない人を癒やしたという、今日の一つ目の奇跡です。では続きです。

口のきけない人の癒やし

【マタイの福音書9:27~34】
9:32 その人たちが出て行くと、見よ、人々はイエスのもとに、悪霊につかれて口のきけない人を連れて来た。悪霊が追い出されると、口のきけない人がものを言うようになった。群衆は驚いて、「こんなことはイスラエルで、いまだかつて起こったことがない」と言った。しかし、パリサイ人たちは、「彼は悪霊どものかしらによって悪霊どもを追い出しているのだ」と言った。

さあ、今度は、口のきけない人が連れて来られました。この人の場合は、「悪霊が追い出されると」「ものを言うようになった」とあるだけなので、キリストが何をどうしたのか、詳しいことまではわかりません。

ただし、パリサイ派と呼ばれる当時のユダヤ教の宗派では、口のきけない人を癒やすのは、救い主でなければ出来ない、と考えられていたようです。それをイエス・キリストがやってのけたので、群衆が驚いて、「こんなことはイスラエルで、いまだかつて起こったことがない」と騒ぎ出したのですね。

そこで、この奇跡に口を挟んできたのが、パリサイ派の人たちです。彼らをはじめ、当時の宗教指導者たちは、既に、イエス・キリストは救い主ではないという裁定を下していました。なので、救い主にしか出来ない奇跡が起こっても、「彼は悪霊どものかしらによって悪霊どもを追い出しているのだ」と反論しました。これが、口のきけない人を癒したという、この奇跡の顛末です。

旧約聖書の預言の成就

さあ、そこで皆さんは、この二つの奇跡をどう受け取るでしょう。当時の宗教指導者たちと同様に、悪霊が悪霊を追い出したと片付けるでしょうか。それについては、以前、同じ論争が起こった時に、キリストがこう反論しています。

【マタイの福音書12:25~26】
どんな国でも分裂して争えば荒れすたれ、どんな町でも家でも分裂して争えば立ち行きません。もし、サタンがサタンを追い出しているのなら、仲間割れしたことになります。それなら、どのようにしてその国は立ち行くのですか。

ここで出て来る「サタン」とは、「悪霊ども」と同義と思って差し支えありません。なので、仮にイエス・キリストが悪霊のかしらで、悪霊が悪霊を追い出しているなら、それはただの内輪もめで、彼ら自体が立ち行きません。ゆえに、そんな仮説は成り立たない、というわけです。

では、これらの奇跡は、すべて新約聖書を書いた人たちの作り話でしょうか。だとしたら、これほど多くの奇跡が、随所に生き生きと描かれているのはなぜでしょう。それになぜ、私たちにとって信じがたいことばかり、堂々と書き残されているのでしょう。

それを鑑みると、聖書の記者たちは、実際にそれが起こったから、ありのままを書き残したと考えるのが、最も自然ではないでしょうか。その前提に立てば、これらのエピソードは、聖書全体から見ると、大変重要な意味を持っているとわかります。なぜなら、これより遥か前に書かれていた旧約聖書に、こんな預言の言葉があるからです。

【旧約聖書・イザヤ書35:5~6】
そのとき、目の見えない者の目は開かれ、耳の聞こえない者の耳は開けられる。そのとき、足の萎えた者は鹿のように飛び跳ね、口のきけない者の舌は喜び歌う。

この言葉は、この世界に「神の国」が実現する時の様子を預言したものです。「神の国」とは、簡単に言えば、神が私たちと共にいる状態を意味します。その時には、「目の見えない者の目は開かれ」「口のきけない者の舌は喜び歌う」というのです。そしてそのとおりのことが、キリストが人々と共にいる時に起こりました。言い換えれば、キリストを救い主と信じる人々の間では、この瞬間、神が共にいる「神の国」がそこにあり、人々が癒やされるという、聖書の預言が実現した、というわけです。

ゆえに、これらの奇跡は、イエス・キリストが、間違いなく、旧約聖書でその到来が予告されていた救い主であることを、雄弁に物語っています。だからこそ、今日出てきた、目の見えない二人は、聖書の預言を拠り所に、「ダビデの子よ」と叫ぶことが出来たのです。

そこで今日の結論です。目の見えない人々や、口のきけない人を癒やしたイエス・キリストは、間違いなく、旧約聖書で予告されていた救い主です。繰り返します。イエス・キリストは、救い主です。これが、今日の二つのエピソードが伝えようとしている本質です。

心の覆いが取り除かれる?

では私たちは、この事実に対して、どう応答したらよいでしょう。それは、目が見えなかった二人にならい、イエス・キリストこそ「ダビデの子」、すなわち救い主と信じることです。その際、私たちは目が見えるとか、口がきけるからといって、救い主など必要ない、と思ってはなりません。

なぜなら、目が見え、口もきけると思い込んでいる私たちこそ、実は、聖書を知らず、真の神を知らなかった、目の見えないお互いだからです。そんな私たちの状態を、聖書は、その人の「心に覆いが掛かっている」のだというのです。繰り返します。聖書を知らず、真の神を知らない人は、神から見れば、「心に覆いが掛かっている」状態なのです。でも、そんな私たちに対して、聖書はこう促しています。

【コリント人への手紙第二3:16】
しかし、人が主に立ち返るなら、いつでもその覆いは取り除かれます。

ここで出て来る「主」とは、聖書が示す、三位一体と呼ばれる神のことです。従って、私たちが聖書の神を神と認めて、その神が人となってこの世に来られたイエス・キリストを救い主と信じるなら、私たちの心に掛かっていた覆いが取り除かれ、今まで見えなかったものが見えてくるというのです。これが聖書の約束です。

そこで私たちも、このイエス・キリストを救い主と信じて仰ごうではありませんか。そうすれば、私たちの心の覆いが除かれて、見えないものが見えるようになります。本当です。もう一度、この言葉を読んで終わります。

【コリント人への手紙第二3:16】
しかし、人が主に立ち返るなら、いつでもその覆いは取り除かれます。

(2025.4.30)

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