076_人は救い主を受け入れない?
【マルコの福音書6:1~6】
6:1 イエスはそこを去って郷里に行かれた。弟子たちもついて行った。
6:2 安息日になって、イエスは会堂で教え始められた。それを聞いた多くの人々は驚いて言った。「この人は、こういうことをどこから得たのだろう。この人に与えられた知恵や、その手で行われるこのような力あるわざは、いったい何なのだろう。
6:3 この人は大工ではないか。マリアの子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄ではないか。その妹たちも、ここで私たちと一緒にいるではないか。」こうして彼らはイエスにつまずいた。
6:4 イエスは彼らに言われた。「預言者が敬われないのは、自分の郷里、親族、家族の間だけです。」
6:5 それで、何人かの病人に手を置いて癒やされたほかは、そこでは、何も力あるわざを行うことができなかった。
6:6 イエスは彼らの不信仰に驚かれた。それからイエスは、近くの村々を巡って教えられた。
今日は、キリストが故郷を訪ねるシーンを紐解きます。
一度目の故郷訪問
実は、イエス・キリストが救い主としての働きを始めてから、故郷を訪れるのは、今回が初めてではありません。
ただし、最初に訪れた時、故郷の人々は、地元で育ったイエスを、救い主と認めることが出来ませんでした。それどころか、イエス・キリストが救い主であることを示されると、人々は怒り出し、崖から突き落とそうとしたのです。その顛末は、新約聖書の【ルカの福音書4:16~30】にありますので、興味のある方はご覧ください。
では、再びの訪問となる、今日の聖書箇所を読んでみましょう。
イエス・キリストの故郷
【マルコの福音書6:1~6】
6:1 イエスはそこを去って郷里に行かれた。弟子たちもついて行った。
ところで、イエス・キリストはどこで生まれたかご存知でしょうか。それは、イスラエルのユダヤ地方にある、ベツレヘムというところです。ただし、キリストが生まれたのは、母マリアとヨセフの、旅先でのことでした。なので彼らは、ベツレヘムに定住したわけではありません。
では、キリストが育った、故郷と呼べる場所はどこでしょう。それは、イスラエルの北部、ガリラヤ地方のナザレというところです。なので、イエス・キリストの郷里はナザレです。そこを再び訪ねたのですね。さあ、今回はどうなったのでしょう。
二度目の拒絶
【マルコの福音書6:1~6】
6:2 安息日になって、イエスは会堂で教え始められた。それを聞いた多くの人々は驚いて言った。「この人は、こういうことをどこから得たのだろう。この人に与えられた知恵や、その手で行われるこのような力あるわざは、いったい何なのだろう。
ナザレに滞在中、「安息日」と呼ばれている土曜日を迎えました。この日は、人々が仕事を休み、シナゴーグという会堂で、ラビと呼ばれる教師から、聖書の解き明かしを聞く習慣があります。そこで、イエス・キリストが教師として講壇に立ちました。
するとその教えに、人々が驚いたのですね。恐らくその言葉には、他のラビとは明らかに違う、神の権威が伴っていたんでしょう。なので人々が、こんな知識をどこで得たのか、そしてその豊かな知恵と、癒やしや奇跡を行う力はなんなのだと騒ぎはじめたわけです。ただし、それは決して好意的な思いからではなかったことが、続きを読むとわかります。
【マルコの福音書6:1~6】
6:3 この人は大工ではないか。マリアの子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄ではないか。その妹たちも、ここで私たちと一緒にいるではないか。」こうして彼らはイエスにつまずいた。
彼らは「この人は大工ではないか」と言っていますね。この部分、マタイの記録では、
【マタイの福音書13:55】
この人は大工の息子ではないか。
となっているんです。ということは、イエス・キリストの育ての親であるヨセフが大工で、恐らくイエスも、ヨセフに習って大工をしていたと思われますね。
そして、「マリアの子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄ではないか。」とあります。ここで彼らは、イエス・キリストのことを、マリアの夫であった「ヨセフの子」とは言わず、「マリアの子で」と言っていますね。実は、キリストがはじめてナザレを訪れた時は、
【ルカの福音書4:22】
「この人はヨセフの子ではないか」
と人々は言っていました。ところが今回は、「マリアの子で」になりました。これらの記録などから、ヨセフは若くして亡くなったのだろうと考えられていますが、かといって、親の名前を読み替える必然性はありません。ではなぜここに来て、父親ではなく、母親の名前を出してきたのでしょう。そこで、深読みが許されるなら、地元の人々は内心、イエス・キリストの出生に疑念を抱いていたのかもしれません。
なぜなら、イエス・キリストの母親は確かにマリアですが、聖書は、マリアがヨセフと結婚する前に、聖霊と呼ばれる神の力によって、イエスを身ごもったと言っているのです。となると、その後結婚したヨセフは、肉体的にはイエス・キリストの父親ではありません。
