新約聖書ってなに?
●福音書:4巻
・マタイの福音書
・マルコの福音書
・ルカの福音書
・ヨハネの福音書
●歴史書:1巻
・使徒の働き
●書簡:21巻
・ローマ人への手紙
・コリント人への手紙 第一
・コリント人への手紙 第二
・ガラテヤ人への手紙
・エペソ人への手紙
・ピリピ人への手紙
・コロサイ人への手紙
・テサロニケ人への手紙 第一
・テサロニケ人への手紙 第二
・テモテへの手紙 第一
・テモテへの手紙 第二
・テトスへの手紙
・ピレモンへの手紙
・ヘブル人への手紙
・ヤコブの手紙
・ペテロの手紙 第一
・ペテロの手紙 第二
・ヨハネの手紙 第一
・ヨハネの手紙 第二
・ヨハネの手紙 第三
・ユダの手紙
●預言書
・ヨハネの黙示録 1巻
※新改訳2017
今日は、聖書を構成している、旧約聖書と新約聖書のうちの、新約聖書を取り上げます。
おさらいとなりますが、旧約聖書は、キリストが来られる前の紀元前に、ヘブライ語とアラム語で書かれた39巻からなっていて、大別すると、律法、歴史書、文学書、預言書に別けられました。それに対して、新約聖書は、キリストが来られた後の紀元後に、ギリシャ語で書かれた27巻からなっていて、福音書、歴史書、書簡、預言書に大別出来ます。
但し、キリストを救い主と認めないユダヤ人たちにとっては、聖書と言えば旧約聖書のことなので、彼らは新約聖書を読むことはせず、昔からの言い伝えを編纂した、タルムードと呼ばれる書物を正典に加えています。それが、現代のユダヤ教です。
また、キリスト教の中でも、カソリックに属する人たちは、旧約聖書続編と呼ばれる書物を第二正典としていますが、聖書のみを拠り所とするプロテスタントでは、ユダヤ人たちが聖書と呼ぶ39巻のみを旧約聖書としています。従って、旧約の39巻と新約の27巻、合計「3927」を合わせた66巻を総称して「聖書」と呼んでいるわけです。
では、新約聖書の中身を概観していきましょう。
福音書:4巻
・マタイの福音書
・マルコの福音書
・ルカの福音書
・ヨハネの福音書
これら4つの書物は、いずれもそれぞれの記者の視点から、イエス・キリストの生涯を描くことを通して、キリストによって齎された、救いの「良い知らせ」、すなわち「福音」を証言した書物なので、福音書と言います。
多くの人は、1番目のマタイの福音書から新約聖書を読み始めます。ただし、マタイは、旧約聖書の知見があるユダヤ人に向けて書いているので、旧約聖書やユダヤ人のことを知らない人には、わかりにくい部分があります。特に、イエス・キリストに関する出来事が、旧約聖書の預言のとおりとなった、ということを数多く紹介しているのが、このマタイの福音書です。なので、ユダヤ人たちにとっては、マタイの福音書は、旧約と新約の架け橋となる、驚くべき内容が書かれた書物なのです。
その点、他の福音書は、ユダヤ人ではない、私たちにもわかりやすく書かれています。中でも2番目のマルコは、簡潔で短いので、初めて聖書を読む人にとっては、読みやすいと思います。
但し、マタイやマルコは、必ずしも時間順に記録を残しているのではありません。そこで、キリストが歩まれた歴史を辿っていくには、順序立てて書いていると言っている、3番目のルカの記録が参考になります。そして、同じ出来事に関する記録が多い、これら3つの福音書は、「共観福音書」とも呼ばれています。
それに対して、いつもキリストのそばにいたヨハネが書いた、4番目のヨハネの福音書は、キリストが語った多くの言葉を書き残している点が特徴です。なので、この4つの福音書を読むことで、キリストがどんなお方で、どんな福音を齎したのかを、多面的に知ることが出来るのです。
歴史書:1巻
・使徒の働き
敢えて歴史書と言っていますが、今挙げた福音書も、キリストの生涯を描いているという意味では歴史書です。その中で、出来事を時間順に並べて書いたルカが、福音書の続きを記録した書物が、使徒の働きです。この中では、キリストが天に上げられた後、聖霊が降臨し、教会が誕生して、ペテロや、新たな使徒となったパウロらを通して、世界にキリストの福音が宣べ伝えられていく様が描かれています。
こうした歴史を神の目線で見れば、聖書は、父と子と聖霊という、三つの位格を持つ一つの神である、「三位一体」の神の働きを示している、とも言えます。すなわち、父なる神が旧約聖書で示していた、救いの計画を実行するために、子なる神キリストが来られたことを示したのが新約聖書の福音書で、その救いを、人々に伝えて完成させるために降られた、聖霊なる神の働きを示した書物が、この使徒の働きなのです。
従って私たちは、「三位一体」という特徴を持つ神の恵みにより、キリストの十字架による死と埋葬、復活が、私たちの罪を贖うためだったと信じる信仰によって救われることを、聖書全体を通して知ることが出来るのです。それを示す言葉をご紹介します。
【エフェソの信徒への手紙2:8~9】※共同訳
あなたがたは恵みにより、信仰を通して救われたのです。それは、あなたがたの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、誰も誇ることがないためです。
ゆえに今、私たちはだれでも、キリストを信じる信仰と恵みによって救われるのです。
書簡:21巻
・ローマ人への手紙
・コリント人への手紙 第一
・コリント人への手紙 第二
・ガラテヤ人への手紙
・エペソ人への手紙
・ピリピ人への手紙
・コロサイ人への手紙
・テサロニケ人への手紙 第一
・テサロニケ人への手紙 第二
・テモテへの手紙 第一
