【キリストの足跡をたどる】094_神は私たちの必要を満たされる?

094_神は私たちの必要を満たされる?

【聖書】マタイの福音書15:32~38 
●再び起こった「パンと魚の奇跡」 
●そこにいたのは異邦人か? 
●豊かな養分をともに受ける 

【マタイの福音書15:32~38】
15:32 イエスは弟子たちを呼んで言われた。「かわいそうに、この群衆はすでに三日間わたしとともにいて、食べる物を持っていないのです。空腹のまま帰らせたくはありません。途中で動けなくなるといけないから。」
15:33 弟子たちは言った。「この人里離れたところで、こんなに大勢の人に十分食べさせるほどたくさんのパンを、どこで手に入れることができるでしょう。」
15:34 すると、イエスは彼らに言われた。「パンはいくつありますか。」彼らは言った。「七つです。それに、小さい魚が少しあります。」
15:35 そこで、イエスは群衆に地面に座るように命じられた。
15:36 そして七つのパンと魚を取り、感謝の祈りをささげてからそれを裂き、弟子たちにお与えになったので、弟子たちは群衆に配った。
15:37 人々はみな、食べて満腹した。そして余ったパン切れを集めると、七つのかごがいっぱいになった。
15:38 食べた者は、女と子どもを除いて男四千人であった。

キリストと弟子たちは今、ユダヤ人が住む地元を離れて、異邦人が住む周辺地域を巡っています。そしてガリラヤ湖の東側で、多くの人が身体の不自由な人たちを連れて来たので、彼らを次々と癒やしてあげたのが、前回の出来事でした。今日はその続きです。

再び起こった「パンと魚の奇跡」

【マタイの福音書15:32~38】
15:32 イエスは弟子たちを呼んで言われた。「かわいそうに、この群衆はすでに三日間わたしとともにいて、食べる物を持っていないのです。空腹のまま帰らせたくはありません。途中で動けなくなるといけないから。」

さあ、キリストと群衆は、既に三日もそこにいたのですね。そこでキリストは、彼らを案じて、何か食べさせてあげられないかと言い出しました。

【マタイの福音書15:32~38】
15:33 弟子たちは言った。「この人里離れたところで、こんなに大勢の人に十分食べさせるほどたくさんのパンを、どこで手に入れることができるでしょう。」すると、イエスは彼らに言われた。「パンはいくつありますか。」彼らは言った。「七つです。それに、小さい魚が少しあります。」

さあ、このシーン、以前も似たような事があったのをご記憶でしょうか。それはキリストが、五つのパンと二匹の魚をもとに、男性だけでも5000人いた群衆のおなかを満たしたという奇跡でした。ただし、その時いた群集の多くはユダヤ人でした。

でも今回は、異邦人たちの住むガリラヤ湖の東側に来ています。ということは、そこにいた人たちの多くが、異邦人だった可能性が高いのです。であれば、ユダヤ人である弟子たちにとっては、異邦人というのは、あまり係わりたい相手ではありません。

なぜなら当時のユダヤ人には、「自分たちは神から選ばれた」という「選民意識」があったので、異邦人と食事や生活を共にせず、見下す傾向さえありました。ゆえに弟子たちも、神の祝福やキリストによる救いが、異邦人にまで及ぶとは、思ってもいなかったのです。

ところが、キリストは三日も群衆と共にいて、食事の心配までし始めたのですね。なので、弟子たちは内心、異邦人の相手をすること自体に、戸惑いを感じていたと思われます。

それもあってか、彼らは以前、キリストが五つのパンと二匹の魚を元に、群衆のおなかを満たした奇跡に立ち会っていたにもかかわらず、「こんな大勢に食べさせるパンを、どうやって手に入れられるでしょう」と答えたのでした。

そこでキリストが、パンがいくつあるか尋ねると、あったのは七つのパンと、少しばかりの小さな魚だけでした。続きです。

【マタイの福音書15:32~38】
15:35 そこで、イエスは群衆に地面に座るように命じられた。そして七つのパンと魚を取り、感謝の祈りをささげてからそれを裂き、弟子たちにお与えになったので、弟子たちは群衆に配った。人々はみな、食べて満腹した。そして余ったパン切れを集めると、七つのかごがいっぱいになった。食べた者は、女と子どもを除いて男四千人であった。

さあ、またしてもすごいことが起こりました。キリストが七つのパンと魚を取って、天の父なる神に祈りをささげて裂きはじめたら、男性だけでも4000人いた群衆のお腹が満たされたのですね。ということは、女性や子どもも合わせれば、実際にはその倍はいたかもしれません。そして余ったパンを集めたら、7つのかごがいっぱいになりました。これが今日のエピソードです。

そこにいたのは異邦人か?