ゆえに、イエス・キリストはマリアの「処女懐胎」という、人知の及ばない神の力によって誕生した、というのが聖書の一貫した見解なのです。そしてこのことこそ、イエス・キリストが、マリアから生まれた「人」であると共に、聖霊と呼ばれる神の力によって生まれた「神」であることの、最大の根拠となっているのです。
でもこんなことは、イエスが救い主だという信仰に立たなければ、およそ信じがたいことですよね。であれば、当時の人たちも、マリアがもうけたこのイエスは、本当は誰の子なのかと、心の中で勘ぐっていたとしても不思議はありません。そんな思いが、敢えてヨセフの名を出さず、「マリアの子で」と言い換えた言葉の裏に感じられなくもありません。
そして更には、この頃既に、イスラエルの宗教指導者たちが、イエスを救い主とは認めない立場を取っていたことも影響したかもしれません。その情報が故郷にも及んでいたら、人々も自ずと、イエス・キリストに冷ややかだったと想像できますね。なので、幼い頃を知る人々はなおさら、キリストの言葉を素直に受け入れられなかったのではないでしょうか。そこで、キリストの反応です。
【マルコの福音書6:1~6】
6:4 イエスは彼らに言われた。「預言者が敬われないのは、自分の郷里、親族、家族の間だけです。」それで、何人かの病人に手を置いて癒やされたほかは、そこでは、何も力あるわざを行うことができなかった。イエスは彼らの不信仰に驚かれた。それからイエスは、近くの村々を巡って教えられた。
「預言者が敬われないのは、自分の郷里、親族、家族の間だけです」と言って、キリストが「彼らの不信仰に驚かれた」のですね。このことは、初めて訪れた時も言っていて、その時キリストは、旧約聖書からこんな話を引用していました。
それは、かつてイスラエルに飢饉や疫病が流行った時、神はいずれの際も、彼らに悔い改めを迫る「預言者」を遣わしたというものでした。けれども、イスラエルの人々はそんな「預言者」の言葉を聞き入れませんでした。その結果、神の救いは、地元イスラエルの人々にではなく、他の地に住む異邦人に及ぶことになった、というのです。
そして今回も、キリストは彼らが救われるよう、「預言者」としての役割を果たすためにやって来ました。けれでも、地元の人々はまたしても、その言葉を聞き入れませんでした。ゆえに、「そこでは、何も力あるわざを行うことができ」ず、「近くの村々を巡って教えられた」と締めくくっているのです。これが、今日のエピソードの全体像です。
「ご自分の民は受け入れなかった」
さあ、この出来事は、故郷の人々がキリストを受け入れなかったので、キリストが他の地に行ったというものでした。でもこの現象は、ナザレと他の村々という、狭い地域にとどまらず、イスラエルと他の国々、言い換えれば、ユダヤ人と異邦人という、地球的な規模にまで及んでいくのです。
すなわち、イエス・キリストのもたらした福音は、キリストが天に上げられた後、同胞であるユダヤ人の間にではなく、ユダヤ人から見たら異邦人にあたる、私たちの間に広がったのです。それが現代に至る、今のキリスト教世界です。
ただし、キリスト教が広がったこの世界とて、神の目から見れば、ナザレとそれほど変わらないかもしれません。なぜなら、キリストが天に上げられてから2000年が経った現在、キリスト教がもたらした文化や考え方は根付いても、真にイエス・キリストを救い主と信じて仰ぐ人は、決して多いとは言えないからです。このことを聖書は、こう綴っています。
【ヨハネの福音書1:10~12】
この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。この方はご自分のところに来られたのに、ご自分の民はこの方を受け入れなかった。しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。
大変重い言葉です。ここで出てきた「この方」がイエス・キリストです。言い換えれば、この世界は、実は、三位一体の神であるイエス・キリストによって造られたのに、私たち人間はそれを知らなかったというのです。なので、それを知らない私たちの側からではなく、神の側から私たちのもとに来られたのが、イエス・キリストだったというわけです。
ところが、「ご自分の民はこの方を受け入れなかった」とあります。この「ご自分の民」というのが、ナザレの人々であり、また、ユダヤ人です。彼らは今も、イエス・キリストを救い主とは認めていません。
でも、そのことを私たちがとやかく言う資格はありません。なぜなら、私たち異邦人の多くもまた、このイエス・キリストに無関心だからです。なので、こと私たちについては、ナザレでの出来事を教訓として、先ほど紹介した最後の言葉を拠り所としようではありませんか。この言葉こそ、キリスト教が教える、私たちの救いの本質です。こうあります。
【ヨハネの福音書1:12】
しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。
この言葉から、私たちがイエス・キリストを救い主と信じて受け入れるなら、私たちが神の子どもとされるとわかります。そこで、この聖書の約束を素直に信じて、「人々」とあるところに、ご自分の名前を入れてみましょう。それをやって終わりにします。
【ヨハネの福音書1:12】
しかし、この方を受け入れた ●●●、すなわち、その名を信じた ●●● には、神の子どもとなる特権をお与えになった。
(2025.5.15)