・テモテへの手紙 第二
・テトスへの手紙
・ピレモンへの手紙
・ヘブル人への手紙
・ヤコブの手紙
・ペテロの手紙 第一
・ペテロの手紙 第二
・ヨハネの手紙 第一
・ヨハネの手紙 第二
・ヨハネの手紙 第三
・ユダの手紙
福音が宣べ伝えられて、信じる者の集まりである教会が各地に形成されると、正しい教えを正確に知らせる必要が生じてきました。また、信じて救われたとはいえ、多様な人々が集まる教会には、さまざまな課題があるものです。
そこで、人々に正しい教えを伝え、信仰が成長するよう、使徒パウロやペテロ、ヨハネなどが書き送った手紙の数々が、一連の書簡群です。これらは、福音書などと同様、書き手の個性が生かされ、送り先の事情に即した内容でありながらも、神の導きと守りのうちに書かれた言葉であるとして、聖書に収められています。参考までに、パウロが書き送った手紙の一部をご紹介します。
【コロサイ人への手紙3:12~13】
あなたがたは神に選ばれた者、聖なる者、愛されている者として、深い慈愛の心、親切、謙遜、柔和、寛容を着なさい。互いに忍耐し合い、だれかがほかの人に不満を抱いたとしても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。
こうした手紙が諸教会で回覧され、今も私たちの信仰や生活の規範となっているのです。
預言書:1巻
・ヨハネの黙示録
さて、福音書に書かれたイエス・キリストに関することは、旧約聖書の予告のとおりに実現した出来事でした。けれども、旧約聖書の預言には、まだこれから起こることも数多く書かれています。そしてキリストは、天に上げられる前に、極めて重大な言葉を残されました。それが、将来キリストが、再びこの世界に戻って来る、という予告です。
すなわち、キリストがこの世界に来たのは、実はまだ、2度あるうちの1回目の出来事に過ぎなかった、というのです。そして1回目の目的は、私たちの代わりに十字架に架かって罪を贖うという、人には考えもつかない、救い主としての到来でした。なので、この出来事は、神がこの世界に初めて来臨したという意味で、「初臨」と呼ばれます。
それに対して、キリストが将来、再びこの世界にやって来ることを、「再臨」と呼びます。そしてその時は、1回目のようにではなく、諸悪を滅ぼし、神の国を打ち立てる、罪を裁く王として来られるというのです。
そこで、これから世界で起こる艱難と、キリストの再臨によって打ち立てられる神の国、そして世界が終わり、全く一新された新天新地へと至る、私たちの想像を超えたスケールの預言が書かれた書物が、ヨハネの黙示録です。
ここまで皆さんにお伝えすると、そんな現実離れしたことは信じられない、と思われても不思議ではありません。けれども、聖書に書かれた様々な預言は、全てそのとおりに実現してきたことを忘れてはいけません。その最大の出来事が、イエス・キリストの初臨です。
結論を申し上げると、ヨハネの黙示録は、聖書を信じようとしない人にとっては、決して理解出来ない、恐怖に満ちた書物に過ぎません。一方で、聖書の言葉を素直に信じて受け入れる人にとっては、将来を約束した希望の書に他なりません。なぜなら、聖書の神は、信じる人に神の国を約束し、その先の新天新地にまでいざなうと保証しているからです。その預言の言葉をご紹介します。
【ヨハネの黙示録21:3~4】
「見よ、神の幕屋が人々とともにある。神は人々とともに住み、人々は神の民になる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである。」
最後に書かれた、「以前のもの」とは今のこの世界のことで、この言葉は、今の世界が過ぎ去った後に誕生する、新天新地の描写です。
従って、聖書の預言が着実に実現してきたことを鑑みれば、キリストによる私たちの救いや永遠の命は勿論、キリストの再臨と神の国、そしてそれに続く新天新地が必ず到来することを、私たちは自ずと悟ることが出来るのです。その希望で終わる書物が、新約聖書の最後にある、ヨハネの黙示録です。
まとめ
以上、ざっと新約聖書を概観しました。この未来の希望で終わる新約聖書と、世界の始まりから描いた旧約聖書をを正典として、そこに書かれたことを信じるのがキリスト教です。なので、聖書を歪曲したり、特定の教祖を崇める類の団体は、キリスト教ではありません。そして、聖書は最後にこう宣言しています。
【ヨハネの黙示録22:12~13】
「見よ、わたしはすぐに来る。それぞれの行いに応じて報いるために、わたしは報いを携えて来る。わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである。」
ここで勘違いしてはならないことが二つあります。「見よ、わたしはすぐに来る」とは、神の時が満ちたら速やかにキリストが再臨されるという意味です。なので、キリストがいつ来られるかは誰にもわかりません。
そして「それぞれの行いに応じて報いる」とは、罪人を裁く一方、キリストの救いを信じた人を裁きから免れさせ、信じた結果に報いて下さることを意味します。
従って、私たちは先ず、聖書に書かれてあるとおり、イエス・キリストの十字架による死と埋葬、復活が、私たちの罪を贖うためだったと信じることが先決です。その上で、信じた人には、永遠の命に加えて、神の大きな報いがあることを聖書は約束してくれているのです。
そこでぜひ、私たちを救うため、神が贈って下さった、この聖書の言葉を素直に受け入れ、キリストの十字架による救いに与ろうではありませんか。
(2023.9.15)