さあ、そこで注目したいのは、このことが、異邦人たちの住む、ガリラヤ湖の東側で起こったということです。更に、前回読んだ記事では、集まって来た群衆が「イスラエルの神をあがめた」とありました。この記録、そこにいた群衆がユダヤ人だったら、わざわざ「イスラエルの神を」と断る理由がありません。ということは、彼らが神を信じていないか、或いは、聖書の神とは縁のない、異教の神々を奉じる人たちだったと考えられます。

ついでにもう一つ。以前起こった五つのパンと二匹の魚の奇跡では、余ったパンを集めたら、12のかごがいっぱいになった、とありました。この12のかごとは、日本語の訳では気付きませんが、ギリシャ語では、一般的な小さなかごを指しています。一方今回は、7つのかごがいっぱいになりましたが、こちらはもう少し大きめで、人が入れるようなものまでありました。実はこの点も、注目したいポイントの一つです。

というのは、まず12や7という数字は、聖書を読み解く上では完全数といわれています。これは、数学的な意味での完全数ではなくて、イスラエルの12部族や、神が天地を創造して7日目に休まれたなど、聖書の大事な場面で出て来る、象徴的な数字だからです。

それを踏まえると、ユダヤ人のおなかが満たされた前回は、12のかごがいっぱいになりましたが、この12とは、イスラエルの12部族全体を象徴した数字です。一方今回は、大きめの7つのかごがいっぱいになりました。この7は、天地創造という、地球規模の出来事が完成した時の数字です。それを思うと、聖書が、有り余ったパンを通して、何らかの示唆を与えていると感じられなくもありません。

すなわち、今回集まって来た群衆の多くが異邦人だとすれば、12のかごに象徴されるユダヤ人の必要が満たされたのと同様に、大きな7つのかごに象徴された、異邦人を含む全人類の必要をも、神が完全に満たされることを、暗示したとも思われるのです。

この点、私たちが数字に過度な意味づけをするのは禁物ですが、神がユダヤ人と異邦人とを区別していることを踏まえれば、パンの余り方一つをとっても、前回いた群衆がユダヤ人、そして今回は異邦人だったことを示唆したように窺えるのです。

そこで、異邦人の地を巡ってきたこれまでの記事を通して、聖書全体が語らんとしていることを、もう一度、整理して終わりたいと思います。

豊かな養分をともに受ける

先ず前提となるのが、聖書やイエス・キリストが、ユダヤ人と異邦人とを明確に区別している事実です。これは、人種に優劣をつけているのではなくて、神が、人類の祝福の基とするために一から起こしたのが、ユダヤ民族だったからにほかなりません。そしてその祝福の極みこそ、この民族から出た救い主、イエス・キリストの出現でした。

ところが、当のユダヤ人たちは、後にユダヤ教の経典となる「昔の人の言い伝え」ばかり重んじて、神が授けた聖書の教えから逸脱していたのでした。そこでキリストは、彼らに悔い改めを促しましたが、ユダヤ教の宗教指導者たちは、そんなキリストを受け入れるどころか、悪魔呼ばわりして、殺そうとさえ企むようになりました。

こうした背景もあって、キリストと弟子たちが地元を離れ、異邦人の住む周辺地域を巡り歩いたのが、ここしばらくの出来事です。すると異邦人たちがキリストにすがって来たので、キリストは彼らの必要に応えてあげた、というわけです。

こうした経緯を振り返ると、神の祝福はキリストを通して、先ずユダヤ人に届けられ、その後で、異邦人にも及ぶとわかります。実はこのことを、聖書はオリーブの木にたとえて、こんなふうに説明しているのです。

【ローマ人への手紙11:17】
枝の中のいくつかが折られ、野性のオリーブであるあなたがその枝の間に接ぎ木され、そのオリーブの根から豊かな養分をともに受けている

さあ、このたとえの言わんとしていることがおわかりでしょうか。ここでは、一本のオリーブの木に野生のオリーブが接ぎ木をされて、その根から、ともに豊かな養分を受けると言っています。実はこのたとえでは、はじめにあったオリーブの木がユダヤ人、そして、そこに接ぎ木をされた「野生のオリーブであるあなた」というのが、私たち異邦人です。なので、読み替えるとこうなります。

【ローマ人への手紙11:17】 ※読み替え
ユダヤ人の中の一部が折られ、異邦人である私たちがそのユダヤ人の間に接ぎ木され、そのユダヤ人の根から豊かな養分をともに受けている

このとおり、神はユダヤ人たちが全人類の祝福の基となるよう、彼らに豊かな神の教えを与えて来ました。そしてその最たる出来事が、ユダヤ人の根から出た救い主、イエス・キリストの出現です。そこに私たち異邦人が接ぎ木をされて、共に神の祝福に与るというのけです。実はこうして、旧約聖書の創世記で神が宣言していた、

【旧約聖書・創世記12:3】
地のすべての部族は、あなたによって祝福される。

という言葉が、現実のものとなったのです。ここで言う「あなた」とはユダヤ人、そして「地のすべての部族」が、私たち異邦人を含む全人類です。なのでまとめると、「全人類は、ユダヤ人に接ぎ木をされるように、彼らと共に、神の祝福に与る」というわけです。

但し、せっかく届けられた祝福も、受け取らなければ意味がありません。事実、元々あった「枝の中のいくつかが折られ」とあるのは、ユダヤ人たちの一部が、神の祝福から切り離されてしまったことを示しています。これは、彼らがイエス・キリストを拒絶した結果を表わす、厳かなたとえです。

なので、神が届けて下さった「キリストによる救いの恵み」という豊かな養分を受け取るか否かは、あくまでも私たち一人一人に委ねられている、というわけです。

そこで私たちは、豊かな養分である神の祝福を拒絶するのではなく、喜んで受け取ろうではありませんか。それは、天の父なる神が遣わしたイエス・キリストこそ、ユダヤ人だけでなく、私たちをも救われる、救い主だと信じることにほかなりません。それを私たちが悟るよう、キリストが異邦人の必要を満たされたのが、今日の聖書箇所です。このことを心に留めようではありませんか。

(2026.2.15)

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